日本列島で発掘された一番古い磨製石器は約3万8千年前のもの、これは今のところ世界で一番古い磨製石器だそうです。
磨製石器とは人工的に磨くなどして加工して作った石器です。この磨製石器の出現が「文明」の始まりとするなら、日本は世界で最初に文明が生まれた地だということができるのです。
そうして今から1万6千300年前に、縄文土器が出現します。この縄文土器も今のところは世界でもっとも古い土器だとされており、日本列島というのは実は、文明の最先端の地であったということが、考古学的に実証されている、といえるわけです。
この磨製石器を使っていた人々、いわゆる「岩宿人」と縄文人との間には、遺伝子的にほとんど違いがないことが証明されています。つまり岩宿人がほぼそのまま縄文人に移行した、と考えていいわけです。
およそ1万3千年続いた縄文時代は、水田稲作の登場をもって弥生時代に移行するわけですが、かつては縄文人と弥生人は別の民族であるとされていましたね。
曰く、稲作文化を持った弥生人が大挙して日本列島に渡ってきて、縄文人を駆逐し日本を支配した、その長が皇室の祖である、みたいなことが言われていたわけですが、
その説は間違いであることが、近年の研究で明らかとなっています。
まずは縄文から弥生への移行期に大規模な戦争の跡がまったく出土しないこと。縄文人と弥生人との間に、大規模な戦争は行われていないんです。
さらには最新の遺伝子研究から、縄文人と弥生人との間に、大きな遺伝的違いが見られないことがわかっています。
つまり、縄文人と弥生人は「同じ」民族なのだ、ということなのです。
しかし、縄文人と弥生人とでは、顔つきや体形などに顕著な違いが見られます。よく「縄文顔」と「弥生顔」あなたはどっち?なんてことが言われるように、見た目には大きな違いがある。
これはどういうことなんだろう?
縄文文化と弥生文化を分けるもの、それは水田稲作ですね。縄文時代にも堅果類や野菜類の栽培は行われていたとはいえ、食料の調達はほぼ狩猟採集に頼っていた。日本列島は自然環境に恵まれていましたから、それで十分やっていけた。しかし縄文時代も終わりごろになるにつれて気候が寒冷化し、食料調達がかつてほどではなくなっていった。
そんなときに、大陸の方で生まれた水田稲作文化を持った人々がやってきた。それは小規模な人数で、到底征服者となれるほどの人数ではなかったでしょう。縄文の人々はそんな彼らが持ってきた稲作技術に興味をもった。
こうして日本列島に稲作が広まっていき、弥生時代が始まった、そう考えるのがもっとも妥当だといえるのです。
稲作技術を伝えた渡来人はいたし、その人々との混血もあったでしょう。しかし渡来人の数は圧倒的少数であったと思われ、決して彼ら渡来人が縄文人を駆逐したわけではない。弥生文化の担い手となった人々は、ほとんどが縄文人だったのです。
では縄文人と弥生人との間に見られる身体的特徴の違いはどう説明するのか?
それは、戦後70年の日本人の体形の変化を見ればわかることです。
大東亜戦争終結後、日本人は欧米の食文化を積極的に取り入れた。それまで米ばかり食べていた日本人がパンを口にするようになり、米の消費量は年々低下するばかり。この間日本人の顔つきや体形は大きく変化してきました。食糧事情の変化が、日本人の見た目に大きな変化をもたらしたのです。
これと同じことが、縄文人と弥生人との間に起こった。縄文人と弥生人との見た目の違いは、食糧事情の変化にあったというわけです。
磨製石器を作った岩宿人から、縄文人弥生人、そして現代日本人に至るまで、日本人はずっと1本で繋がっているのです。とはいえ、特に「純血種」というわけではありません。数万年に亘る日本列島の歴史の中で、世界中から様々が人々が列島にやってきて、混血しそれが緩やかに単一化されていった。そういう意味では日本人は、多種多様の血が入り混じったかたちで出来上がった民族であり、多様性がある。しかし一方では、一つの民族として緩やかに統一されており、そういう意味では単一でもある。
つまり日本人とは、
【多にして一、一にして多】
な民族なのです。
なんだかとても
ありがたく、面白い。
そう思いません?