鏡や磨きぬかれたニス塗りの床。
または、綺麗な林檎。
そこに写る自分の顔が見える。
でもそれは、目ではない、瞳が見ているのではない。
命あるモノではないから。
生命。
生きているものは全て、一つづつ持っている。
だから生きている。
そんなこと当たり前だ。。
誰でも知ってる。
じゃあ、自分の生命を、これだよって、出して見せることができるだろうか。
色はこんな色で、形はこうで、重さはこのくらいって、自分の生命を表すことができるだろうか。
無味・無臭・無色・・・・・
でも、生命がなければ、瞳に写るものは、ただ写りこんでいるりんごと同じになってしまう。
その生命を現すとしたら。
地獄のような苦しみを感じたり。やみくもに人に害をもたらしたくなったり、争いたくなったり、天にも舞うような喜びを感じたり・・。
または、人を助けたいと感じて、その行動を起こしたり、そして、喜んでもらって嬉しかったり。
これもただ単に、それのみではない。
地獄のような苦しみの中でさえ、喜びを感じることも有るでしょう。
災害に見舞われた中で安否の確認を待ち、生きて再会できた時の喜びは、まさしくそれ。
また、戦火の中で、国を越えて人を助けている人たちが、どうしても分ってもらえない時大いなる志を持ちながらも味わう悔しさ。
生命は、形はなくても、己が感じることがらであらわすことができる。
音楽を聴いて心が癒されたり、写真を撮って楽しむ、見てもらって誉めてもらって味わう喜び。
悩みが大きければ生命も大きいのかもしれない。
ここにあるアイスクリームを誰にも分けずに自分で食べようかどうしようかと悩むこと。
友の悩みに自分も寄り添い、解決の糸口を見つけようと悩むこと。
その差は無いのだろうか。
そしてその生命は、一瞬にして変わっていく。
さっきまで笑っていた生命が、何かのはずみで何かが縁して怒りで充満してしまう。
瞬時に。
そして時に自分の感情でさえ、コントロールできなくなるときがある。
悔しさに押しつぶされそうになり、悲しさに沈んでしまう。
楽しいことを考えよう。美味しいお酒を飲もうとするも、いつもの自分を維持できないときがある。
そんな難しい生命を一人一つづつ持っている。
それが生きているということ。
与えられた期間は、どれくらいだろう。
それさえも、自分自身わかる術もない。
ただ、生ききること。
与え持った生命の傾向性とともに。
変えたいと思ったら変えることも自由。
鍛えたいと思うのも、坂道を転がっていくことも。
誰にも掴んで奪い取られることのない、生命。
自分が自分で自由自在にできる生命。
大きな大きな一人の生命。
地球から見たら、小さな細胞の一つ。
どう生きるかは・・・・