スピリチュアルな体験談

自分で体験した事を書いていきます。不思議な出来事など。
軽口だけれど自然に対しては敬虔な気持ちでいます。

全国学力テスト開示問題

2008年12月16日 | インチョの酒
大阪の橋下さんも推していた全国学力テストの結果開示。
積極的には開示しない方向らしい。
けさ、早く起きてしまったのでニュースを見ていて物凄い違和感を感じた。

理由が、序列を産むから。って。
ははは。どこの良い大人が子供みたいな事いってるの?と。

子供同士では暗黙の了解で、結果をお互いに見っこして
誰が勉強できる、できないとか すでに 見えない序列はできている。

開示されて序列を感じてこまるのは
生徒の学力の結果の数値に右往左往する学校の先生達や教育関係者たちでしょう。

学力は、「ある決められた一定の事が理解できますよ」という目安であって
やはり要領よくできる人たちは 仕事の面でもそつなくこなす能力が高いし
人と人との関係においても 無茶なことはしにくい(しないといえないのが辛いところですね。)

日本の場合 暗記がメインで想像とか応用が訓練されていない所が
学力≠社会的賢さ  の判断の難しさなのですが

じゃあね、結果を公表せずに”どの学校も学力は一定ですよ”なんて
うやむやにして見せ掛けの一並びになれば 安定した社会になるのか?
良い国だといえるのか、国民はニコニコなのか?という事で、

残念ながら、どの世界にも序列は存在するし むしろ こんなに平均的な国は
日本くらいだとおもいます。
動物や植物の世界でも弱肉強食があるし 人間よりシビア。

この問題で”モンダイ”なのは
学力の序列=社会的な序列 と思い込まされる価値観と それしか判断材料に
できない大人達の愚劣化 だと思う。

子供の頃、年齢も体型も性別もバラバラな近所の子たちと遊んでいて、
別に小さい子が行動遅いから遊ばないとか 
(泣くし、おしっこもらすからうっとおしいってのはあったけど) 
大きいお兄さんが一番強いかっていったら違ったり
弱いけど凄く優しい性格だったりと
多様性があって、それぞれに良い所、悪い所があるもんだと子供ながらに
お互い理解しあって協調していたように思う。  

学力のある子だって、自分の伸ばせる勉強分野で誇れるものがあれば
心の支えになるだろうし、学力がない子でも脚が早かったりゲームがうまかったり
面白い子だったりと それぞれの分野で輝く事は普通にしている事だったように
感じる。

こどもの頃はそういう協調を自然としていたけれど
いま現在、多様性を見る事ができなくなったおとなが社会を握っていて
自分達の狭い視野と価値観(学歴、権力 金 異性w)くらいしか
評価できなくなっちまったこと、しがみついちまってる事が
子供の世界にまで波及している事が 気持ち悪い。

又、その構造からはずれた人たち(自分を負け犬と卑下するひとたち)も
それ以外の価値を創造することをしようともしなくて むしろ
その構造にこびへつらい、おこぼれを頂戴するか 愚痴こぼし批判だけするか
何かかすめとってやろうという
根性が染み付いているように感じる。


日本の子供たちの目つきはさながら小さい大人みたいにぐっしょりしていて
薄ら寒く感じる時が多々ある。外国にいくと子供の目がこどもらしく感じる。

コトナちゃん。私がよく使う言葉で
大人なのに大人のような知恵を身に着けていない人のこと。

コトナがあふれてる日本では、このくらいのうすらっぺたい判断しか
できないのかなあと 先行き不安です。