たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

技の美 <津本陽著『風流武辺』>を読みながら

2017-06-20 | 人間力

170620 技の美 <津本陽著『風流武辺』>を読みながら

 

以前は目覚めが早くても草刈りを楽しんだいましたが、最近は床の上で読書三昧です。といっても一時間程度ですが。いま読んでいるのが見出しの津本陽著『風流武辺』です。大畑才蔵研究の先達で、いろいろ会話を交わしていて、私が津本陽が『南海の竜』とか吉宗を書いた歴史小説の中で、才蔵を見事に描いていることなどを話したり、いろいろ話題が展開している中で、この書のことを紹介され、興味を示したら、いただいたのです。

 

いろいろな話題を議論したので、何に興味をもったかうっかり忘れていたのですが、折角いただいたのに読まないわけにもいかないと、最近拾い読みをしています。最初、主人公の上田宗固といっても、まったく知らない名前で、最初にぱらぱらと読んだときは、戦国時代の武士でお茶をたしなむ、織田遊楽債のような感じかなと、あまりぴんとこなかったのです。

 

しかし、読み進めていくと、これが面白いのです。身長は5尺(150cm)程度の小柄ですが、荒木村重の有岡城攻めに始まり、本能寺の変後に光秀に味方した津田信澄が支配する大阪城攻めに、また、関ヶ原では西軍として、大阪冬の陣・夏の陣では徳川方として、常に先人を切ってその生死をいとわず戦い続けて、数々の戦功を立てて、戦死しなかった希な人物ではないかと思うのです。

 

でも私の関心はそこにありませんし、いただいた方もそこに眼目があったわけではありません。彼は小兵ながら柔術的な技(小具足刈りなど)にたけていて、どんなに大きな相手に対してもひるむことなく、ねじ伏せてしまうのです。私が習った合気道もその流れの一つを受け継いでいるかもしれないことが一つの興味でした。たとえば手首の少し上の上腕の一カ所を強く指で押さえると、身動きができなくなるほど痛いのです。また、背後を完全に羽交い締めなどされても、たとえば相手の臑(すね)の下の一カ所を押さえると激痛が走り何もできなくなるのです。

 

合気道の基本では、そういた武術的なことは教えてもらえませんが、時折、流派の道場主のような人が参加するとき、そういうことを教えてくれたことがあります。創始者植芝盛平氏もまた小兵でした(写真でしか知りませんが)。二代目もそうでした。そういえば嘉納治五郎氏も小柄ですね。その小柄で腕力があまりなさそうな人が技を磨くと、美しく、人間の体の骨や筋肉、神経伝達系などについてきわめて通暁していて、あまり力をかけずに相手を術中に納めるのですね。

 

その技の見事さは、嘉納治五郎の柔道は見たことがありませんが、植芝盛平翁の場合ビデオで見たか、写真だけなのか、記憶がおぼろげですが、とても美しいのです。それも二代目もそうでした。この方には直接技をかけていただきましたので、その感触が柔らかくまたその技に美が漂っているのです。そういう美を上田宗固が身につけていたのだと思うのです。

 

で、宗固が習ったのはなんと、女性なのです。これは創作なのかはわかりませんが、これにはびっくりです。最近、女性の武将とか、武者がいたという記録があるとかないとか話題になりますし、NHKの大河ドラマは女性の武将でしたね(見ていないのでなんとも評せませんが)。合気道を本部道場で習っていたとき、残念ながらたまたまだったのかもしれませんが、私が相手する女性はそれほど技にきれがなく、高段者でも防衛目的にはあまり有効でないかもと思ってしまいました。ま、これはかなり一面的な見方でしょうね。

 

レスリングや柔道の女性選手を見ていると、まったく歯が立たないと思うのです。戦国時代であっても、そういう女性はいたと思うのです。鎌倉時代の巴御前なんかもそうではないでしょうか。

 

少し脱線しました。技に男女の差がないというのが本当だと思っています。そして技は磨けば磨くほど、美しい人の動きになると思うのです。

 

で、これで終われば、ここで上田宗固を語るまでの価値がないと思うわけです。彼は、武術に秀で、果敢に戦陣を切り開くといった、有能な武士であり、また部下を統率する能力も優れていただけではありません。

 

そのロジステックの能力が長けていたことから、城普請が見事で、秀吉以下、数々の大名が彼に依頼しているのです。まだきちんと読み切れていないので、城の名前はおいておきます。そしてその築城の名手が、今度は庭園造りの名手となったのです。

 

彼が造園したのは、関ヶ原で負けた蜂須賀の居城となった徳島城に池泉庭園を造ったのが最初でしょうか。その後、浅野幸長につかえて紀州藩に移ったとき、和歌山城(当時は若山城だったと思います)の西の丸に、上記と同様の庭園を造っています。そして御三家筆頭の徳川義直から依頼を受けて名古屋城に庭園を作っています。終焉の地となった、広島では、浅野家の国替えに同行し、御泉邸(みせんてい)という敷地約13200坪の大庭園を造っています。それが現在も広島市民の憩いの場である縮景園(しゅくけいえん)として残っています。

 

これが見事な美しさですね。広島へは仕事を含め何度も行っているのですが、素通りでした。ウェブ情報を見ると、とても素晴らしい庭園です。美の技であり、技の美でもあるのでしょう。

 

で、上田宗固は、荒っぽい血走った戦士にとどまらなかったことはこれでわかるかとおもいます。しかし、その神髄は茶人としての宗固でしょう。その見事なお手前は実際に体験できませんが、その子孫が営々と流派を受け継ぎ、見事な庭園とともに、現代に息づいているのです。

 

あまり遠出する気力がない最近ですが、こんど広島に行くチャンスがあったら、是非立ち寄ってみたいと思っています。

 

そして最後に、上田宗固は、死に際の美を堪能させてくれます。宗固は、厳島の景観美を愛し、「儂が死んだときは、この場で蛇尾にいたすがよい」と厳島の見える大野串山の小高い頂で、告げたとのこと。そして、断食をはじめてのち、棺と鉄槌をつくらせ、遺言したのです。「儂を荼毘にいたせしのち、この槌にて骨を粉といたし、早瀬の海に沈むべし」と。

 

遺族は、遺言に従い、その場所で火葬にして、骨をこなごなに砕いて、早瀬の早い流れの中で、宗固の骨を海中に撒いたのです。

 

数少ない江戸時代の散骨例かもしれません。しかし、断食20日目に息を引き取り、海中に散骨するという最後まで技の美を示しているように思うのです。享年88歳という、信じられないほど長寿の命を美しく幕を引いたように思うのです。

 

そしてその精神は、上田流和風堂として上田宗固流茶道を現代、さらに未来に向かって活かし続けるのでしょう。

 

今日は私の好きな作家の一人、津本陽氏の作品紹介(拾い読みなので失礼ではありますが)でした。この辺で終わりにします。

 


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