あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか塾 69

2025-01-13 16:45:37 | あすか塾 2025年

    あすか塾 69

                          

《野木メソッド》による鑑賞・批評              

 

「ドッキリ(感性)」=感動の中心

「ハッキリ(知性)」=独自の視点

「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 野木桃花主宰 一月号「日向ぼこ」

地の微熱小春日和のつづきをり

 小春日和の暖かさは、季節外れの帰り花を誘うことがある陽気ですね。それを「地の微熱」という、ほんわりとした暖気の表現にしたのが実感的ですね。

宅地化のここまで迫る返り花

 自然の山林の宅地化の趨勢は止まることを知らないですね。「返り花」という気候の番狂わせのイメージでその開発の進行ぐあいを表現した句ですね。

しづしづと身を燃焼の囲炉裏端

 囲炉裏の炭火のじんわりとした温かさを「しづしづと」と表現して、実感がありますね。古民家の一家団欒の景が浮かびます。

皿小鉢人数分をお正月

 お正月ですから、家族、親族が集っている景でしょう。普段は使わない量の皿小鉢の登場です。場の賑わいが感じられる句ですね。

 「風韻集」一月号から 感銘秀句

小春日のとんぼの軽さ友逝けり     安齋文則

「小春日」は初冬の季語「小春」の子季語で、「とんぼ」は三秋の季語ですから、季重なりになっていますね。蜻蛉の軽さに肉体を離れた友の御霊を思ったという句意だと解せますから、「とんぼ」は動かせませんね。その季節外れ感も意図した表現でしょうか。

身構えしばったに道を譲りたり     磯部のり子

 道端で出くわした飛蝗を前に一瞬、立ち竦んだ作者の心身の様が伝わる句ですね。そして自分の方が道を譲った・・・・作者のやさしさと緊張と緩和のドラマがありますね。

土踏まず枯野の温み持ち帰る      大木典子 

 枯野を散策をして帰宅した後の感慨の表現ですね。歩いたときの野の感触と、全身で感じた空気感、その記憶を足の土踏まずに凝縮して表現したのが詩的ですね。

断崖(きりぎし)を粧(あか)してをりぬ蔦紅葉       大澤游子

 通常「粧す」は「めかす」と読みます。「あか」とルビを振ってあり、作者のオリジナルの読み方の提示をした句ですね。「めかす」と読むと、身なりを飾りたてる、おしゃれをする。など、少し非難やからかいの気持ちが混じる意味になります。作者は女性が化粧をしたときの晴れやかで浮き立つような気持ちを込めたのでしょう。蔦紅葉に相応しい表現ですね。

時雨るるや太古の息吹く宇豆柱     大本 尚

 出雲大社に参拝されたときの句でしょうか。「宇豆柱(うずばしら)」は大社造りの本殿を支える大きな円柱です。それが発見され、神話に書かれていた宙に聳える大社が実際にあったことが証明され、話題になりましたね。その根元の部分が保存展示されています。この句ではその時間的な感慨を上五に「時雨るるや」と置いて表現したのがいいですね。

バッテリー付の自転車天高し      風見照夫

 ただの自転車ではなく、バッテリー付の電動自転車。秋空の下、その軽やかな気分が伝わりすね。動詞がなく、名詞と季語だけでもそれが表現できるのが俳句の良さですね。

をちこちに母の面影菊の庭       金井玲子

をちこち」は「遠近」と書き、遠い所と近い所=あちらこちら、という意味と同時に、時間の、昔と今との意味もある言葉ですね。この句では、「庭」のあちらこちらに菊が咲いたという景ですが、「母の面影」という言葉で、その菊を植えたのが生前の母だったということも想像させられます。菊が好きだった母の面影を偲んでいるのですね。

正座して「一」と墨書す涼新た     近藤悦子

 漢字の「一」を真横に気を入れて勢いよく墨書している景で、その颯爽とした動きが涼を感じさせる句ですね。自分の姿でもいいし、書道教室の生徒の姿でもいいですね。 

救急車音消し路地へ残暑なほ      坂本美千子

 狭い路地に救急車がサイレンを鳴らして入ってきて、近くでピタリとその音が止んだのですね。ご近所さんに何か異変があったのか、と思案させられますね。「残暑」続きの日々の緊迫感のある一コマですね。

梨食めば梨の音してひとりなり     鴫原さき子

自分が食べている梨の音しかしない静寂。つくづく「ひとりだなー」という感慨の表現が巧みですね。さき子さんは他に「さびしさは祭太鼓が連れてくる」「落蝉の泣き尽くしたる軽さかな」「人を恋う限りは老いず百日紅」と投句のすべてが秀句で感服します。

冬うららひとつの名字一部落      摂待信子

 一村すべての家が同じ名字。昔は普通にあった景ですが、今は少なくなったでしょう。その村の歴史性を感じる句ですね。

月さやか一畑薬師の番茶汲む      高橋光友

「一畑(いちばた)薬師」は目のお薬師さまとして全国的な信仰の広がりをもつ臨済宗の古刹。千百年の歴史ある薬師信仰の総本山で、出雲神話の国引きの舞台を一望できる島根半島の中心部、標高二百メートルの一畑山上にあります。その参拝時の句で、夜景のようです。

ひと夜さの句読点めく咳ひとつ     高橋みどり 

「さ」は名詞に付いて方向の意を添える接尾語ですが、この句では方向ではなく、その場での「一夜の」という使い方をした句ですね。家族の誰か一度だけ咳をしたのが聞こえたのですね。時間がそこで一区切りついたような上手な表現ですね。  

農事組柏手打ちて感謝祭        服部一燈子

 「農事組」(農事組合)は農業生産の協業、組合員の共同の利益を増進することを目的として、農業協同組合法に基づいて設立される法人ですね。農地、労働力等を提供し合い農業経営を行います。人的結合の強い組織だそうです。この句はそれを共同の「感謝祭」の景として簡潔に表現していますね。結束の強さが伝わりますね。

膝撫でて秋意を払ふ文机        宮坂市子

 「秋意」は秋の気配、趣のことですね。それを「払ふ」というのですから、のんびり季節感に浸っている気分を断って、真剣に何かに取り組もうとしているようです。高齢になると正座は膝に負担がかかって困難になりますが、それでも正座して、文机に向かって俳句の推敲か清書か、あるいは書き物をしているのでしょう。

晩秋の夕べ首輪の光る犬        村田ひとみ

 日没の時間の早まる晩秋の夕べ。日課の犬の散歩の景を見かけたのでしょうか。太陽光線が低く、水平とまでいかない低い角度で差し込んでいて、犬の首輪の金具がキラリと光っています。平和な空気が流れている句ですね。

家中に灯を点してもこの秋思      柳沢初子

 晩秋、家の中が暗く感じられるのはその明度だけのせいではなく、心の明度だということを、家中の灯を点す行動で巧みに表現した句ですね。

老人たあ俺の事かよ落葉焚       矢野忠男

 江戸っ子の気風(きっぷ)の良い言い回しで、お道化てみせている表現ですね。暗くならないで、自分の老いを明るく受け入れているようで気持ちがいいですね。下五に置かれた「落葉焚」も、今はもう町角で見かけなくなった郷愁を誘う言葉ですね。

夕立晴盆地の一寺一社を巡り初む    山尾かづひろ

 一念発起して神社仏閣詣でをはじめたのですね。でも一寺一社しかない小さな盆地の村のようです。八方が山に囲まれた雨上りの夕空が浮かびます。

白秋や逝かねばならぬ吾子の思ひ    吉野糸子

 もう恢復の見込みのない重い病に罹患され、静かに自分に残された短い時間を噛みしめているような、健気な子供を見守るしかない母の気持ちが、上五の「白秋」に込められていますね。「白秋」の語源は陰陽五行説の「西に相当する色が白、季節が秋」から来ていて、「白秋」は秋の異称で、「玄冬」「朱夏」「青春」と並んで、年代別の人間のライフサイクルを構成する言葉としても扱われています。この言葉を上五に置いたのには、ただの秋ではなく、そんな思いが込められているのでしょう。

 「あすか集」一月号から 共感好句

秋の声肩甲骨のあたりから       笹原孝子

 個人的な感想ですが、「あすかの会」の席上、この句に出会ったとき、肩甲骨が見えている短いスポーツウェアを着て体操している、健康的な若い人の後ろ姿を想起しました。その向こうに紅葉と秋の澄んだ空が見えます。

遠野ふるさと村囲炉裏当番       須賀美代子

 民話の故郷として有名になった遠野村では、古民家の囲炉裏端で、現地の民話の語部をしている人がいます。九州生れのわたしには何を話しているのか解りませんでしたが、音楽のように心地よい調べのように感じました。この句からその調べが聞こえます。

晩秋の買い物籠に荷がいっぱい     須貝一青

 何かと物哀しさの漂いがちな晩秋、「買物籠に荷がいっぱい」という口語的な調べが、その暗さを吹き飛ばして、明るい気持ちにさせてくれる句ですね。

回覧板届けて泥の藷もらふ       鈴木 稔

 ご近所どうし仲良くしている、健全な地域コミュニティが生きている町の雰囲気を感じる句ですね。高いビルやマンションなど、コンクリート建造物の少ない、戸建ての庭にそれぞれ菜園などを持っている落ち着いた家並が浮かびます。

西行庵へ杉山の闇冬近し        砂川ハルエ

 西行庵は、平安時代の最末期に西行法師が二年余り過ごしたところですね。西行は大峰奥駈修行(熊野から吉野までの祈りの道を登拝する修行)を志して吉野に来て、二度満行したと伝えられます。その二度の修行の間に目にした吉野の桜に魅せられた西行が、この後、全国行脚の際に各地で吉野の桜を褒めちぎったことで、吉野が全国に知られる桜の名所になりました。この句ではその桜ではなく、暗い杉山の闇に注目して、下五の「冬近し」で修行の厳しさを暗に表現しました。

野菜掘る猪三頭が来てをりぬ      関澤満喜枝

 自分の所有する畑なのか、専門の農家の畑なのか、野菜を食べ散らかしている猪の姿に出くわしたようです。土地開発が進んで猪たちの居住圏が接近したせいで近年増えている獣害の一コマかも知れません。

日を浴びる鍬の柄が好き赤とんぼ    高野静子

 童謡の赤とんぼが止まっているのは物干し竿の先ですが、この句では鍬の柄なのですね。畑仕事の合間に置かれた状態か、畑仕事が済み洗って干してある鍬の状態なのかわかりませんが、どちらにしても牧歌的な景が、いいですね。

鉢巻の完走せしか捨案山子       高橋富佐子

 一物俳句だと解すると、鉢巻きをしているのは捨案山子ですね。まるでマラソンで完走した後みたいだな、という感慨の表現ですね。捨案山子でキレる二物俳句だと解することもできますので、その場合、鉢巻きをして走っていたのは人間のランナーで、みんな完走できたかなと、捨案山子を見て回想している意味にも解せます。わたしは前者かなと解しました。

これより山道仰げば葛の花       滝浦幹一

 葛は蔓長十mから十五m程になるマメ科のつる性多年草ですね。山道などで繁殖すると道や土手などを覆ってしまう勢いがあります。その様が目に浮かぶ表現の句ですね。

木の実落つ足にやさしき園の上     立澤 楓

 この句の園が、なんの園なのかわかりませんが、「足にやさしき」で芝生や短い草に覆われた園内が想像されますね。落ちた木の実もやさしく受け止められた、という景が浮かびます。作者の眼差しのやさしさも伝わります。

前脚でドア開ける猫秋の風       千田アヤメ

 家飼いの猫は器用にドアを開けたりしますね。だけど決して、その後閉めることはしません。明けっぱなしにしたままになります。そこから秋風が吹きこんできたようです。和やかな室内の空気を感じる句ですね。

新米を山と盛りつけ仏壇に       坪井久美子

 いつも新米の季節にしてきたことなのでしょう。今年は異常気象のせいで新米の出荷が遅れました。でも無事に手に入ったようですね。あるいはお米農家の方でしょうか。

一体はみつばちハッチの案山子かな   中坪さち子

 タツノコプロのメルヘンアニメ代表作『昆虫物語 みなしごハッチ』のことですね。ミツバチ王国の王子は、スズメバチに襲われ母と離ればなれになってしまい、まだ見ぬ母を探すために旅へ出て、当初は気も弱く幼かったが、旅を続けるうちに心身共に成長し立派なミツバチになった、という大人気のキャラクターですね。周りの空気が和みますね。

天気図に台風四つ今朝の冬       中村 立

 日本に上陸した台風の数は増えてはいませんが、大型化、兇暴化しているそうです。すべて地球温暖化の異常気象のせいですね。多くの被害が報道されました。そんな台風が天気図で四つもあるなんて。下五が「今朝の冬」となっていて、台風は仲秋の季語ですが、冬に到来しているのも異常で、あえて季重なりの俳句で、その異常さを表現したのですね。

石蕗の花咲き満ち足りて庭静か     成田眞啓

 石蕗の花の様を「満ち足りて庭静か」と詠めるのは、作者の心がそのようであることの投影ですね。

公園の樹木只今療養中         西島しず子

 近年の異常気象で異変を来しているのは、人間だけではないようですね。この句では公園の樹木にも被害が及んでいることを詠んだのですね。専門の樹医が弱った樹の具合を見ているようです。作者の心配そうな気持ちも伝わります。

秋桜の風にたゆたひきはやかに     乗松トシ子

 揺蕩いを「たゆたひ」と古語的なひらがな表現にして、際やかにという、際立ったさまも、「きはやかに」とひらがなで表現して、風に揺れる秋桜のしなやかさを巧み表現した句ですね。

貸し農園程好く育つ秋茄子       浜野 杏

 農作物を育てるのが好きで、農園を借りて茄子などを育てているのですね。世話をせず放ったままではうまく育つものではないですから、「程好く」育ったのは、作者の世話のお陰なのですね。

一本の紅葉隣りの庭たのし       林 和子

 自宅に紅葉を植えてあるのではなく、お隣さんの紅葉なのですね。ユーモラスな句調で、その秋の色をお裾分けしてもらったという表現ですね。

自然薯の戦嫌ひて土の中        平野信士

 戦を厭うているのは作者の心ですが、まっすぐ地中に伸びる自然薯に、その思いを託した、巧みな表現の句ですね。

新札を初めて使ふ今年米        曲尾初生

 令和六年七月三日に、新しい一万円札、五千円札、千円札が発行 されました。 二〇年ぶりのことですね。そのピン札を揃えて、新米を買ったのですね。祝祭めいた語調がいいですね。

りんご剥く子等の散髪済ましし手    幕田涼代

 子供たちの散髪も自分でやる、器用で働きものでやさしい母親の姿が浮かびます

梵鐘のくぐもり届く露の朝       増田綾子

 空気が澄んでくる秋になると、遠くの鐘の音がよく聞こえるようになりますね。でも「露の朝」、空気がまだ湿っていて、その音色がくぐもって聞こえたという、繊細な表現の句ですね。

転勤の辞令一枚おでん鍋        水村礼子

 転勤の辞令書とおでん鍋の取り合わせが新鮮な句ですね。近々、違う職場環境に向かうことになる心境を、おでん鍋にこめたのがいいですね。

銀杏をトングで拾い笑む翁       三橋光枝 

 地面に落ちたばかりの銀杏の果実は異臭があるので、手で触れたくないですね。持参のトングで拾っているお爺さんと、微笑み交わしている作者の眼差しがやさしいですね。

自転車で犬の散歩や冬に入る      緑川みどり

  個人的な解釈ですが、飼い主が高齢になられて、日課の犬の散歩に、足腰の負担を感じるようになって来られたのだろうか、と解しました。大変だけど、愛犬に付き合ってあげたいという飼い主の気持ちに寄り添った表現ですね。

中華街色とりどりや秋の雨       望月都子

 中華街の店の看板などの装飾は、独特の色合いですね。雨までその色に染まっているような表現ですね。

秋寂びや一人の席増え町喫茶      保田 栄

   馴染みの喫茶店があり、馴染みの客がいたのでしょう。その数も減り、ボックス席で談笑しつつコーヒーを飲む客が減り、個客が増え、それに対応して席までも壁に向かった一人席が増え、何か寂しさを感じている表現の句ですね。

また一人アドレス消えぬ秋の暮     矢吹澄子

   住所と言わず「アドレス」と言えば、媒体が電子メール用のデジタル名簿を想起しますね。手書きの住所録しかなかった頃を思うと隔世の感がありますね。共にそんな時代の変遷を体験してきた親友が亡くなったという感慨深い句ですね。

次の世へ渡りし友や虫すだく      吉田 史

友人の死を「次の世へ渡りし友」と、終わりではなく、人生の旅の第二章のように表現した味わい深い句ですね。

種採りの農婦の手許風やさし      安蔵けい子

   農婦の手元に吹いているのは、作者の眼差しというやさしい風ですね。

歌好きの兄弟姉妹初座敷        内城邦彦

 未成年の兄弟姉妹であるとも解せますが、私は成人して今は別々に暮らしていて、正月の実家に集っている景を想起しました。歌もカラオケなどではなく、歌カルタ、つまり百人一首に興じているように感じました。

冬ざれや無人となりし過疎の村     大谷 巖 

素直にそのままの景を詠んでいるようにも思えますが、この飾らない素朴な表現に、無人の過疎の村の寂しさを感じました。

本読のページの奥へと夜長の灯     大竹久子

 秋の灯下親しむ読書の景を詠んだ句ですね。自分の読書の、視線の動きのテンポを表現しているようで、趣がありますね。

日の短「猫さがしてます」のチラシ   柏木喜代子

 自宅のポストに「猫さがしてます」という写真付きのチラシが入っていたのですね。気ぜわしさの中に心配ごとまで加わった、日暮れの早い冬の日の一コマですね。

みちのくや過客の二人に雁の空     金子きよ

 これは芭蕉の「おくのおそ道」を踏まえた句ですね。芭蕉と連れの二人姿を思っての句か、作者の実体験か、どちらか分かりませんが、下五に「雁の空」を置いて定番の構図ですね。

古民家にのこる縁側小鳥来る      神尾優子

 「のこる縁側」という言葉で、現代の戸建てからもマンションからも、それが無くなってきていることを表現していることが解りますね。昔はそこに小鳥もやって来ていたのだと。

手水舎の水の痛さよ冬来る       木佐美照子

「手水舎(てみずや)」は神社で参拝者が身と心を清める場所ですね。真冬にはそれが痛いように感じます。身の引き締まる思いですね。 

夜半の秋若き父停つ夢枕        城戸妙子

 父親が若くして亡くなっているのですね。そこで記憶の時間が止まりますね。

引き摺って詣でる吾子の千歳飴     久住よね子

 千歳飴は小さい子どもには長すぎますよね。よく見かける景で、共感します。

眼科医のこゑ透きとほる四温光     紺野英子

 三つの感覚を一句に詠みこんだ巧みな表現ですね。「眼科」の「眼」の視覚、「こゑ」の聴覚、「四温光」の「四温」の暖気という触角。その三つを中七の「透きとほる」で束ねた句ですね。

 部屋中の満たされてをり月の宴     齋藤保子

 この表現、たとえば「部屋中が満たされてをり月の宴」だったら、読者はどう感じ取ったでしょうか。「月の宴」とは月を眺めながら催す宴、観月の宴のことですから、ただ宴が真っ盛りであるだけの印象しか残らないのではないでしょうか。「部屋中の満たされてをり」の「の」と「満たされてをり」という表現で、人の宴だけでなく「月光」がそれを包み込んでいるような、光まで感じる表現になっていますね。

 

                                                          ※        ※

 

講話

 

あすか塾 69 資料1 本歌取りについて 

 

〇 和歌から和歌、短歌への本歌取り

 

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山(注)浪越さじとは     清原元輔

 

【現代語訳】誓いましたよね。涙に濡れた袖を絞りながら、末の松山を波が越すことがないように、ふたりの思いも変わることはないと。

百人一首に収められている歌です。この歌の本歌は古今集にある

きみをゝきてあだし心をわが持たば 末の松山浪も越えなん

いう歌です。

「あなたをさしおいて もしもわたしが浮気心を持つならば、末の松山を波が越えてしまうでしょう」という内容ですが、末の松山は丘なので、そもそも波が越えることはあり得ません。なので「浮気なんて絶対ないよ」という歌です。

これを本歌としてつくられた清原元輔の歌は、「そう約束していたのになぜ…」と反問しているのですね。

 

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし   二条院讃岐

 

【現代語訳】潮が引いたときでさえ水面に見えない沖の石のように、人は知らないでしょうが、わたしの袖は乾く間もないのです。

この歌のもととなったのは和泉式部の歌

わが袖は水の下なる石なれや 人に知られで乾く間もなし」です。

「わたしの袖は水の中の石でしょうか。人に知られることもなく、乾く間もないのですから」これが本歌ですが、

二条院讃岐が作った歌の方が評価は高かったようです。

讃岐はこの歌をきっかけに「沖の石の讃岐」というニックネームで呼ばれるようになったそうです。

春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空    藤原定家

 

【現代語訳】春の夜の、浮橋のようなはかなく短い夢から目が覚めたとき、山の峰に吹き付けられた横雲が、左右に別れて明け方の空に流れてゆくことだよ。

この歌の本歌は二つあると考えられます。壬生忠峯が詠んだ

風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君か心か

と、周防内侍が詠んだ

春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ

です。それだけでなく、定家の歌にある「夢の浮橋」は源氏物語の最終帖のタイトルから取った言葉です。「ほぼ本歌の言葉だけでできている歌」というほどの作品ですが、定家はそれをうまく構成して歌を作ったのです。

定家の歌には感情を表す言葉が入っていませんが、本歌に込められた感情・虚しさが反映されているので、読者にはそれが感じられるのですね。

 

本歌取りとは、現代でいう「オマージュ作品」であり、「元の作品の心情や雰囲気を反映させた新しい作品を生み出す表現技法」だということ。

 

〇 和歌から俳句への本歌取り

  

  可惜夜(あたらよ)の桜かくしとなりにけり   齋藤美規

  玉櫛笥明けまく惜しきあたら夜を衣手離れて独りかも寝む 万葉集九・一六九三

  (たまくしげ あけまくをしき あたらよを ころもでかれて ひとりかもねむ)
 

俳句の句意 

「可惜夜(あたらよ)」は「明けてゆくのが惜しい、もったいないような良い夜」の意。恋にかかる枕詞。「桜かくし」は宮坂静生の「地貌季語」の解説では、新潟の東蒲原郡の地区の言葉で、桜の咲くころに降る春の雪のこと。句意は「恋人たちが夜桜を見にゆくという、願ってもない良い夜が、思いがけず雪になってしまった」というような意味、 

万葉の歌意

玉は美しい「あく ひらく」などにかかる枕詞。櫛笥は櫛や化粧道具を入れる箱。「かれて」は漢字にすると「離れて」に当る。

「明けてゆくのがもったいないような良い夜に、お前と遠く離れて一人で寝ないといけないのだろか」

 

〇 俳句から俳句への本歌取り

世にふるも更に宗祇のやどり哉    芭蕉

   世にふるも更に時雨のやどりかな    宗祇

宗祇は、室町末期の漂泊の連歌師。応仁の乱の頃、都が荒廃し、当時の貴族や文化人たちは都を離れ諸国を流浪。宗祇はそのなかで特に有名な連歌師。生涯を旅に過ごし、諸国を歩き回り最後は箱根で没。芭蕉の句は、時雨の降る中、自分も室町末期の漂泊の連歌師・宗祇のように旅に生き、旅に死んでゆくのだと詠んだわけです。

 

〇 現代俳句の現代短歌からの本歌取り

 

人を訪はずば自己なき男月見草   中村草田男

向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男  寺山修司

燭の灯を莨火(たばこひ)としつチェホフ忌  中村草田男

莨火を床にふみ消して立ちあがるチェホフ祭の若き俳優  寺山修司

わが天使なるやも知れず寒雀  西東三鬼

わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 寺山修司

鳥わたるこきこきこきと罐切れば  秋元不死男

わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば 寺山修司

草田男も三鬼も不死男も寺山修司が好きだったようですね。

 

 注 参考「末の松山」

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは

末の松山は、宮城県多賀城市八幡の独立小丘陵にある景勝地。

二〇一四年(平成二十六年)十月六日より、「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝にも指定された。南西側の丘陵裾部に「沖の石」がある。

「大津波が超えてはならぬ」という意で歌枕となったとされる。

 昔、大津波が襲来したが、津波が末の松山を超えることはなかったということに由来する。

また貞観地震と同様に、東北地方に津波による甚大な被害を出した二〇一一年の東日本大震災の際も、周辺の市街地では二メートルの浸水があったが、末の松山に波がかぶることはなかった。

 

〇 楽しい応用問題

では問題です。現代歌謡曲編です。

谷村新司の『昴』という歌謡曲の次の歌詞くだりは、石川啄木の短歌の本歌取りです。さて、それぞれ、どんな短歌でしょうか。

二首とも啄木の代表作と言われる有名な短歌です。

 

  一番 眼を閉じて何も視えず・・・

  二番 呼吸(いき)をすれば胸の中 凩は哭き続ける・・・

 

答え

 

 一番  眼閉づれど、

心にうかぶ何もなし。

さびしくもまた、眼をあけるかな

 

二番  呼吸(いき)すれば、

胸の中(うち)にて鳴る音あり。

     凩よりもさびしきその音!          

 

『悲しき玩具』より

 

 

  

 

 

 

 

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