いよいよ、卒業式、入学式シーズンの到来ですね。
先日、息子が4月から通う小学校の学校説明会なるものに出かけてきました。
入学にあたって準備するもの、小学生になる前に子どもに身につけて欲しい心構え、などについて話を聞く集まりです。
行く前からなんだか行きたくなくて、行ってみてやっぱり来たくなかった、て思ってしまいました。
底冷えのする体育館、四角い仕切りがズラっとならぶ下駄箱、だだっ広い校庭、子どもの名前が書かれたお揃いの鉢植え…。
そして、校長先生のお話、副校長先生のお話、教務主任の先生のお話。正しくて、なんだか窮屈な気持ちになるお話。
資料には、集団活動を大切にする、と書いてあるのに、違う所には個性を重んじるとか書いてあって、「でましたっ、このダブルスタンダード!」、とか、心の中で一人ツッコミしてました。
無機的な世界、個性を許してくれない世界、集団ありきの世界。この、学校というところが醸し出す独特の雰囲気。
あー、あの頃のままだ。私が学校に通っていたあの頃のまま。
そう、思ったら最後。
まずい。喉がキューと締まる感じ。重苦しさ、息苦しさ。
と、私の過去の痛みが、反応するわするわ。
いや、目の前の固有の学校が悪いわけじゃないんです。私の中にある、学校に対する記憶やイメージが、その雰囲気を学校から過剰に感じとっているのです。勝手に。
うちに帰ってぼんやり思いました。
息子が、入学して、学校行きたくないって言ったら、私はどうするのかな。学校というものに、こうした負の体感を抱えている私が、息子にどんな言葉をかけるんだろう。
無理やり学校に行かせることはしないと思うけれど、すぐさま行かなくていいっ!なんて言うつもりもない。行かなくていい、という選択肢が、そんなに簡単にはじき出されるものでもない、という事が、直感だったり、経験則からわかります。
ただ、学校に行かないと大人になってから困るよ、とか、友だちはみんな行ってるのに君だけ行かないなんておかしいよ、的に、恐怖や不安で息子を動かしたくもない。
まあ、そんな起こってもいないことはどうでもいいことなんですが、大切な息子を送り出す側の私の中のモヤモヤ。少しでも、解決しておきたい。
🔹🔹🔹
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そんな面倒くさい母など意にも介さず、
息子は、じいじばあばが買ってくれたランドセルで小学生ごっこをご満悦。
「のび太みたい~!」
のび太みたいになりたいわけじゃないらしいけど、のび太の送っている小学生生活には憧れているみたいです。
学校にどうして行きたいの?
あえて、息子に聞いてみました。
給食食べれるから
漢字を教えてもらえるから
なるほどー、ま、大した理由じゃないっすね。
嫌な事もあるかもしれないよね、と言っても、反応薄い。
幼稚園や保育園でも、多分、多少の嫌なことは経験してるから、嫌なことのない世界を彼の無意識は盲信していないはずだけど、そこを差し引いても、やっぱり
息子は、
学校を楽しい所だと思っている。
学校は何かを得る場所だと思っている。
学校は何かいいことがありそうな所だと思っている。
ってことです。
そうか、そうなんだね。
学校は、いいところ、なんだね。
君には。
じゃあ、この際、私も探してみようかな。君か学校に行きたくないって口にした時に、君にちょっぴりでも語れるためにも。
私が学校で楽しかったこと、学校で得たこと、学校に行って良かったと思うことを。
どうして学校に行ったほうがいいんだろ、ってことの答えも。
漢字が書けるようになった
九九がマスターできた
勉強はやればできることを知った
成績がわりと良かったからそこにプライドを置くことができた
詩と感想文で賞を取った
まだある、まだある。
小学生三年生で親友ができた
家にいないことで母に息抜きを与えられた
中学の修学旅行は楽しかった
合唱コンクールで優勝して泣いた
高校の友だちが尾崎豊の存在を教えてくれた
私を好きになる異性がわりとたくさんいることを知った
恋をした
まだまだ、ある。
どんどん出てくるわ。
あらら、学校は意外に、いいところだったかもしれない。少なくとも、役に立つ場所だったかもしれません。
🔹🔹🔹
夫に、そんな話をしたら、彼が少しだけ粋な事を言いました。
つまらない事をつまらない事とわかった上で、理不尽な事を理不尽と知った上で、あえてやってみる、校則とか道徳とか、学校が言う頓珍漢な事をあえて面白がってみる、乗っかってみることも、大切っていうか、ムダなことではないんじゃない?
学校を素晴らしい事を学ぶ場所にしないで、つまらない事を学ぶ場所ってことにしてもいいんじゃない?
そんな風に期待を下げて、力を抜いたら、確かに気分は楽です。
私は、息子の行く先々が、素晴らしい場所でなければならない、と思っていたのですね。
素晴らしさ、は、一見、素晴らしくないところにも宿っていたりするのかもしれない。そこを見抜く力を磨く場所であるのかもしれないな、学校は。そうあってほしいな、と思います。
職場でも、そんな話をしてみたら、先輩ママが言ってくれました。
「大丈夫、大丈夫。先生も昔と随分違うよ。手厚いというか、ものすごく丁寧に子どもに接してくれる」
そうなんだー。私の過去からの感情だけで、学校というものを定義しちゃダメてすね。
まあ、しのごの言わず体験してみるしかないんですな。私も息子も。少なくとも、息子の方は腰が引けてないわけですしね…。
🔹🔹🔹
というわけで、
この春から、小学生の母になります、私。
先日、息子が4月から通う小学校の学校説明会なるものに出かけてきました。
入学にあたって準備するもの、小学生になる前に子どもに身につけて欲しい心構え、などについて話を聞く集まりです。
行く前からなんだか行きたくなくて、行ってみてやっぱり来たくなかった、て思ってしまいました。
底冷えのする体育館、四角い仕切りがズラっとならぶ下駄箱、だだっ広い校庭、子どもの名前が書かれたお揃いの鉢植え…。
そして、校長先生のお話、副校長先生のお話、教務主任の先生のお話。正しくて、なんだか窮屈な気持ちになるお話。
資料には、集団活動を大切にする、と書いてあるのに、違う所には個性を重んじるとか書いてあって、「でましたっ、このダブルスタンダード!」、とか、心の中で一人ツッコミしてました。
無機的な世界、個性を許してくれない世界、集団ありきの世界。この、学校というところが醸し出す独特の雰囲気。
あー、あの頃のままだ。私が学校に通っていたあの頃のまま。
そう、思ったら最後。
まずい。喉がキューと締まる感じ。重苦しさ、息苦しさ。
と、私の過去の痛みが、反応するわするわ。
いや、目の前の固有の学校が悪いわけじゃないんです。私の中にある、学校に対する記憶やイメージが、その雰囲気を学校から過剰に感じとっているのです。勝手に。
うちに帰ってぼんやり思いました。
息子が、入学して、学校行きたくないって言ったら、私はどうするのかな。学校というものに、こうした負の体感を抱えている私が、息子にどんな言葉をかけるんだろう。
無理やり学校に行かせることはしないと思うけれど、すぐさま行かなくていいっ!なんて言うつもりもない。行かなくていい、という選択肢が、そんなに簡単にはじき出されるものでもない、という事が、直感だったり、経験則からわかります。
ただ、学校に行かないと大人になってから困るよ、とか、友だちはみんな行ってるのに君だけ行かないなんておかしいよ、的に、恐怖や不安で息子を動かしたくもない。
まあ、そんな起こってもいないことはどうでもいいことなんですが、大切な息子を送り出す側の私の中のモヤモヤ。少しでも、解決しておきたい。
🔹🔹🔹
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そんな面倒くさい母など意にも介さず、
息子は、じいじばあばが買ってくれたランドセルで小学生ごっこをご満悦。
「のび太みたい~!」
のび太みたいになりたいわけじゃないらしいけど、のび太の送っている小学生生活には憧れているみたいです。
学校にどうして行きたいの?
あえて、息子に聞いてみました。
給食食べれるから
漢字を教えてもらえるから
なるほどー、ま、大した理由じゃないっすね。
嫌な事もあるかもしれないよね、と言っても、反応薄い。
幼稚園や保育園でも、多分、多少の嫌なことは経験してるから、嫌なことのない世界を彼の無意識は盲信していないはずだけど、そこを差し引いても、やっぱり
息子は、
学校を楽しい所だと思っている。
学校は何かを得る場所だと思っている。
学校は何かいいことがありそうな所だと思っている。
ってことです。
そうか、そうなんだね。
学校は、いいところ、なんだね。
君には。
じゃあ、この際、私も探してみようかな。君か学校に行きたくないって口にした時に、君にちょっぴりでも語れるためにも。
私が学校で楽しかったこと、学校で得たこと、学校に行って良かったと思うことを。
どうして学校に行ったほうがいいんだろ、ってことの答えも。
漢字が書けるようになった
九九がマスターできた
勉強はやればできることを知った
成績がわりと良かったからそこにプライドを置くことができた
詩と感想文で賞を取った
まだある、まだある。
小学生三年生で親友ができた
家にいないことで母に息抜きを与えられた
中学の修学旅行は楽しかった
合唱コンクールで優勝して泣いた
高校の友だちが尾崎豊の存在を教えてくれた
私を好きになる異性がわりとたくさんいることを知った
恋をした
まだまだ、ある。
どんどん出てくるわ。
あらら、学校は意外に、いいところだったかもしれない。少なくとも、役に立つ場所だったかもしれません。
🔹🔹🔹
夫に、そんな話をしたら、彼が少しだけ粋な事を言いました。
つまらない事をつまらない事とわかった上で、理不尽な事を理不尽と知った上で、あえてやってみる、校則とか道徳とか、学校が言う頓珍漢な事をあえて面白がってみる、乗っかってみることも、大切っていうか、ムダなことではないんじゃない?
学校を素晴らしい事を学ぶ場所にしないで、つまらない事を学ぶ場所ってことにしてもいいんじゃない?
そんな風に期待を下げて、力を抜いたら、確かに気分は楽です。
私は、息子の行く先々が、素晴らしい場所でなければならない、と思っていたのですね。
素晴らしさ、は、一見、素晴らしくないところにも宿っていたりするのかもしれない。そこを見抜く力を磨く場所であるのかもしれないな、学校は。そうあってほしいな、と思います。
職場でも、そんな話をしてみたら、先輩ママが言ってくれました。
「大丈夫、大丈夫。先生も昔と随分違うよ。手厚いというか、ものすごく丁寧に子どもに接してくれる」
そうなんだー。私の過去からの感情だけで、学校というものを定義しちゃダメてすね。
まあ、しのごの言わず体験してみるしかないんですな。私も息子も。少なくとも、息子の方は腰が引けてないわけですしね…。
🔹🔹🔹
というわけで、
この春から、小学生の母になります、私。
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