あると安心なものというのがある。私の場合には、みえないものや消えてなくなるものが多い。
たとえば、バスルームの中ではジャスミンの香りの石鹸やコットンリネンのバスソルト。好きな作家の書く物語も本を閉じれば消えてしまう。お香、紅茶(お茶全般)コーヒーなど嗜好品のかもす馥郁たる余韻。目をとじて、あぁおいしいと思うや、消えてなくなる。
この季節は秋の木の実がはじける匂いも大好き。今も外出して、外へでた瞬間に、空気が香っている。
鈴虫やコオロギが羽をふるわせる音、野鳥の声、蝉しぐれも。お湯や水の感触もいい。
(最近ではオーガニックコットンやリネン類、冬はカシミアのものしか体がよろこんでうけつけなくなっていく。それも年々。若い頃はそこまでで、なかったのに)
言葉をかえるならば、なんでもオッケーという若い頃の柔軟性が消えて、許容範囲がせまく頑固になってきたのかいもしれない。
消えてしまうものというには、少し違うけれど。視覚においても影響力が変わってきた。若い頃はともかくビビッドな青やオレンジに惹かれた。いまは黄色!圧倒的にレモンイエローだ。(暮らしの中のさし色としての黄色という意味)
そばにあると幸せだと思う。
よろこばしい、すごく。
上の写真のレモンは実はイギリス製の軽い紙粘土のようなものでつくられていて、神戸のマンドレイク、という店で買った。家族は「なんだこれ、こんな作り物をどうして使うのよ」と聞くが、レモンの固形をみるだけで、口の中が酸っぱさで唾がたまってきて、爽やかになる。視覚から力をもらうのだ。
たとえば外出の時にはイエローのショールを首にまいているか、大事な仕事の時には、家でもこれを肩にかけて原稿を書くようになった。実は秋用の黄色いシャツや少しからし色っぽいセーター、冬のカシミアショールにも「黄色」をもってくるほど凝る、女になってしまった。
なぜ黄色? と考えていて。最近わかったことには、黄色いものは月の光にとても近い明度をもっているのではと思う。そばにあると安心で明るさに守られている気がする。
上の写真のレモンは実はイギリス製の軽い紙粘土のようなものでつくられていて、神戸のマンドレイク、という店で買った。家族は「なんだこれ、こんな作り物をどうして使うのよ」と聞くが、レモンの固形をみるだけで、口の中が酸っぱさで唾がたまってきて、爽やかになる。視覚から力をもらうのだ。
たとえば外出の時にはイエローのショールを首にまいているか、大事な仕事の時には、家でもこれを肩にかけて原稿を書くようになった。実は秋用の黄色いシャツや少しからし色っぽいセーター、冬のカシミアショールにも「黄色」をもってくるほど凝る、女になってしまった。
なぜ黄色? と考えていて。最近わかったことには、黄色いものは月の光にとても近い明度をもっているのではと思う。そばにあると安心で明るさに守られている気がする。
これはわたしが本で読んだネタなのだが、作家の江國香織氏は、
「音楽にいつも助けられてきたと書いていた。幼い頃からお父さんはジャズを。お母さんはシャンソンをきいていたので、わが家には音楽がいつも溢れていた」といったいた。
江國氏本人は、執筆中には無音か、あるいは「バッハのバロック音楽」を聞くという。
なぜなら「心がゆさぶられるものはこまる。書く時は、安心できるものでなければ」と話されていた。
いつも自分らしく心の安寧と均整をとるため、なにかをそばに持ちたい。決して不変ではない、けれどいまは大事なもの。そういう拠り所が少しでも多くあれば幸せじゃないかと感じる。
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