諸事情により、しばらく記事投稿が滞る、かも知れません。ご了承のほど。
藤原経清の忘れ形見、清原清衡が青年となったころ、今度は清原氏に内紛が勃発します。
内紛の中身は大変ややこしいので、ここは思いっきり割愛します。で、この時期に中央から任官されてきた陸奥国司が誰かと言うと、
源義家なんです。
義家はかつて、父・頼義とともに奥州に下向し、父の無念をその目で見ている。だから今度こそは、その無念を晴らしたい、奥州の豊かな権益を独占したい。
義家は清原氏の内紛に介入し、結果内紛は戦乱へと拡大します。
これを「後三年合戦」と申します。
中身は思いっきり割愛しますが(笑)、このいくさにより最終的に奥州の権益を手に入れたのは、
清衡でした。
朝廷は義家の軍事介入を私欲によるもので公益性はないと断じ、またしても源氏は奥州の権益を手にすることができませんでした。
失意のうちに奥州を去る義家。その胸には奥州への遺恨、因縁がより深く刻まれていたことでしょう。
さて、清衡は父・藤原経清の姓を継いで「藤原清衡」を名乗ります。京の朝廷への宮廷工作も怠りなく、多大な供物を贈ることで、清衡公は朝廷より、実質的な奥州の支配権を手にします。
朝廷側からすれば、奥州はあまりにも遠く、律令制度が事実上崩壊してしまっている現状を鑑み、納税さえ怠らなければ、後は好きにしていいよ、という方針だった。清衡公はそこに上手く乗っかったわけですね。
清衡公は磐井郡・平泉の地に居を構え、この地を奥州の都として発展させていきます。
清衡公は平泉を、仏教思想に根差した平和都市とすることを目標としていた、といわれています。その生涯を戦乱の巷で過ごした清衡公は、二度と奥州に戦乱を起こしたくないという思いを強く持っていたようで、それは清衡公が建立した中尊寺の供養願文に、その思いが強く述べられており、この清衡公の願いを旨として、平泉は大都市へと発展していきます。
平泉政権は基本的に、京の朝廷の意に逆らわない方針を取り、中央から派遣されてくる陸奥国司を丁重にもてなし、朝廷との間になるべく波風を立てないようにしつつ、その独自性を保ちつづけました。その権威はあくまで京の朝廷から与えられる官位に依拠しており、そういう点では完全なる独立国家とは言えないけれども、その独自性を保ち続けたという点では
半独立国家だったとは
言える、かもしれない。
さて、この時代、陸奥国司として任官されてきた人物に、藤原基成という人物がいます。基成は自身の娘を平泉藤原氏二代、藤原基衡公に嫁がせ、自身は政治顧問的な立場となって平泉に残ることになります。この基成が京と平泉とのパイプ役となって、平泉政権はより盤石なものとなっていったようです。
この基成の父の従兄弟に、あの一条長成がいたのです。
そうです、義経公の母、常盤御前が嫁いだ、あの一条長成です。
義経公を平泉に招いたのは、おそらくは基成のアイデアだったのでしょう。この時平泉は、三代秀衡公の代になっていました。秀衡公としては、当時中央で勢力を争っていた源氏と平氏双方に対する、ある種の「保険」のようなつもりで、義経公を引き取ったのでしょう。
そうして秀衡公は、義経公に尋常ならぬ「天賦の才」を見出した。
義経公はおよそ6~7年間、平泉で過ごすことになるのです。
10代から20代にかけての、最も多感な時期を。
つづく。