一ノ谷の合戦の後、義経公は朝廷より「検非違使」に任命されます。
検非違使とは京都の治安維持に努める軍事警察のようなもの。武士の出世の足掛かりとなる役職で、大変な栄誉でした。
義経公は頼朝も当然喜んでくれると思った。
しかし、頼朝は自分の許可を得ずに、家人が勝手に任官することを禁じており、義経公の行動に激怒します。
義経公には「兄弟」だからという甘えがあったのかもしれません。しかし頼朝から見れば義経公は兄弟といえど家人の一人。秩序を破ったことを簡単に許すわけにはいかない。
頼朝はプロの政治家。一方の義経公は軍事の天才ではあっても、政治のことはわからない。それに肉親と離れて育ってきたが故に、肉親の情に餓えており、ついつい甘えてしまい部分はあったでしょう。
結局義経公は鎌倉へ入れず、京都での暮らしを余儀なくされます。
京都の朝廷は義経公を巧みに取り込もうとするし、頼朝には義経公に対して疑心暗鬼が芽生えてくる。「義経は謀反を起こすつもりではないのか!?」
頼朝はついに、義経公に刺客を放ちます。
これを辛くも逃れた義経公は、態勢を立て直して頼朝と戦うため、九州を目指します。しかし乗り込んだ船が台風に巻き込まれ難破。義経公は僅かな手勢と吉野の山中に逃れます。
朝廷は頼朝にせっつかれ、義経公追討の院宣を出している。謀反人となってしまった義経公を匿ってくれるとしたら誰か。
思いつく人物はただ一人。
奥州に独自の文化を築き、若き日の義経公を育ててくれた人物。
奥州平泉三代目御館
藤原秀衡公。
義経公一行は山伏姿に身をやつし、一路平泉を目指します。
つづく。