たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

オードリーの魅力 <ザ・プロファイラー▽“永遠の妖精”の知られざる苦悩>を見ながら+追補

2018-12-21 | 心のやすらぎ・豊かさ

181221 オードリーの魅力 <ザ・プロファイラー▽“永遠の妖精”の知られざる苦悩>を見ながら+追補

 

今日も朝からいろいろ人に会ったり、会議があったりで、いまようやく仕事を終えました。残業?ということばはわれわれの仕事にはありませんが、久しぶりに遅くなりました。疲れ気味ですので30分程度で今日のブログは切り上げようかと思います。

 

昨夜放送されたNHKBSザ・プロファイラー▽“永遠の妖精”の知られざる苦悩~オードリー・ヘプバーン>は、オードリーの魅力を改めて体感できました。

 

<【司会】岡田准一,【ゲスト】斉藤由貴,立川志らく,眞鍋かをり>のメンバーでどんな風にその魅力を映し出せるかと思いましたが、結構コンパクトにうまくできていたように思います。

 

なんといっても「ローマの休日」でのオードリーの魅力は初々しく見事に花開き、どの場面も素晴らしいです。

 

そのオードリーがそこにたどり着く前に、経験したさまざまな辛い過去が彼女の魅力を生み出す土壌になっていることがわかります。あの笑顔は悲しく辛い忍耐の連続を踏まえているからこそ生まれるのでしょうね。蓮華の花のようですね。

 

父親が英国人で母親がベルギー人でしたか、違っていたのですね。それも父親がオードリー6歳の時突然、目の前から消え、その事情が分からないままだったようです。それは幼いオードリーにとってとても悲しく辛いことだったと思います。それでもオードリーはそれでくじけることなくバレリーナの道を歩むのですね。きっと厳しい練習があったと思いますが、それを見事にこなしていったのでしょう。

 

そんなオードリーに戦争というとんでもない悲劇が待ち受けていたのですね。しかも母親の考えで英国から中立国オランダに移ったら、ドイツ軍に進駐され、占領下の生活を余儀なくされたのですね。まさに同い年のアンネとほぼ同一の厳しい環境下に置かれたのです。しかもオードリーは敵国英国人ですから、見つかると厳しい処分を受ける過酷な状況に陥ったはずでした。でもアンネと違って隠れることなく、自由に学校に通うことができたのは運がよかったのでしょうか。またオードリーの前向きな考え方がよかったのでしょうか。

 

それも学校などに行くのに、義勇軍などの伝達役を担って、靴の中に伝言文を隠して届けていたようで、これまた凄い勇気のある行動ではなかったでしょうか。単なる明るさ、人を喜ばせること以上に、不正義に対する強靱な抵抗心をもっていた人だと思うのです。

 

また、オードリーは、バレリーナの能力を生かしてコンサートで演技をして一定の報酬を得たようで、それを義勇軍などに寄付していたそうですから、ほんとに強い意志をもった人だったのですね。

 

こういったオードリーの10代までの厳しい体験は、彼女を誠の人として生きる礎を作り上げたのかもしれません。

 

バレリーナへの道は、戦争中の食糧難の影響で栄養失調となり、体力がなくなったのと、身長が168㎝で当時の男性との釣り合い上、あきらめざるを得なくなったようです。

 

それでもめげることなく、オードリーは新たな仕事の道を追求するのですね。モデルに映画俳優にと。そしてついに「ローマの休日」でのオーディションで、そのユーモアと笑顔が監督はじめすべての人をとりこにしたようです。番組でその映像を放送しましたが、無名の俳優であっても、決してひるむことなく堂々としていて、その人間的魅力こそ、それまでの体験がにじみ出ていることを感じさせます。

 

その後の活躍は数々の魅了される映画で周知の事実ですが、彼女の演技力について立川志らく師匠と他のメンバーとで少し見解が異なりました。私も感覚的には前者に賛同しますが、そういった技術的なものを越えたところに俳優としての魅力をだれもが否定できないのではと思うのです。

 

マイフェアレディーでは、歌が吹き替えであることはよくわかりますが、オードリーが自分で歌うつもりで訓練を積んでいたというのは知りませんでした。でも採用されなかったというのは辛い現実だったのでしょうね。でも映画としてはなにか不自然であってもいいものにできあがっていたと思います。

 

オードリーがその映画の最初に言語学者が驚くほどのなまりでしゃべるところは、よくやったなと思うのです。その後の変身はオードリーらしい魅力ですね。

 

今日オードリーの何を書こうとしたのか、どうもはっきりしません。30分となりましたので、これで今日はおしまい。また明日。


追補

昨日、尻切れトンボになっていまいました。いいたかったのはオードリーの晩年に見せた真の美しさ、女性として、人間としての生きる意志の気高さみたいなものでしょうか。さまざまな映画で多くの人を魅了した以上に、家族との生活を大事にして心豊かな日々を送られたことでしょう。でもそれだけで満足せず、後半生の多くをユニセフ親善大使としてアフリカや南米の飢餓や病気に苦しむ幼い子どもたちに接し、その窮状を訴える姿こと、彼女の真の姿ではないかと思うのです。

 

多くの女性(まあ男性もそうかもしれませんね)は、若く見えること、痩せて見えることに日夜、腐心しているようにCMあたりが日々繰り返し訴えています(それで余計民放をみないようにしています)。それこそそういった若さや細身という外見は、虚飾であり虚無そのもののように思えます。こんなことを言うと、あちこちから非難が殺到しそうといった不安は、(このブログを読むような人は希ですし、その中でそういう考えの人はおそらくあまりいないでしょうから、)まさに杞憂でしょうけど。

 

オードリーの魅力は、50代以前から思った以上に老けている印象にみえても、まして60代になったころのやせ細り、シワなども目立つほどになっても、その時代を経た履歴の跡こそ大事にしているように思えるのです。その外見的な若さより年齢を重ねた力強さで、今にも折れそうな弱々しい子どもたちに寄り添い、その子たちのために公の席に立ち強く訴える姿は、やはり永遠の美しさを備えている人ならではと思うのです。

 

私はすでにオードリーの亡くなった年齢を超えて久しいですが、私ができることはせいぜいシワや白髪が増えたことを気にしない程度でしょうか。ただ、魅力ある人をたたえるだけの気持ちは大切にしたいと思っています。


 


ゴルフ場と里山 <NHKBS 「ニッポンの里山」で紹介されたゴルフ場の豊かな生態系>

2018-12-19 | 心のやすらぎ・豊かさ

181219 ゴルフ場と里山 <NHKBS 「ニッポンの里山」で紹介されたゴルフ場の豊かな生態系>

 

最近はゴルフ場に通う人も少なくなったのではないかと思います。私の年代だと、たいていの人(というと誇張でしょうか)がゴルフ場通いをしていたように思います。私もその一人でした。といっても知り合いの誰かのように、毎週一回は通うことを標榜していた30年前でも、2ヶ月に一回未満くらいでしたか。練習場は週に一回以上だったように思いますが。

 

一泊付きで行くこともありましたが、それは首都圏だとなかなか自然豊かなゴルフ場が少ないこともあったように思います。80年代から90年代初頭にかけてバブル景気の先頭をきってゴルフ会員権がうなぎ登りに上昇したこともあって、乱造されましたね。千葉県なども飛行機から下を覗くと見苦しいほどの状況でした。古くて格式のあるゴルフ場は別にして、コースを仕切る木々も薄っぺらなものがほとんどでした。とても自然に親しむといった場所ではなかったと思います。

 

仕事から離れて自然豊かな空気を味わうといった場所は滅多になかったですね。90年代に入り当時の環境庁が森林地での皆伐を抑制し、一定の森林を残す規則だったかと思いますが、策定し、少し元の森が残される余地がでてきたかと思います。そしてバブルがはじけたこともあって、ゴルフ場開発はぐっと下火になったように思います。

 

そんな過去を少し思い出しながら、NHKBSプレミアムで毎日放送している「ニッポンの里山」で、ゴルフ場が登場したのには一瞬驚きつつも、興味がそそられました。この朝の番組は日本各地で鋭意努力して維持されてきた豊かな里山を紹介していて、心安まる朝のひとときを迎えることができます。それでもゴルフ場が登場したのは私が見だしてからは初めてです。

 

ゴルフ場は維持管理が大変で、農薬散布が当たり前、そのことにより土壌汚染や河川汚染など、下流の人たちにとっては悩みの種となって、私も90年代ころよく相談を受けました。それで私の短いゴルフ人生もストップしてしまったのです。まあ下手の横付きで一時は夢中でゴルフクラブを振り回していましたね。

 

今日も何を書こうか浮かばなかったので、ついついこの話題を取り上げたので、すぐ脱線してしまいます。

 

本題のゴルフ場に里山環境をという点ですが、それはゴルフ場管理者が大変な努力をされていて、しかも会員のゴルファーも支援しているからではないかと思い、その内容と背景を紹介できればと思ったのです。

 

ゴルフをする人は、あまり自然を堪能しないというと、偏見かもしれません。が、わが国のゴルフ場がそのような作りになっているように思いますし、やはりプレー料金も高いこともあり、ゴルフのスコアとか仕事の付き合いなどのため仕事の話とか、周囲の生態系を愛づる人はあまりいないように思うのです。

 

ところが番組で紹介された茅ヶ崎のゴルフ場では、フェアウェイのそばに、ウサギが顔を出したり、いろんな野鳥が飛んできたり、たしかトビの巣がありましたか、野生生物がいろいろ登場します。植物はどうだったかあまり覚えていませんが、水辺環境も生態系に配慮したものだったようでしたから、豊かだったのではと思います。

 

管理者が農薬使用を極力控えたりして、野生生物が棲みやすくしています。その分草刈りが大変ですが、その草刈りも工夫しています。周囲の野草も、本来は茎の根元から刈払するのですが、わざと10㎝くらい残して刈り取っています。するとバッタなど昆虫が生息しやすいわけですね。カエルなんかも卵を産み付けたりできるようにしています。

 

私自身、毎日のように草刈りをしていましたが、かわいらしい野草があると残したりしていました。でもだいたいがバサッと根元から刈り取っていました。それで昆虫などが減るかどうかわかりませんが、すぐに草が生えてきて、草刈りの方が追いつかないので、そういう場合はそういった配慮がいらないようです。昆虫は一杯でしたね。

 

ともかく大変な努力と工夫があれば、ゴルフ場もすてきな里山生態系を生み出すことができるんですね。

 

それに夜間のツアーが紹介されていましたが、会員の皆さん(私のように高齢者ばかりだったようでした)、夜のゴルフ場の生態を観察に出かけていました。里山そのものだと、夜間に入るのは少し危険かもしれませんが、ゴルフ場の中だと、そういったリスクも少なく、安全に昼間とはまったく異なる野生生物の姿を見ることができますね。眠っているトンボとかなかなか見る機会がありませんが、登場していました。当然ながら枝などにぶら下がってじっとして眠っているのですね。眠っているから、近づいても逃げません。そういう昆虫の生態を身近に感じることができるのもすばらしいことですね。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 

 

 


歩く道(その3) <小田井と大和街道を少しだけ歩いてみる>

2018-12-15 | 心のやすらぎ・豊かさ

181215 歩く道(その3) <小田井と大和街道を少しだけ歩いてみる>

 

これで3週目です。意識的な歩きを始めて。習慣にするとさほど億劫になりませんね。これで高齢によるさまざまな体の劣化を多少は防ぐことができるかも?

 

先週は橋本市隅田(これで「すだ」と読みます)で大和国と紀伊国との国堺?から紀ノ川の北岸を一時間ほど歩きました。このとき思いついたことをブログで書き忘れたことがあります(しょっちゅうですが)。紀ノ川はこの当たり段丘構造で自然の崖状になっています。とはいえ岩盤は川底とか崖下部分だけで、おそらくほとんどがいわゆる竹藪状態です。

 

私が垣間見た恋野橋新設工事と仮設橋工事について、その後毎日記事<橋本・恋野橋

車両通行、仮橋を設置 県、来月運用目指し /和歌山>で紹介されていました。

 

記事では<現在は準備として南岸から竹やぶを伐採する作業などを進めている。>ということでしたが、私が歩いたのは北岸で、むしろ北岸でユンボが竹藪伐採運搬を忙しくしていましたね。南岸の方は気がつきませんでしたが・・・

 

また横道にそれました。じつはこの竹藪ずっと続いていまして、これをすかすと、つまり間伐すると、用水路沿い遊歩道としてはとてもすばらしい散策路になるのにと思ったのです。用水管理する人たちの中には、自分たちがせっかく用水管理をしていても、いろんな人が入ってくるとゴミを用水路に捨てて困るなどと不安視して、歩きやすくしたり、眺望景観をよくするため竹藪整序するのに反対する人がいるかもしれません。それは一時的にはありうるかもしれませんが、みんなできれいに使えば、美しい散策路になればそのような不心得者は自然にいなくなると思うのです(簡単ではないですが)。

 

私なら、そういうボランティアなら参加したいと思うのです。ただ、問題は伐採した竹の処理です。バイオ発電所に持って行ってペイすればいいのですが、運搬費が相当かかりますし、行政からの支援がないと難しいでしょうね。あるいは竹のさまざまな活用法を工夫することでしょうか。私自身もいろいろ試してみましたが、簡単ではないですね。もともと日本は竹の豊かな文化芸術が息づいてきたのですから、蘇りを図ったり、新たな創造を考えるのもいいでしょうね。

 

前置きがなかなか止まりません。このあたりで今日の歩きの話に移ります。

 

今日はかつらぎ町の飯降(いぶり)から妙寺(みょうじ)周辺を一時間半ほど歩きました。変わった名前だなと当初、思いましたが、歴史が古いのです。<京奈和自動車道(紀北東道路)遺跡発掘調査一西飯降II遺跡、丁の町・妙寺遺跡の調査一現地説明会資料>など、この地域では縄文時代や弥生時代の遺跡があり、まさに古代の息吹を感じることができます。

 

とはいえ、今回の目的は江戸中期に灌漑用水路として開削され現在も利用されている小田井用水路の現在を散策することが一つ。同じく江戸初期(万葉時代にあった道と同じかどうかは私にはわかりません)に作られた大和街道を歩くことが一つです。

 

小田井は、橋本市小田に井堰を設け、取水口にして、末端は根来寺付近まで伸びています。今回はそのほんの一部を歩きました。幅2mくらいあるのでしょうか。護岸の高さは1m強はあるかと思いますが、現在の水深は50㎝くらいでしょうか。灌漑期でない冬にもかかわらず、結構流れていました。環境維持用水として使われているのでしょうか。

 

用水路沿いに管理用の道があります。そこを歩いたのですが、いろいろと妨害物?があり、スムースには足が運べません。水路上に家や構造物があったりします。それでもまだそばに道や道路があるとちょっと回ればまた水路にでます。

 

この飯降から妙寺にかけて歩いているとき興味を覚えたことがいくつかあります。一つは中谷川サイホン式水門のあるところです。小田井はいくつもの北から南流する川を横切りますが、ここではサイホン式水門で横断するのです。中谷川はただ普通に南流し、紀ノ川に入り込んでいます。小田井とは表面上交差していません。

 

でも中谷川の手前まで用水路が来て、突然中谷川で壁にぶつかり、止まっています。でも中谷川の先には用水路が同じような水量で流れています。これがサイホン式なのですね。

 

現在は、用水路もこういった水門もすべてコンクリートで作られていますが、才蔵が作った当時はむろん土や石ですね。大変だったと思います。で、この水門のいわば上流側と、下流側、いずれも結構ゴミが浮かんでいました。いっぱいというわけではありませんが、誰かがどこかで用水路に投げ込むのか、道路上などに落とされたものが飛んできたのか、それが堰き止められた双方の端っこにたまっています。この程度はがまんできましょうか。

 

この用水路沿いの建物にもなかなか雰囲気のある屋敷があり、これは背後に紀伊の山々を控えさせ借景になっていて風情があります。近江八幡の有名な町屋ほどの作りではありませんが、板塀越しのマツも立派です。なかに登録文化財もありました。この用水路沿いもまた散策路として十分評価してもよいと思うのです。

 

ただ、時折気になるのは、嫌な生活雑排水の臭いです。一部ですが臭ってきます。多くは紀ノ川の清流の流れがあって、三尺下れば・・・とまでいかなくても、まあまあの清浄さでしょうか。臭いは生活雑排水に対する対策が十分ではないことの証左でしょうか。たしかに用水路沿いには結構、大きな塩ビパイプが出しゃばるように配置され、時折排水が落ちています。

 

それとやはり管理がなかなか行き届かないのでしょう。まして冬期ですからね。藻が結構繁殖していました。みんなでやればきれいになるのにと、柳川や松江などを思い出します。むろん観光名所でもあれば、船での遊覧が人気を呼んでいる(管理することでそうなったともいえるでしょう)のとは分けが違うかもしれません。でも、ちょっと見方を変えれば、見事な散策路、潤いある水路景観に、紀州の山々と紀ノ川を見渡しながら歩くというのはなかなか気分がいいものです。そんな考えに立たないでしょうかね。

 

とはいえ、今日は少し大変でした。用水路沿いを歩いているとき、先には見るからに「ひっつき虫」の雑草が大きく繁殖して立ちはだかっています。ちょっとひるんだのですが、その先には普通の雑草だったので、えいやと雑草を踏み越えていきました。わずか10m余りですが、ズボンの太ももまで全面びっしりとげが刺さってしまいました。

 

それでこのトゲを採るのに悪戦苦闘していると、近所のおばさんらしき人がやってきて、ここは近道なのよとその私が歩いた平坦なところに行こうとしたので、私はその先にひっつき虫の雑草が一杯ありますよと言って、別の道をアドバイスしました。

 

このひっつき虫はコセンダングサで、環境省による外来生物法により、要注意外来生物に指定されていますね。ちょっと甘く見てしまいました。こういうところにはいることを前もって予定しているときは別のくっつきにくいズボンにするのですが、今日は普通の道路を歩くつもりでしたので、どうぞくっついてくださいというズボンでしたから、大変な目に遭いました。

 

まあこの草に責任はありませんが。こういった雑草も刈り取っておけば、歩きやすいですね。実際、その先はしばらく迂回したところ、こんどはきれいに刈り取っている水路沿いの道があり、のんびり歩くことができました。

 

そうすると妙寺の駅上にでました。この当たりもなかなか風情のある屋敷が並んでいて気持ちよく歩けそうです。

 

小田井はここまでにして今度は大和街道を東に帰ることにしました。これがまた狭いのです。幅1.5m2m弱ですね。軽自動車でないと通れないでしょう。でもそこに別の用水路がありました。「七郷井」という用水路です。現在は灌漑用水として利用されていませんが、江戸初期に大和街道を敷設する際、作られたとのこと。まあいえば、小田井用水の先駆け的存在でしょうか。

 

そんなこんなで、楽しい歩きでした。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 


181208 歩く道(その2) <万葉の面影>と<中世領主・隅田党の面影>そして紀ノ川段丘を歩いてみる

2018-12-08 | 心のやすらぎ・豊かさ

181208 歩く道(その2) <万葉の面影>と<中世領主・隅田党の面影>そして紀ノ川段丘を歩いてみる

 

先週日曜日、久しぶりに歩いて少々疲れましたが、それはいい感じでした。主治医の一言は金言です。これは続けてみようかと内心(ここで暴露すると責務?になる?)思っていて、今朝も少々冷えるなと思いながら、あるギリシア・ローマ法がらみの難しい(私にとって)法律論の書を読むよりいいかと、思い立ったのです。

 

紀ノ川に降りて見ようと、いくつかのコースを考えてみたのですが、まだ訪れたことのない万葉集に歌われた大和と紀州の国堺にある真土峠の「飛び越え石」をまず、訪れることにしました。

 

あさもよし 紀伊へ行く君が

真土山 越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね  巻9-1680

 

あさもよし 紀伊人羨ともしも 真土山 行き来と見らむ 紀伊人羨しも

巻1-55

 

いで我が駒 早く行きこそ 真土山 待つらむ妹を 行きてはや見む  巻12-3154

 

など、万葉人が大和を離れて他国に入ったことで、故郷を懐かしく思う心持ちなんでしょうか。いまだとこの間、車だと一時間もかかりませんので、そんな情緒はとても生まれそうにないですね。いやいや、昔、飛行機で30数時間かけてブラジル・アマゾン川中流域にある都市マナウスに降り立ったときでも、郷愁なんて気持ちは起こりませんでしたので、距離や移動手段ではなく、心の豊かさの違いかもしれません。まあ私自身が心の豊かさを持ち合わせていないことは自白しておきましょう。

 

いや驚きました。「飛び越え石」が結構大きかったのです。しかも狭い渓谷の様相で、大きな岩が蛾両岸にずっとつながっています。流れる川の名前は落合川といって、東京の落合川と同じ名前です。後者は一度訪れたことがありますが、昔年の面影はないのですが、結構生態系が豊かです。他方で、当地の落合川は小高い山が削られて、できたような渓谷で、当然ながら川岸の岩場の上は急な坂になっています。これでは飛鳥天平人の女性や子どもはここを通過するのが大変だったと思います。乗馬して上がり降りなんては無理な話ですね。

 

大雨の場合は増水して下に降りてはいけない注意書きがありますので、古代もまたとても増水時はもちろん、水量が少ない(たとえば今日のような冬期も)ときも、結構危ないでしょう。わたしはこういう岩場を歩くのは慣れているので、いい年をしてという気持ちは半分ありますが、すたすた岩伝いに渡っていきますが、それでも雨に濡れていると、沢登り専用のシューズでないと危ないかもしれません。

 

ところで、この渓谷美に感心して、少し岩場伝いに下流に降りていこうとしばらく進んだのですが、2m近い段差があり、やっかいな大岩があったので、もし滑ったりすると大怪我するなと、年寄りの冷や水がごとき振る舞いはやめにして退却することにしました。

 

その後、ちょうどいい水道(これはミズミチ、あ、そういえば水道法の改正が今国会で問題となっていましたが、これもいつか検討したいですねなんて思いながら)があったので、そのそばの幅1尺程度の道を歩いて行くことにしました。コンクリート造りの水路があり、水利組合が管理用の道としてそのそばに作っている道です。私もしばらくこの道を毎日のように草刈り、雑木刈り、ときにスズメバチ狩りなどして過ごしたことがあるので、とても愛着があります。むろんここの水路は初めてですが、水路ということでなにか親しみが湧くのです。しかも水路幅は日本では一般的な30㎝くらいでしょうか。

 

ただ、ここの水路脇の道は、崖状のところに作られているため、かなり危うい状況かなと思いました。実際、一カ所上から根倒しになった中高木が2本倒れていました。私が世話しているところだったら、すぐに枝払いして小さく切るのですが、水利組合も冬場はほとんど訪れることがないため、また定期的な監視活動の際、対応するのでしょう。

 

しばらく行くと、先般、橋桁が傾いた恋野橋が見えてきました。大きく傾いていることがよくわかります。倒れないように橋脚の下には規格外の土嚢袋が何段か積み重ねられ、ようやくこれ以上傾くのを止めている印象です。そのそばでは新しい道路橋づくりに、重機が何台も動いています。私が竹藪のわずかな隙間を降りていったところ、その現場が間近でした。というか、竹木をいま倒したばかりの束をユンボが掴んで、私の立っているすぐそばにボーンと下ろすのです。豪快ですね。まあ邪魔にならないよう、今回もさっさと立ち退くことにしました。

 

しばらく別の道を行くと、こんどは紀ノ川の両岸を結ぶ歩道橋に出くわしました。歩道橋からみる紀ノ川の岸辺景観は初めてでしたが、なかなか情緒があってよかったです。

 

その後、今度は幹線水路に沿って歩きました。幹線水路は紀ノ川の段丘の直上にあり、幅1.5mくらいありそうでした。そのそばに軽自動車が走れるほどの管理道路が幅1.5m弱で走っていましたので、そのそばを通って隅田の段丘畑、あるいは水田を見ながら散策したのです。

 

写真をパチリパチリと撮ったのはいいのですが、アップの仕方がよく分からないので、当分文字情報だけですね。fbでは結構、写真をアップしていたのですが、このブログではなんどか成功したものの、結局よくわからず、また、もうこのブログの3月までですので、このままでいこうかとおもっています。

 

このあと少し仕事をして、夕方またブログに戻ります。

 

 

 

 


歩く道 <一本の道「“歩く旅”の原点をゆく>を見て九度山町を歩きながら

2018-12-02 | 心のやすらぎ・豊かさ

181202 歩く道 <一本の道「“歩く旅”の原点をゆく>を見て九度山町を歩きながら

 

先日、主治医から歩きなさいと言明されました。そう前にも言われていながら、億劫で滅多に歩かない状況を少し変えないと、と思いつつもわざわざウォーキングで歩く気分になれませんでした。

 

ところが、意外にも今日は早朝の番組を見たのと、ちょっと仕事で気になっていた建物の確認をすることを思い立ち、狭いところなので車は近くの駐車で停めて歩くしかないと思い立ったのです。そして九度山町を1時間ほど歩きました。久しぶりでしたが平坦な道だったのと小春日和でポカポカとしたいい気分で歩けました。おかげで少し汗ばむくらいでちょうどいいウォーキングになりました。

 

帰ると、NHK杯テレビ囲碁トーナメントがちょうど始まったところでした。一力八段と寺山怜五段との力勝負というのか、つばぜり合いで、寺山五段が傍目にはうまく囲っているかと思ったのですが、次々と繰り出す一力八段の手は緩むことのない攻めで押し破ったといった印象で、私には勝敗が分からない中で、中押し勝ちを収めました。

 

ところで、早朝の時間帯は平日、グレートトラバース2が再放送されているのを楽しんでいますが、田中陽希さんの歩きというか走りというか、その躍動感ある動きはただ見るだけで楽しい限りですが、到底歩きの参考にはなりません。とはいえ彼の足の運びは足の先に神経が俊敏に働いているのか、悪路だろうが岩場やガレ場だろうが、難なく通り過ぎます。私が若い頃多少はそんな動きもできたように思うのですが、それでも歩き終えてズボンを見ると結構泥がついていたりします。時には岩場や笹藪などでは切り傷などもできます。でも彼はそのような軽率な足の運びはしません。見事です。それでも捻挫や疲労骨折など負傷しますが、超人的な日程ですから、それで済んでいる方が不思議です。それだけ彼自身が慎重であり、一歩一歩を大事にしているのでしょう。

 

そろそろ本題にとりかかります。今朝見たのはNHKBSの<一本の道「“歩く旅”の原点をゆく~イギリス・ピークディストリクト国立公園」>です。

 

これはシリーズで時折、放送していて、歩くのはNHKのアナウンサー、それもあまり歩いたことのない人が多いようです。今回の鎌倉千秋さんです。さんづけしていますが、一度も会ったことがありませんが、鎌倉で暮らしているときラジオ番組で鎌倉さんがたしか入局当初ということで挨拶があったような記憶で、なんとなく身近に感じて、その後TV番組にも再三登場され、勝手に身近な印象を抱いています。そういうアナウンサーはラジオ深夜便の方で多いですので(これもずいぶん代替わりしましたが)、鎌倉さんのような若い方は珍しいのですが。

 

さて鎌倉さん、歩きはほんと無残でした。見事にへとへと感がこれぞというくらいでていました。いつも元気な鎌倉さんがこれでもかというくらいへたっていましたね。でも私もきっといまだったら同じような状態になるでしょうから、人のことを笑うと天に唾するようなものです。

 

さて<ピークディストリクト国立公園>といっても私自身、初耳ですが、イングランドらしいなだらかな丘や牧場が連なるすてきなところでした。

 

もうこれ以上歩けないと思っていた鎌倉さん、いろいろな出会いで体も心もリフレッシュしたのか、元気を取り戻し最後の目標地まで貫徹して笑顔になっていました。

 

その大きな一つは歩く意味、歩いている英国人たちの心意気を、そしてその歩く道の歴史を知ったことかもしれません。

 

私が歩く権利を知ったのは約20年前、青山学院大学法学部教授であった故平松紘氏の著作『イギリス 緑の庶民物語』を手に取ったことからでした。この本には大きな影響を受けた、いろいろな仲間に紹介したことがあります。そんなこともあってか平松さんとはその後いろいろな機会に出会うことになり、著書もいただいたりしていたのですが、まもなく他界され残念な思いです。気さくな方でしたが、英連邦法系の環境法に造形が深く、コモンズや信託について深く掘り下げて研究されていたように思います。

 

80年代から90年代にかけて里山がゴルフ場開発、リゾート開発、さらには産廃処分場として、どんどん破壊されていく現状を憂い、いろんな住民運動が立ち上がり、里山保全についても90年代後半になり関東弁護士連合会で調査を始めたころに、歩く権利運動など平松さんの著作はちょうどよいテキストになりました。

 

歩く権利について、その運動の発祥の地(地名を失念)として番組では紹介され、その集落の語り部が元々貴族や大地主が囲い込む前はコモンズとして共同利用されていたところで、若い労働者たちが集まって歩く権利運動を繰り広げたといった説明であったかと思います。

 

たしかそれが1930年代であったかと思いますが、それ以前から歩く権利をめぐって訴訟がたびたびあり、ようやく32年に「歩く権利法」が成立していますが、その後も繰り返し訴訟が起こっています。番組で登場した英国人二人組が歩く道の歴史を次世代に継承するため歩いているといったようなコメントしていましたが、まさに権利はそれを日々使わないと失うおそれがあるともいえるように思えるのです。

 

歩く権利については、いつか(これが怪しいですが)整理して書いてみたいと思います。

 

鎌倉さんがもう一つ元気になった要素かもしれないのが、旅の途中、あるいは最後に訪れるパブでの一杯です。私も英国旅行をすると必ずパブに入ります。英国人(イギリス人というのは正しくないのでしょう、今後、これにします)らしさがでる場所ですね。番組を見るとすぐ分かりますが、黒ビールのようなものが一杯出るだけです。たいていのパブはビールあるいはスコッチを飲み、語る場所です。なにかないですね。食事です。ロンドンの繁華街などだと食事しながら飲んでいる風景も見ますが、それでも量も少なく、そういう人の割合も少ないように思います。つまり居酒屋さんではないのです。見事に酒のみ(飲み?)といった印象です。

 

牧場の中を歩いて通るというのは気持ちいいでしょう。これもなかなか味あうことができません。それは産業革命以来、とりわけ19世紀には機械化が進み、人が歯車の一つにされるようになり、休日での自然状態への復帰が不可欠となった人というものの存在、人間性から来る必然的な要請だったのではないかと思うのです。ダンスをする権利も唱えられたりしたのは、それだけ労働が人間性を奪うようになってきたことの反映だったのでしょう。

 

他方で、囲い込みという本来ギリシア・ローマ時代にはなかったと思われる財産権以上のものを地主層が行ったことの自然な抵抗権であったのかもしれません。

 

最後に、九度山町を歩いた感想を述べておきます。それが歩く権利ないしは歩く道とどう関係するか、まだ頭の整理ができていませんが、書きながら(タイピングしながら)考えています。

 

九度山町九度山という町は、紀ノ川に接しながら、高野山から流れ落ちる丹生川の右岸と左岸の渓谷に別れています。とりわけ右岸側は北に紀ノ川、南に丹生川がありとても狭い地区ですが、古い家並みが密集しています。といっても瓦葺きの格式のあるような屋敷はわずかですね。真田幸村が隠遁していた(徳川との決戦に備えて準備していたともいわれています)真田庵跡という場所もその中心近くにあります。

 

私自身はそれにはあまり関心がなく、町中をぶらぶらと歩きました。驚きました。路地と言っても肩幅を少し広げたくらい、60㎝くらいでしょうかとても狭いのです。それがほとんどの路地がそうなのです。私も京都や鎌倉など各地の路地をよく歩きましたが、そういうところがあっても残っているのはわずかです。ところが九度山はほとんどがそうなのです。中に曲がりくねっているところもあります。まあ、武家屋敷風に防御のためというのもあるかもしれませんが、一度歴史的由来を検討したくなりました。

 

狭い区域ですが、この路地歩きは結構面白いです。庭もたいて塀が低く、開放的で、路地からよく眺めることができます。ただ庭のある家は少ないですが。

 

そして紀ノ川に降りることができるのもいいです。九度山の下は岩盤になっています。九度山の名称の由来として、空海が母の住む慈尊院に高野山から訪ねてきたのが9回とかという説の一つが紹介されますが、その慈尊院は2kmくらい?下流に船着き場があったようですから、この九度山はという地域は真田で有名になりましたが、果たして江戸時代まではあまり知られたところではなかったかもしれません。なお、慈尊院のある地域は「入郷」という町名です。

 

だらだらと書いてきましたが、歩く道、それは1m未満が最適かなと思うのです。行き違いもできますね。でも60㎝の幅もなかなか趣向があります。そういう町歩きの楽しさを感じることも大事かなと思うのです。そして歩く権利とまでいかなくても、そういった道を歩くことを今後も守っていくことが必要ではないかと思うのです。

 

そして町から、農地、さらに林地にと歩く道を蘇らせることが今後、検討されてもよいかなと思うのです。たしかに川沿いに整備されたサイクリングロードがあるといいですけど、そういったちょっと見落としてきたところにもわが国の魅力が一杯ではないかと思うのです。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。