三木市久留美 曹洞宗 慈眼寺(じげんじ)
大化4年(648)に法道仙人の開基と伝えられ、一時荒廃したが南北朝時代に播磨の守護、赤松則村(円心)が暦応2年(1339)に再興した。
赤松円心と言えば鎌倉幕府末期の豪族(地頭)であり倒幕から南北朝時代のキーマン
当時幕府荘園領主に逆らうものを悪党と呼び、円心しかり楠木正成も悪党であった。
歴史小説・北方謙三著「楠木正成・上下刊」にも円心登場。ハードボイルド歴書でおすすめです。
さて、本題彫刻
ここの彫刻がやっかいです。シンプルに蛙股に龍、木鼻に像だけなのですが・・・
新井弥三郎正次???いや違うか?もどき師か?
浪花彫刻にも感じるところもあり・・・木鼻は、中井一門にも思います。
もっともな推測が龍=新井・木鼻=中井一門?合作かな・・・
木鼻と蛙股は別の時代かもしれません。
山門 彫刻は不明 新しい時代のものと推定
境内奥に鼠小僧次郎吉の墓あり
明治初年に東京は両国の回向院から分墓
墓石の破片を持っていると博打で勝てるという俗信から、墓石を欠損する者が多いので現在は祠に入っている。
鼠小僧次郎吉と言えば義賊の伝承で有名ですね
本名=次郎吉
生、寛政9年(1797年)~天保3年8月19日(1832年9月13日)歿
大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯
ウィキペディア内の説によると
金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えると伝説がある。
しかし現実の鼠小僧の記録を見るとこのような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから江戸時代における反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使われることが多い。
これについて資料が残されていない中で鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測があり、彼が大名屋敷を専門に狙った理由については敷地面積が非常に広く一旦中に入れば警備が手薄であったことや男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別されており、金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいという盗みに入りやすかったという理由が挙げられている。また町人長屋に大金は無く、商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は参勤交代等に代表される江戸幕府の経済的な締め付けや謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれがあるという理由で警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。
捕らえられた時には金銭はどこにも残っていなかったそうなので博打もそんなに強くなかったのでないですかね?破片を持っていても賭け事勝てるかどうか?
龍の首の角度とか、この龍に近いと思いません?
木鼻はどちらも中井っぽいですよね。
それとも、青龍軒ってところなんでしょうか?
などですよね。わかればすっきりするんでしょうが・・・
蓮花寺=次回レポート予定。の龍は新井ではないですね。
木鼻は正貞だと思います。