たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

命の後を考えてみる <「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>などを読みながら

2019-01-30 | 人の生と死、生き方

190130 命の後を考えてみる <「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>などを読みながら

 

今朝の毎日記事はいろいろ興味がそそる記事がありましたが、結局選んだのが<いのちのほとりで/10 「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>というところが私らしい選択かなと思うのです。

 

本題に入る前に一言触れますと、やはりサッカーアジア杯のイラン戦です。残念ながら試合日時間を失念して寝てしまい、その後ニュースで勝ったことは分かっていますが、ビデオなどゴールシーンを含め相当なつばぜり合い、すべて見るチャンスを失しました。たしかに結果は30ですから一見圧倒しているように見えますが、イラン監督が指摘するちょっとしたミスが招いた結果で、それまでの接戦状況を見たかったと思うのですが、後の祭りですね。大迫選手が入ることにより、どのような変化があったか、それまでの試合がとても緩慢なプレーのように見える状態がどう変わったのか興味深いのですが、とこの試合に関する記事を見るたび思うのです。

 

さて本論に入ります。上記記事は、エンバーマーと呼ばれる「遺体衛生保全師」の処置内容を割合リアルに取り上げていて、とても興味深いものでした。以前少し紹介した曹洞宗僧侶でもある枡野俊明著『あなたのお墓は誰が守るのか』では、墓は誰が守るのかとか、死に支度を調えるとか、「心のエンディングノート」を書き残すとかに言及する大事な内容の他、「生と死を見つめる禅のことば」の紹介もあり、参考になります。

 

僧侶らしい死に向かう当人におくる言葉かなと思いつつ、では命が尽きた後は戒名とか、墓とか、供養とか、いわゆる従来の仏教の世界で終わっているのが少し残念に思っています。

 

すでに納棺夫という仕事というかその遺体処理は、映画「おくりびと」で相当に人口に膾炙しているかと思います。私自身、「おくりびと」を通じて遺体処理の神聖さを感じ取り、遺族なり関係者への配慮として一つの選択かなとも思ったりしたところですが、では仏教徒なり、宗教者の立場ではどう考えているのか知りたいところでしたが、取り上げていません。

 

仏教会は、そういえば明治維新で廃仏毀釈を(いやいやながらも)受忍しながら、火葬禁止令については強い反対をして、2年後に廃止に追いやっています。火葬にはこだわっていたのですね。元々700年に行基の先輩?道昭が最初に行ったのが日本初ともいわれていますね。仏教の世界では火葬は当然ですが、わが国ではその後広まっていませんでした。

 

毎日記事でも<ほぼ100%火葬される日本では、葬儀が行われるまでの、数日のための処置であることが多い。>というのですが、?と思うのです。本題と関係しませんが、いま話題の統計では、たとえば<衛生行政報告例>の平成91月から3月の埋火葬率では全国的にはそれなりの埋葬率を維持しています。

 

私も四半世紀以上前調べたことがあり記憶があいまいですが、戦後初期くらいまで埋葬は地方ではかなりの割合であったと思います。大正末期の<火葬と土葬の比率(1925年・大正14年)>が簡単に見つかったので取り上げますが、だい都市圏と真宗信仰の強い石川、富山、新潟3県を除き、50%未満どころかなかに数%の火葬率というくらいで、地方では火葬は長い間不人気だったのです。

 

だいたい墓地埋葬法は5条で「埋葬、火葬又は改葬を行おうとする者は、厚生労働省令で定めるところにより、市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の許可を受けなければならない。」と規定していて、両者に優劣をつけていません。むろん埋葬禁止なんていっていません。ただ、条例等で禁止地域を定めていることが多いかと思います。法律は埋葬も火葬も平等に扱ってきたのですね。

 

また余分の話に飛んでしまいました。変なところにこだわっているようです。

 

遺体修復という面では、私が体験したのは中国上海市が案内してくれた火葬場での中国人の見事なほどの遺体の美しい措置というのか、これはびっくりでした。中国というか上海では、自然体というのは気に入られないのでしょうか、まあ私の印象ではどぎつく化粧したというか、きらびやかな印象でした(まあ昔の記憶ですので半分差し引いて読んでください)。

 

参列する人、身内の人、どんちゃん騒ぎのように賑やかでした。まあ祭りのようなというといいすぎでしょうけど、明るく騒いで黄泉の世界(といっているかは知りませんが)におくることがよいとされているのでしょうか。

 

こういったことは日本ではありえないなと当時は思っていました。でも<日本遺体衛生保全協会(IFSA)によると、日本では1988年以降、一般でも実施され始めた。>そうバブル時期に始まっていたのですね。でもその心はバブル的ではなく、とても精神性の強いもののように以下の内容から感じます。

 

その遺体の修復技術を記事から見てみましょう。まずおまじないからスタートです。

<処置台に載せられた遺体を前に、エンバーマーの馬塲泰見さん(51)は必ず手を合わせる。そして、「自分のやることで誰も傷つきませんように」と心の中でつぶやく。>こういった心がけで医師・看護師も患者に対していると思うのですが、忙しすぎて心が落ち着かないのではと心配します。

 

まず<エンバーミングの目的は「防腐」「殺菌」「修復」の三つ。>であることを知っておく必要がありますね。

 

そのため防腐・殺菌措置を早急にする必要があるのでしょう。

最初に血液を採るのですね。<ステンレスの処置台の枕元に箱形の機器があり、ホースが延びている。このマシンでホルマリン系の薬液を動脈から注入し、血液を排出する。><それから胸部や腹部の残留物を吸引していく。>

 

<遺体は時間の経過とともに腐敗が進み、感染症などのリスクも高まる。その処置をしながら、傷んだ部位を整えていく。>

 

傷んだ部位だけでなく汚れたりしたところをきれいな形に調えるというのもあるのでしょうね。

<処置台の近くの小さな台には「七つ道具」が整然と並べてあった。大きさも形状も違うハサミやピンセット。「トローカー」は先がとがった長い筒状の吸引器具。S字にカーブした大小の縫合用針で、開いたままの口を縫いつける。そのほか、歯ブラシ、ひげそり、爪やすりも。口の中は細菌だらけだから、必ず歯を磨く。男性の遺体は病院でひげをそっても、保湿しないと翌日には青く腫れる。お尻の床ずれ(褥瘡(じょくそう))を放置すれば、すぐにそこから体液が漏れ出す。見えない部分の処置でも手は抜けない。>

 

血液を取った後、今度は防腐剤と色素を注入して生きているに近い外観を形成するのでしょうか、荒事が待っているようです。

<遺体の中の血液を防腐剤の薬液に入れ替えるための、全身を使った「荒事」。その作業の一方で、注入する薬液に色素を混ぜて肌の色味を変える「内側からの化粧」を施したり、歯磨きや口の縫合などの細やかな作業を同時にこなしたりする。>

 

これだけでも大変な作業ですね。機械的にやっては心が欠けますね。

その点さすがです。

<馬塲さんは処置の最中、遺体に声をかける。「お待たせしました」とか、「ここを縫っておきましょうね」とか。「対話」が必要だと思う。>むろん遺族とも。これを読んでいると、まるでユマニチュードの死後版のような印象を持ったのは飛躍すぎでしょうか。

 

おまじないの意義を記者は改めて確認するのです。

<馬塲さんが処置前に言うオマジナイの意味がわかった。「誰も傷つきませんように」は、故人と遺族、ともに不用意な処置で傷つけてはならない、その戒めの言葉だった。>

 

こういったエンバーミングについて異論があることは確かでしょう。

ただ、<「死」の意識は変容する。葬送の現場は多様性を認めて大きく変わりつつある。いまは、最後の別れの場面で「生きているような姿」を見せてほしいと考える人がいてもいい。それにかかる十数万円の費用が高いかどうかは、遺族の判断だろう。>と【滝野隆浩】記者は指摘しています。

 

他方で、遺体に向き合う関係者は<プロとして、ご遺族に何ができるのかを真剣に考えているのです」>というのも事実でしょう。

 

で命の後は、誰がどう判断するか、死者は何か言えるか、遺族の領域かをいま考えています。生前、エンディングノートでその意思を残すも一つでしょう。でもそれをどう考えるか遺族が自分で対応することかもしれません。命尽きた後何かを期待するのもどうかと思うのです。

 

他方で、命の収まり方はその人が最期にできることでしょうね。

 

今日はこんなところでおしまい。また明日。

 

 


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