たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

自分以外の人と接する基本 <対等な関係で「性的同意」>を読みながら

2018-06-23 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180623 自分以外の人と接する基本 <対等な関係で「性的同意」>を読みながら

 

今朝は薄曇りといった風でしょうか。それでも高野の峰々は濃緑色の形状をしっかりと見せてくれます。そういえば町石道をへとへとになって登ったとき最大の成果?があったのを忘れていました。ずっと私が山の名前を間違って同定していたのに初めてわかったのです。

 

北方から高野の山並みを見ると、すぐに目立つのが雪池山です。そのすぐ背後(南側)にある楊柳山(988)は周辺で最高峰といってもいい1008mの高さがありますが、隠れて見えないのです。同じようにその南方にある転軸山(915m)も同じです。ちょっと東にずれた位置にある摩尼山(1004m)は突き出ていますのでわかります。ということは高野三山と入れる楊柳山、転軸山、摩尼山のうち、北側の下方から見上げてみえるのは摩尼山だけではないかと思います(ある場所に立って角度によっては楊柳山も見えますが絞られるでしょう)。

 

他方で、弁天岳(984m)も高野の山の中ではほぼ西端に位置して高く、その南方に大門があるので、私は位置関係から、いくつかの三角形をした山の西端とおぼしき山をそうだとおもってきました。ところが、町石道の途中で見晴台があり、そこから見える高野の山々についての銘々だと、私が思っていた山よりずっと離れたところにある奇妙な格好の山容がそれだったのです。それはおもったより高野の町が広がっていることの証でもありますが、いかに私の見立てがいい加減か証明されてしまいました。

 

それではたと困ったのは、いつも見えている雪池山より西方で弁天岳を除いて、3つくらいの頂はいったいなんという山だろうかと疑問がわいてきました。ネットでみえる2.5万分の1の地形図ではそこまでの名前が載っていません。詳細な地形図を買うしかないかと思案中です。

 

ところで、高野の地は、空海が修行の地として選んだだけでなく、浄土の世界を表しているとも言われ、8つの峰々に囲まれ蓮の花が咲いたような場所として形容されることもあると言われています。その高野8葉についても諸説あるようです。ウィキペディアでは<八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)>とされています。

 

しかし、これを外八葉と内八葉があるとして、前者は上記の8葉(別の見解もあり)、後者は<伝法院山 勝蓮花院山 真言堂後山 正智院山 御社山 薬師院山 中門前山 持明院山 >(これも別の見解があり)といわれているようですが、こうなると余計、それがどこに当たるのか、ますます混乱してきます。やはり2500分の1くらいの地形図を備えないとだめか?いやますます混乱に拍車をかけるかもと、当分は様子見となりそうです。

 

とここまで余談が長引いてしまいました。ここから本論です。昨日の毎日記事に<くらしナビ・ライフスタイル対等な関係で「性的同意」>というタイトルで、<「性的同意」>という耳慣れない?言葉がとりあげられていました。

 

その学生の中に、女子栄養大の学生が写っていて、そういえば昔、同大の教授と研究会をやって親しくさせていただいていたことから、女子学生を相手に話をしたことがあったのを思い出しました。もう四半世紀以上前の話ですが。なんの話をしたのか、もしかしたらボルネオの熱帯林調査の話でもしたのかしら、まったく覚えていませんが。栄養学などを専攻する女子学生ですので、どれだけ関心を惹いたかはわかりませんが、笑顔がまぶしかったように思います。

 

また脱線しましたが、<セクシュアルコンセント>がテーマとなって、実践的な取り組みが始まっているようです。

 

<講師で慶応大4年の戸谷知尋(ちひろ)さん(22)が、そう問いかけた。「相手に問いかけて、OKが返ってくること」「お互いが心から望んで、そうしたいと思うこと」。マイクを渡された参加者は口々に答えた。戸谷さんは、こう続けた。「全ての性的な行為において確認されるべき同意のことです。互いの積極的な意思表示、つまり言葉で表すことが大切です」>と。

 

戸谷さんが<活動に参加したきっかけは数年前、大学内のサークルで起きた性暴力事件だった。被害者も加害者も同世代の大学生。もし自分や友だちが被害に遭ったり、逆に遭わせてしまったら……。レイプではないけれど、同意のないキスは耳にしたことがある。・・・「性に向き合う文化を持っていきたい」と思い立ったという。>

 

そうですね、性的関係というか性文化そのものをタブー視する土壌が残っているのかもしれません。

 

<昨年から仲間とクラウドファンディングで資金を募り、集まった約170万円で冊子を作製した。・・・

 拒むと身の危険を感じる時の「YES」は「同意」ではなく、社会的地位や力関係に左右されない対等な関係性が大切な要素--。冊子は、そう記す。・・・特に強調するのは、性的言動では「アクションを起こす側に同意を取る責任がある」ということだ。>

 

いずれも本質的な問題提起ですね。昔、インフォームドコンセントが話題になりました。こういった同意を具体的に示す、あるいは同意を得て相手に何かを行うという文化・意識がわが国では十分に理解されないまま、置き去りにされてきたのではないかと思うのです。それは以心伝心なんてことや同じ民族だから言わなくてもわかるとか、勝手な理屈でやり通してきたのかもしれません。

 

しかし、そこにはたいていの場合、身分制があったり、支配服従の関係があったり、家制度による規律があったりで、基本的には差別の構造を背景にしていることが割と見過ごしにされてきたように思うのです。

 

現在問題になっているセクハラ、パワハラ、マタハラ、あるいはDVなどの問題も、基本は同意を得て行うという意識が根付いていないことに大きな要因があるのではないかと思います。それはあらゆる社会のあらゆる言動についていえるかもしれません。

 

それは専門職の立場での言動でもありえますし、弁護士なんかも心しないと、その言動に大変な不快感やあるいは傷つけることにつながることもあるでしょう。

 

その意味で、戸谷さんたちの活動はまずは、基本的な性的行為について同意原則を訴えるもので、正しい方向を目指していると思いますし、よりひろがることを期待したいと思うのです。

 

<作製の背景には昨年の刑法改正がある。現行の強制性交等罪(旧強姦(ごうかん)罪)の条文には「暴行または脅迫を用いて」とある。このため、性行為への同意能力があるとみなされる13歳以上が被害者になる場合、抵抗が著しく困難な程度の「暴行または脅迫」が犯罪成立の構成要件になる。昨年の改正にあたって議論になったが、撤廃は見送られた。>

 

たしかに改正された<強制性交等罪>は、<抵抗が著しく困難な程度の「暴行または脅迫」>が認められないと、相手の同意がなくてもOKというのですから、旧来の「同意軽視社会」(私の造語)を反映しているといってよいかもしれません。

 

学校教育において、同意の重要性を学ぶ必要がありますし、それこそ長い期間をかけて、医療分野のインフォームドコンセントと同レベルの意識改革が必要ではないかと思うのです。

 

<「どれくらい抵抗したか」が重要なのではなく、「同意がない性行為は性暴力に当たる」という考えを根付かせたい。「NOと言ったか」ではなく、「YESと言ったかどうか」が求められる社会に変えたい--。冊子には、こうした思いが込められている。「嫌よ嫌よも好きのうち」という俗説や、性について語り合いにくい雰囲気は今も残る。だからこそ、戸谷さんは思う。「文化を変えて、同意が当たり前の社会にしたい」>こういう動きに、世の中全体が理解を示すようになってもらいたいものです。

 

<性的同意は全ての段階で得ることが原則だ。>という繊細な意味合いを私たちは理解し、受け止めないといけないと思うのです。そして欲を言えば、さらにさまざまな言動についても。いまは性的同意がます大事ですので、これを本格的すすめて、同意を必要とする社会づくり、人間づくりをしていくことを期待するのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


セクハラの問題性 <「セクハラ罪」という罪はない 麻生財務相が発言>を読んで

2018-05-06 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180506 セクハラの問題性 <「セクハラ罪」という罪はない 麻生財務相が発言>を読んで

 

連休に入って、赤いバラの花を買いました。背が1m余でしょうか、車の中に入れるのが大変でした。最近は割と背の高い花を求めてきましたが、それでも図抜けています。それが2~3mの高さになるというので、来年は楽しみです。とりあえずは事務所の花の中で偉そうにしています。

 

花は小さい花も、大きい花も、真っ赤で鮮やかな花もくすんだ灰色がかった花も、どれ一つをとっても個性的でそれが魅力です。折り曲がっていても、枯れてしまっても、花なのですね。集団の中にいてもどれも偉ぶることがありませんし、言葉を通じたハラスメントも当然ながらありません。むろんいずれも太陽や雨を求めたり、虫や鳥に魅力的な容姿や香りで引きつけることで、競争していても、人間社会のような破廉恥なハラスメントはありませんね。

 

今朝の毎日記事<セクハラ疑惑「セクハラ罪」という罪はない 麻生財務相が発言>を読んで、またかと思いながら、取り上げたくもない話題ですが、どうもわが国の中には腐った心根があるように思えて仕方なく、ついタイピングをしてしまいました。

 

というのは今朝のNHKニュースで、電車内でのチカンについて、ある女性がフランス語で出版したところ、フランスで話題になっているそうで、フランスでも混雑した電車では痴漢があるそうですが、安全な国日本でそれがひどいことが話題になっているとか。

 

電車内の痴漢(それ以外も問題ですが)はとても恥ずかしい行為ですし、被害に遭われる女性の気持ち、立場を考えると、傍観者もひどいと思いつつも、これを許すような社会意識がまだ日本には残っているのではないかと思ってしまいます。

 

そのことと今回の前財務事務官のセクハラ発言、それを容認するかのような麻生大臣はじめ自民党議員の発言にはどこか共通するような女性に対する過った感覚なり意識が心の奥深くに残っている、前世紀の遺物のようなものとして蓄積しているように思ってしまいます。

 

セクハラは多種多様な言動ですので、単なる言葉だけもあれば、さらに行為に至るものも含まれています。むろん後者は強制わいせつとか、強制性交や淫行勧誘などの刑法犯に当たる類型もあります。そういえばTOKIOの山口氏も酔って女子学生にキスしたということで強制わいせつ容疑で立件され、起訴猶予処分になりましたね。

 

山口氏がキスしていなくても、夜間に女子学生を理由なく(なんらかのわいせつ目的意図があった?)呼び出したこと自体、仕事上の上下関係に類似する関係が成立している可能性がありますので、それを拒む自由が相当制限されることから、キスしなくても、セクハラ、パワハラになりうる可能性があったように思います。

 

話変わって、前次官は問題ない?麻生大臣は「セクハラ罪」という罪はないと曰ったそうですが、確かに一理ありますね。

 

記事によると<麻生太郎財務相は4日、女性記者へのセクハラを報じられ財務事務次官を辞任した福田淳一氏について「役所に迷惑を掛けたとか、品位を傷つけたとかいろんな表現があるが、(そういう理由で)処分した」と述べた。>とし、

 

<麻生氏は「『セクハラ罪』という罪はない。殺人とか強制わいせつとは違う」とも発言した。>と多少、記者の追求にかんしゃくを起こされたのか、感情的な発言となっていますね。

 

先に述べたとおり、セクハラは多様で、言葉だけではないのですから、行為に及べば、強制わいせつを含むさまざまな刑法犯の対象になり得ます。

 

では次官の会話はどうでしょうか。むろん次官は体に触れるなど直接行為に及んでいないわけですから、強制わいせつ等には該当しないですね。しかし、公然わいせつの可能性はまったくないとはいえないように思うのです。

 

刑法174条は有名な条文ですね。「公然とわいせつな行為をした者は、六月以下の懲役若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。」チャタレイ事件など文書や映画から体の一部ないし全部を露出するといったことはこれまでもよく問題になりました。

 

<「公然」とは不特定または多数人が認識しうる状態を指す(最決昭和32522日刑集1151526頁)>ということですので、次官が記者と話をした場所は個室でないようですので、場合によっては公然性は満たされるでしょう。

 

では問題の「わいせつ」ですが、チャタレイ事件で最高裁が下したメルクマールは

 

    通常人の羞恥心を害すること

    性欲の興奮、刺激を来すこと

    善良な性的道義観念に反すること

 

次官の発言の詳細というか、ほとんどを見る気も怒らないので、見ていないので、はっきりとはいえませんが、どうも①ないし③に該当する言葉だったのではないかと一瞬思いました。女性記者の立場に立てば、とても理不尽な言葉ではなかったかと思います。

 

公然性やわいせつ性について、検察官の立場に立てば、ちょっと躊躇するかもしれません。

 

しかし、なぜ女性記者は日頃から卑猥な言葉を繰り返している(という文脈だと思っています)次官に夜呼び出されたのに、出かけていったのでしょうか。それは次官という権力を持った立場の人だから、断れなかったから、あるいは次官からの情報を得るために、記者の所属する報道会社(テレ朝?)の指示だからでしょうか。

 

ここははっきりしませんが、とりあえずは次官が夜、女性記者一人を呼び出すということは、もし職権行為であれば、公務員職権濫用(刑法193条)の疑いすらつい思ってしまいます。職権性の要件が厳しいでしょうから、これは相当厳しいでしょうね。でもそれをうたがいたくなるような次官の呼び出しであり会話ではないでしょうか。

 

ところで、刑法犯は難しいとしても、少なくとも「公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例」(愛知県)などの迷惑防止条例違反に該当する可能性はかなり高いように思うのです。都条例は確認していませんが・・・だいたいよく似ていますので。

 

上記条例では22項で

「2 何人も、人に対し、公共の場所又は公共の乗物において、故なく、人を著しくしゆう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような方法で、次に掲げる行為をしてはならない。」として、

3号に「三 前二号に掲げるもののほか、卑わいな言動をすること。」とあります。

 

この条例では、1号では痴漢、2号では盗撮などがよく逮捕事例でニュースになりますね。この次官の会話は「卑猥な言動」そのものに思えるのです。

 

次官がセクハラを否定しているから、麻生氏が<「(福田氏の)人権を考えないといけない。言い分を聞かないと公平を欠く」>というのは、次官に権力がなければごもっともと思うのですが、なにが公平かというバランス感覚にも疑問を感じます。

 

ただ、一言付け加えれば、前次官の自宅がニュースなどで垣間見ましたが、隣の家や通りの住宅、そして次官の玄関を見ていると、天下の?財務事務次官の自宅とは思えないほど、普通の住宅でした。その意味では彼は職務執行において清廉に近い道を進んできたのかもしれません。いや、彼一人ではなく、私はさほど多くを知りませんが、日本の官僚にしても、大学教授、あるいは学長といった人のご自宅をなんどか訪ねたりしていますが、たいてい普通の住宅で敷地もこじんまりしているように感じています。その当たり、もしかして麻生氏が福田氏を買っているのかしらといった話の筋を脱線させてしまいました。

 

いくら清廉であっても、女性という人格に対する姿勢・態度は、やはり官僚の品格を地に貶めてしまった福田氏の会話、その後の対応は、日本社会にはびこる女性に対する蔑視感というか、ある種の偏見を露呈しているものとして、的確に追求して、再発防止策を本気で検討されるべきでしょう。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


性差解放どうなる? <存在感増す「トラガール」 人手不足で新たな担い手>などを読みながら

2018-04-23 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180423 性差解放どうなる? <存在感増す「トラガール」 人手不足で新たな担い手>などを読みながら

 

昨日はうっかり薬の服用を忘れてしまい、夜なかなか眠れず、久しぶりに睡眠不足の一日でした。それも和歌山市まで往復したので、普段以上に疲れてしまいました。いろいろやることがありそうですが、今日は早めに帰宅しようかと思っています。ブログも簡単にして・・

 

毎日朝刊で<存在感増す「トラガール」 人手不足で新たな担い手>と大きく取り上げていました。なんだ「トラガール」とはと思いながら、かわしらしい若い女性が大きなハンドルを握っている写真が目に飛び込みました。どうやらトラック運転手の女性をそう呼んでいるようですね。でもなぜ「トラ」かは説明がありません。ま、名称はそれぞれが気に入っていれば好きなようにつければいいのでしょう。

 

さて記事では<「トラガール」と呼ばれる運送業界で働く女性トラックドライバー。業界にわずか2・4%しかいないが、人手不足の中、新たな担い手として存在感が出てきているという。>と頭書きして、矢澤秀範記者がトラックに乗り込み取材したようです。

 

2.4%という数字、思ったより多いなと私は感じましたが、どうでしょう。当地ではあまり見かけない印象ですが、実はよく見ていないのかもしれません。というのは最近、その女性ドライバーから相談を受けましたが、小柄な感じのいい人でした。トラック運転手というと、強面のお兄さんとか、年季の入った年配の男性を思い浮かべてしまうのですが、よく考えると運転席が高いこともあり、あまり運転手の顔まで見ていないなと思うのです。

 

それに比べると、普段よく見るのは軽四を運転する女性、しかも結構猛スピードで走り抜け、一分一秒を競うような感じで、できるだけ近づかないようにしています。といってものんびり運転していると、いつの間にか後ろにぴたりとつけて、早く行ってという感じでついてくることもあります。田舎の女性は、家事に仕事に追われ、しかもパートを2つ、3つを切り盛りしている人もいるので、大変なんでしょう。また介護支援で回っている介護の女性も結構、忙しそうです。

 

それに比べると、トラック運転手は、収入もよくなり、待遇もいいようです。とはいえ、男性のトラックドライバーもこれまで依頼者でいましたので、給料が低くて、かなり時間的に厳しいことも聞かされていましたから、トラック運転手だからといって、決して条件の良いところばかりではないわけですね。

 

その点、記事で紹介された<マイシンは、女性の採用に積極的で、4月現在、運転手135人のうち女性は30人。女性比率22・2%は業界で群を抜く。>というのです。

 

それにはそれなりの理由があるし、会社の能動的な取り組みが効果的なようです。

<働き方にもさまざまな工夫を凝らす。女性ドライバーの多くは子育て中のため、個別宅配ではなく、納品時間の変更がほとんどない事業者向けの配送を振り分けた。これなら勤務時間が決めやすい。子どもが学校を早退しても、社員間でカバーし合う。女性用トイレも増設した。>そうですね、シングルマザーが多いのかもしれません。他方で、夫がいて共働きでも子育てを含む家事を共同する意識の乏しい場合が少なくないことも背景かもしれません。

 

とはいえ、マイシンのような積極的な取り組みにはいろいろ副産物もあるようです。<常温便を束ねる一般部の春日彰吾部長(41)は「今までは仕事に人を付けていたが、発想を変えて人に仕事を付けるようにした」と話す。女性が増え、社の雰囲気が明るくなったという。>

 

男性社会といった意識で、トラック輸送事業を考えていると、事業自体の柔軟性とか雇用環境の改善とか、あるいは女性がいることで男性の新規採用も増えるといったことは期待でなくなるのではと思うのです。

 

それはトラック事業に限らないですね。農業は夫婦共同で働くという長い歴史を持っていますが、林業や漁業(海に出るのは男性だけ)ともに女性禁制といった慣行があったように思いますが、林業は次第にそういった意識が薄れてきているかと思います。とはいえ、まだ女性の林業労働者は極めて限られるように思うのです。漁業ではいまも船長なり船員となると極めて希ではないでしょうか。

 

しかし、性差による職業なり仕事に区別があってよいのかと思うのです。女性が進出することにより、林業の世界も変わっていくでしょう。漁業もまた然りですね。それ以外の分野でも女性の進出が限られているところは少ないですね。

 

毎日朝刊では<改革、粛清、サウジの春 女性運転解禁「ついに夢が」 32歳皇太子が主導>と、サウジアラビアでようやく女性が車を運転できるようになったことを取り上げていますが、これまでのアラブ世界の女性に対する禁制をおかしいと思う人は少なくないと思います。宗教上の理由という根拠も揺らぎつつあるように思います。イスラム教は世界中に広がっていますが、アラブ世界以外では、女性の活動はほとんど制限されていないように思うのです。

 

さてわが国でも、いろいろな分野で、合理的な理由もなく禁制を強いている、あるいは無意識的にシャットアウトしているのを看過しているように思うのです。そろそろ開眼して、維新の時、外圧で多くの禁制を解除したように、現代においても意識改革する必要があるように思えます。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 


セクハラと日米比較 <財務次官のセクハラ騒動>と<映画 Confirmation>などを考えてみる

2018-04-22 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180422 セクハラと日米比較 <財務次官のセクハラ騒動>と<映画 Confirmation>などを考えてみる

 

「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」なんてことばは最近口にすることもなくなった、聞くこともなくなったように思います。

 

今日、あまりに鮮やかで大きな淡いピンク色を目の前に晒されたので、つい牡丹の花を買ってしまいました。それで急にこの言葉を思い出したわけです。こんな言葉を品位なく場所も考えずに女性に告げたら、これもセクハラになりうるかもしれません。

 

それにしても財務事務次官の女性記者と交わした内容のお粗末さは前代未聞ですね。それを擁護するというか、時代錯誤の発言を繰り返す麻生大臣、セクハラ被害対応のイロハもわきまえない財務省官僚(弁護士の位置づけに対する大きな誤解も)、それに加えて記者が所属するテレ朝の対応も輪をかける様なお粗末さ(これがマスコミと官僚との位置関係かともつい納得する自分も問題ありでしょうね)と言い出すときりがないので、あえてこの話題から避けてきました。それでも毎日ウェブ情報だと内閣支持率が下がっても30%というのですから、わが国民の見識はとつい天に唾するようなことを言い出しそうになります。わたしもその国民の一人ですからね。

 

毎日ウェブ情報<松尾貴史のちょっと違和感告発の行方 「女性活躍」何のこと?>では、17日付け原稿ということで、少しズレた内容となっていますが、それは松尾氏のせいではないので、理解しておかないといけません。

 

ただ、松尾氏の基本的な考え方は、国民の多くも賛同するものではないでしょうか。松尾氏が指摘する「告発の行方」・・・たしか映画「告発の行方」も、レイプ被害に遭った女性(ジョディ・フォスターがこの作品で一躍有名になった程いい演技でした)は訴えるも裁判の行方は怪しい状況になりましたね。今回の事件はどうなるのでしょう。

 

裁判にはならないように思うのですが。少なくとも福田氏は墓穴を掘るようなこととして、弁護士に止められるでしょう。ではセクハラを受けた記者はどうするでしょう。ここまできたのだからといって裁判に訴える可能性は低いと思うのです。週刊誌に情報を提供した時点で、裁判を選ばないという意思は決まっているような感じですね。

 

他にも女性記者がセクハラ被害にあっていたようです。ここはわが国でも“#MeToo”というやり方が効果的な選択ではないかと思うのです。あのアメリカですら、ようやく大勢の女優が共同して立ち上がったことで、ハリウッドの大物映画プロデューサーを追い詰めることができたのですからね。一人ひとりの権利意識が高い、女性の意識も高いと言われ、セクハラ騒動なんて過去の問題のように言われることもあるアメリカですら、このような現実なのですから、わが国はもっと広範に深刻な状態で悩んでいる女性が多いと思います。

 

それを容認する社会慣行も問題なんでしょう。それは男女を問わずということでしょうね。

 

ちょっと違った視点で考えると、映画“Confirmation”を取り上げたいと思います。この映画はとても刺激的で感動させられる内容で、セクハラ発言がどのような場面で誰によって行われるかわからないという実態と、極めて理性的で合理的な訴えをしても容易に認められにくい構造を十分に納得させられる実際に起こった事件を踏まえたストーリーとなっています。

 

16年製作で、91年にあったアメリカ最高裁判事候補者に指名されたクレアランス・トーマス黒人判事に対する上院の公聴会審理において、その元部下でオクラホマ大法学部教授であったアニタ・ヒルさんが、たしか10年以上前だったかと思いますが(事件自体が過去のものという面と、長く耐えてきたという面とを感じさせます)、上司であったトーマス氏からセクハラを受けたと告発し、その審理での発言や裏事情がプロットとなっています。

 

ヒルさんが当初、トーマス判事に反対する民主党側からのアプローチに対して、消極的でした。自分が受けたセクハラのひどさ(それは公聴会で冷静かつ緻密に述べられ、驚くべき内容です)を告発することで、自分の現在の職場を失う危険などから、けっして口外しないと友人にも話していたのです。しかし、加害者のトーマス氏が最高裁判事になることの問題性を理解し、あえて告発に踏み切るのです。

 

しかし、公聴会では、ヒアリングする上院議員はたしかすべて男性だったように思うのですが、それはともかく、トーマス判事の黒人差別論といった問題のすり替え議論や政略議論で、ヒルさんの話を誠実かつ適正に対応するものではなくなりました。

 

結局、トーマス判事が指名され、最高裁判事となりました。落胆して自分の研究室に戻ったヒルさんでしたが、多くの支援や励ましのレターが届いていました。ヒルさんの勇気に感動したり、励まされた全国の女性からでした。

 

最高裁判事となるような黒人判事が、部下の女性研究者にしきりにセクハラ発言を繰り返す姿は、財務次官の女性記者に対する発言とは状況も内容も異なりますが、権力を握る人がいかに奢るものか、また、女性に対する狭量さ、蔑視感など、さまざまな共通する土台を感じさせるものでした。

 

このヒルさん役のケリー・ワシントンさん、とてもすてきな黒人教授役でセクハラ被害者の役を見事に演じていました。どこかで見たことがあるなと思ったら、映画『愛する人』(原題: Mother and Child)で、子供が生まれない夫婦の妻役で、妊娠中の女性との間でその胎児を養子にする(アメリカでは一般的なのでしょうかね、日本では特別養子縁組に近い)約束をしたのですが、途中で夫に反対されたため離婚し、さらにその女性からも生まれた赤子を見て約束を反故にされ、不幸のどん底に投げ込まれるのです。その瞬間、別に赤子を産んだ母親が亡くなり、父親が不明で、その子を養子にすることができたのです。その喜怒哀楽の表現が若い感情的な女性としてなかなかのものでした。

 

ということで脱線しましたが、今日はこれにておしまい。また明日。

 


国家が行った差別の怖さ <奪われた私・旧優生保護法を問う>を読んで

2018-03-25 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180326 国家が行った差別の怖さ <奪われた私・旧優生保護法を問う>を読んで

 

毎日新聞は、旧優生保護法に基づく強制不妊手術の実態を繰り返し大きく取り上げてきました。恥ずかしながら私自身これらの記事で初めて、96年に優生保護法が母体保護法に改正されるまで、国家による法の下の平等に反する取り扱いが公然と行われてきたことを知りました。

 

知らないことを知ることは物事の一歩でしょうけど、知ることによって人はなにか変わるか、が試されるような気がして、この話題になかなか取り組めませんでした。

 

最近23日から25日の連載記事で毎日が整理した内容で取り上げましたので、私自身が知るための第一歩として、これらの概要をさらにピックアップしてみようかと思います。

 

<奪われた私・旧優生保護法を問う>とのタイトルで、次の連載が中川聡子と上東麻子の両記者によって取材活字化されています。

上 ずさんな審査で不妊手術

中 「不良な子孫」に異議

下 自分の人生を生きたい

 

優生保護法という名前は知っていても、人生で関わる人は限られるでしょうし、何のために法律が作られ、どのような運用だったかを知っている人は非常にわずかな人だけでないかと思います。しかし、そこには差別に対する根源的な思想を感じますし、あの相模原障害者施設での大量殺傷事件の被告人の考えに通じるものさえ、感じてしまいます。

 

ではその優生保護法について、記事では<「不良な子孫の出生を防止する」ため1948年に制定され、遺伝性疾患や知的障害、ハンセン病の患者らへの不妊手術、人工妊娠中絶を認めた。強制不妊手術の適用は遺伝性疾患(4条)と非遺伝性精神疾患(12条)があり、88%にあたる1万4566人が4条を適用された。批判をうけて96年に「母体保護法」に改定された。同様の法律があったドイツやスウェーデンでは国が被害補償制度を設けている。>と概説しています。

 

この不良な子孫の出生を防止するという立法目的自体が、4753日に施行された現憲法の下で生まれたことに異様な思いを禁じ得ません。まだGHQ統治下にあり、食糧不足で自分たちが生きることで精一杯の時代背景もあったかもしれません。昭和23年当時ハンセン病や知的障害などに対する差別が当然視されていたのでしょうね。

 

上記記事では、強制不妊手術の適用の一つ、遺伝性疾患(4条)として1万4566人がその適用を受けたということですが、その記録がほとんど残っておらず、実態解明が容易でないようです。

 

上の記事では<旧優生保護法下の強制不妊手術を巡り、国に損害賠償を求める裁判が28日、始まる。>この事件を手がかりに記事が展開しています。

 

<今回の裁判を起こす宮城県の60代女性と、その義姉>は別の強制不妊手術を受けた女性が<「私の体を返してほしい」と、国に謝罪と補償を求め>る運動をしていることに触発されたとのこと。こういう差別被害は、誰かが立ち上がって初めて気づくことが少なくないですね。

 

<義姉は結婚した夫の妹が手術を受けたことを夫の母から聞かされていた。飯塚さんの活動を知り「妹が受けた手術はこれだったのか」と合点がいった。弁護士に連絡を取り、手術記録の情報公開請求を経て、提訴に至った。>

 

強制不妊手術という、人にとって基本的な機能を奪い取る重大な身体侵襲であるにもかかわらず、どうも手続き記録が審査側・実施する医療側、そして患者というべき家族側に交付されたり残されていないようです。そこに何かこの制度の怪しさを認めることができます。

 

それでも情報公開制度は一定の機能を果たしています。<この情報公開請求で出てきた記録で、妹が15歳で手術を受けたことを知る。しかも申請理由は「遺伝性精神薄弱」。>

 

では遺伝性の判断はどのようにしてなされたのかですが、私も事件で昭和20年代の聾唖症という判断根拠(生まれつきか、事故によるものか)を調べたことがありますが、残念ながら得られませんでした。その後平成に入って等級が2級から1級に上がる診断をした医師の意見書が見つかりましたが、その根拠が曖昧でした。本来、本人の事情を知っている両親が亡くなっており、疾病の原因を把握する合理的な資料がありませんでした。

 

ところで、情報公開請求では<審査経緯の記録は開示されなかった。>というのですが、仮に存在しているのであれば、開示を拒否する合理的根拠がないと思うのです。異議ないし訴訟で争わなかったのでしょうかね。この審査記録は、森友事件以上に、簡単に廃棄されるべきものではないと思います。

 

他方で<同様の障害を持つ親類縁者もいない。妹の療育手帳交付に関する情報公開で「出生時に口蓋(こうがい)裂で生まれ1歳時の手術で麻酔が効きすぎて障害が残った」という経緯が判明。「遺伝性」の判断がいかにずさんなものだったかを知り、がくぜんとした。>というのは、当然の思いでしょう。ただ、療育手帳記載の内容が医療記録に基づいているのかどうか(本来はそうあるべきですが、伝聞であることもあるように思います)は検討の余地があると思います。

 

いずれにしても、侵襲を行った審査側、国賠訴訟では、被告国が遺伝性を明らかにすべきでしょう。森友事件のように、記録を廃棄したといった答弁は許されないと思うのです。

 

別の審査資料が見つかり、そのずさんさな審査手続きが明らかになっています。

<神奈川県立公文書館の同県優生保護審査会資料からは、手術の対象者をどのように評価して選別していたのか、その一端がうかがえる。>

 

その一例では<「小学校には一年おくれて就学。中学校は二ケ月通って中止してしまひ、自宅でぶらぶらし、昭和三四年七月、■■に入園」。現在の病歴は「母や同居人に対し乱暴な口をきき周囲をわきまえない。年下の子とは遊ぶが、自分から外に出て遊ぶような事は出来ない」とある(原文ママ)。診断は「精神薄弱(痴愚)」だ。>いったいどのように遺伝性を判断したかまったく示されていないですね。遺伝性だから許される話ではないですが。

 

別の例では遺伝性について<家系図によると母が同病の疑いがあり、遺伝性疾患として手術「適」とされた。早世した姉は「経済的な面もあって入院させられなかった」という。>と安直な判断がなされています。

 

これらの審査について総括的に次のようにまとめています。

<障害や病気を抱えたこれらの人々は、本来は支援を受けるべき対象のはずだ。しかし法律の下、「優生上の見地から不良」とされたために、基本的な教育や支援すら受けられず、排除されていったことがうかがえる。当時、養護学校は少なく、障害児の多くは就学免除・猶予とされた。また、現在の医学ではすべての精神疾患は何らかの遺伝素因がかかわっているものの、単純に遺伝するものではないとされるが、多くの精神疾患を抱えた人が「遺伝」と判定されていた。>

 

審査側というか国の考え方を示す資料として次はあまりにひどいです。

<社団法人母子保健推進会議(当時)が72年に発行した冊子「母子保健」。その巻頭特集が「日本民族改造論」だ・・・「何より大切なのは民族の質を改造する、人間を良くすること」と問題提起する。国立機関の医師や有力大学の研究者が「障害児の生まれる危険の大きい結婚を減らすのが第一。結婚しても子を産まないようにすればいい」「極端に質の悪いものを減らせば全体のレベルが上がる」と指摘。>

 

<中 「不良な子孫」に異議>では女性の<「産むか産まないか」を自己決定できる社会>を求めるという、この問題の本質を取り上げています。

 

それは<国賠訴訟を機に、被害補償のあり方を検討する議員連盟発足、厚生労働省の実態調査と、事態が急展開している。>ことへの懸念です。

 

旧優生保護法の時代、堕胎罪との2つの法制度の下、後者が<「女性は子どもを産むべきである」という社会規範がある上で、>前者が<「ただし産まなくてもよいケースを国が決める」ということだ。その目的の一つとして「不良な子孫の出生防止」を掲げた。戦中の「産めよ殖やせよ」から敗戦後の人口抑制に至る人口政策を、象徴する法律だった。>というのです。

 

個人(とくに女性)の本質的な権利に対する国家の統制ですね。

 

それが72年の旧優生保護法改正問題でクローズアップされてたのですね。

<時は72年にさかのぼる。優生保護法は大きな岐路を迎えていた。中絶が許可される項目から「経済的理由」を削除する▽新たに「胎児に障害がある恐れがある場合」(胎児条項)を追加する--という改正案が国会に上程された。>

 

この改正案を批判したのは<この動きは「私たちの存在否定だ」という障害者の反発を招いた。先頭に立ったのは、故横田弘さんら脳性まひの当事者団体「青い芝」神奈川県連合会だ。>

 

それは本質的な取りかけです。

<生き方の「幸」「不幸」は、およそ他人の言及すべき性質のものではない筈です。まして「不良な子孫」と言う名で胎内から抹殺し、しかもそれに「障害者の幸せ」なる大義名文を付ける健全者のエゴイズムは断じて許せないのです。(原文ママ、会報より)>

 

この記事では、その戦いの歴史がコンパクトにまとめられています(省略します)。

 

最後の<下 自分の人生を生きたい>では、家族の反対で子供を産むことができなかった障害者の男女の話と、障害を持ちながら勇気をもって子供を産み育てる決断をして、なんとか頑張っている男女を紹介しています。

 

前者の例1では<男性は18歳でいじめなどをきっかけに統合失調症になった。精神科に入退院を繰り返したが、45歳で、同病の女性と同居生活を始めた。・・・ 数年後、女性が妊娠したがすぐ流産。兄夫婦が強く求め、女性も不妊手術を受けたという。・・・兄からは「優生保護法がある」「手術しないなら一生退院させない」と詰め寄られた。強引に転院させられ、手術を受けた。「自分の人生も、生まれたかもしれない子どもも殺された」と感じた。「障害者は家族に結婚も出産も邪魔されるのか」と納得できない。>

 

前者の例2では<10代から統合失調症を発症。20代で勤めた職場で障害者の男性と知り合い、交際している。「子どもがほしい」と話し合い妊娠したが、母は激怒した。「許さへん」。妊娠を希望し服薬を調整していたため、症状も悪化していた。心身ともに追い詰められ、母と男性と3人で話し合い、震えながら手術同意書にサインした。手術の後、2人で子の名前を決めた。「月命日」には心の中で悼む。

 

後者の例として、社会的支援を受けながら子を産む育てている夫婦がいます。

<神奈川県茅ケ崎市のNPO法人UCHIのグループホームで暮らす小林守さん(31)と聡恵さん(22)には今月、長男陽飛ちゃんが誕生した。2人は軽度の知的障害がある。

 牧野賢一理事長は、2人が児童養護施設と障害児入所施設を出て以降、粘り強く支援。人間関係が苦手な守さんは職場でけんかをしたり、お互い異性関係で問題を起こしたりした。職員が適性を見極めて活躍の場を紹介したり、子どもを持つことを話し合ったりして、2人の交際から結婚、出産までを支えた。>

 

しかし、現行の障害者福祉の各制度は障害者が子供を産み育てることに、決して優しいとか、気配りをしているとはいえません。

 <牧野さんは約15年前から5組の子育て支援に関わった。最初のカップルの女性が妊娠した時、福祉事務所のケースワーカーの第一声は「産ませないよね」。グループホームに夫婦が住むことを行政も渋った。障害福祉サービス事業所のUCHIは子の支援はできず、保健所や保育所と連携する必要もある。「支援者にも彼らが結婚し育児をするという意識がなかった。人として当然のニーズに向き合い続けたい」と話す。

 

障害者の自己決定権はいまなお軽視されているように思えます。保護される対象で、主体的になることを阻んでいるかのようです。

< 「障害者は保護する対象で、自己決定する存在だと思われていないのだろうか」。DPI女性障害者ネットワークの藤原久美子代表(54)は問いかける。1型糖尿病の合併症で30代で視覚障害者に。「育てられないでしょう、障害児のリスクも高い。あなたが心配なのよ」。40歳で妊娠したとき、母や医師から中絶を勧められた。だが、妊娠を喜ぶ夫に背中を押され、出産した。>

 

育児の支援は十分でないです。

 <育児の場面では、制度の不備を日々感じる。障害者本人の支援制度があっても、障害者が子育てのさまざまな場面で使えるサービスが乏しい。「障害者が子育てする存在として想定されていない」。現在、国は障害者基本計画(第4次)を策定中だ。サービスや制度の前提となるのが基本計画だ。藤原さんらは障害者の「性と生殖の自己決定権」を書き込むよう求めている。>

 

大いに勉強になりました。これで私の何が変わるかはわかりませんが、現実を知ることが第一歩と思っています。

 

本日はこれにておしまい。また明日。