たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

画像鏡と紀ノ川その5 <万葉集と紀ノ川、その上・下流の八幡宮縁起>などを読みながら

2018-01-25 | 古代を考える

180125 画像鏡と紀ノ川その5 <万葉集と紀ノ川、その上・下流の八幡宮縁起>などを読みながら

 

紀ノ川については、和歌山工事事務所が事務局となり、紀の川水の歴史街道編纂委員会(委員長・中野栄治近畿大教授)によって平成8年に編纂された『紀の川―水の歴史街道―』(426p)が歴史的・文化的考察に加えて、大畑才蔵をはじめとする関係する人物、関連する河川・支流や現代の治水・利水と環境など広範囲に取りあげていて参考になります。

 

才蔵研究の先達であるKさんから資料をいただいたのですが、なかなか読む機会がなく、今回もその一部のみの紹介となります。

 

その内容の主要な部分はいずれ紹介するとして、今回は画像鏡との関係で私なりの感覚で、万葉集などちょっとした部分を紹介したいと思います。

 

まず「『万葉集』記載の紀伊国の歌は少なくとも103首、実際は1l 0~ 130首ぐらいと考えられている。」というのですから、相当な数ですね。

 

しかも「これらの歌は大和国から天皇の紀伊行幸に際してのものが主で、額田王・有間皇子・柿本人麻呂・山上憶良・山部赤人・笠金村・大伴家持といった代表歌人である。」というのですから、百花繚乱ですね。

 

和歌浦を歌った名歌はとりわけ有名ですが、紀ノ川やその周辺景観を偲ばせる歌もかなりありますね。

 

紀ノ川の景観で最初に取りあげられるのは真土山です。

たとえば「大宝元年(701)官人、調首淡海が歌った

あさもよし 紀人ともしも 真土山 行ききと思らむ 紀人ともしも(巻1-55)

 

これは通常、ヤマトの都から紀伊の国に入ったという感慨から歌われたものという意味で、望郷の思いと別の国に入る、また初めて見る大河・紀ノ川への思いもあるかのような解説がなされているのではないかと思います。

 

真土山を超えて少し西に行った位置にある隅田についても触れた歌があります。

真土山 タ越え行きて 麓前(いおさき)の角太河原(すみだ) にひとりかも寝む(巻3-298)

 

で、私はここで隅田の河原とあることを不思議に思っているのです。現在の地形から隅田地区に河原が生成できるような状況は想定しにくいのです。両岸は河岸段丘の崖面で、その間は巨岩が並んでいます。とはいえ、紀ノ川の流れは戦後ダム建設などにより大きく変わったと思いますし、それ以前も長い歴史の中で氾濫を繰り返してきたわけですから、隅田地区の地形形状も大きく変わったのかもしれません。

 

あるいは隅田地区は相当広範囲で、五條市の一部まで、あるいは西側の妻に近いところまで含んでいたかもしれません。

 

妻という地名を歌った万葉集もあります。妻には現在では想定できない何かがあったのでしょうね。その妻付近だと峡谷から出てきた紀ノ川は川幅が大きく広がり、河原も形成されやすくなっていて、実際現在もこの辺りからはありますね。

 

「大宝元年( 701)の持統太上天皇と孫の文武天皇の歌に

妻の杜 妻寄しこせね 妻といひながら(巻9--1679)

 

ただ、ここからさらに西方に行った位置にある背山については15首も万葉の歌が集中しているそうです。

人ならば 母が最愛子(まなご)ぞ あさもよし 木の川の辺の 妹と背の山(巻7-1209)

麻衣 着ればなつかし 木の国の 妹背の山に 麻蒔く吾妹(わぎも)(巻7-1195)

 

その理由として、その詩情をそそる景観だけでなく、「紀の川中流の畿内の南限とされる妹背山の歌は、そこが畿内のはずれで、紀伊国へ入る別離の地であること」とされています。

 

なにか真土山のくだりと少し整合性があるのかと不審に思わないでもないですが、紀伊国というのは微妙な存在だったのかもしれません。そういう含みを持たしつつ、やはり隅田は畿内であって、特別の場所だった可能性を万葉の歌も知らしめているのかもしれません。

 

とってつけた万葉の歌の話になりましたが、ここからが本論です。というか勝手な空論です。

 

隅田八幡宮には神功皇后から画像鏡を下賜されたという伝承が残っていましたね。もう一つ重要な伝承が紀ノ川河口付近に位置する木本八幡宮に残っています。

 

ウィキペディアの木本八幡宮で紹介されています。

「神功皇后が三韓征伐を終えて凱旋の途次、麛坂・忍熊両皇子の乱のために誉田皇子(後の応神天皇)が武内宿祢とともに当地に上陸して頓宮を営み、暫時滞在して難を逃れたという事があり、後に欽明天皇の勅命でその頓宮跡に、「しばらく」滞在した故事に因んで「芝原(しばはら)八幡宮」と称する八幡宮(祭神、応神天皇、神功皇后)が創建されたといい[5]、遙かに降った元和4年(1618年)にこの木本・芝原の両宮が一体化して「木本八幡宮」と称するようになったという。」

 

日本書紀の中に少なくとも紀ノ川河口まできたことは言及があったと思います。それが宮まであったというのですから、隅田に宮があってもおかしくないかもしれません。

 

ところで、話しが変わりますが、紀ノ川の河川交通というか物資運搬という点では、吉野の杉林の筏流しという話しがありますが、どうやら江戸以降のようです。古代、少なくとも飛鳥白鳳時代、吉野参りとかが頻繁に行われた記載がありますが、吉野杉は利用対象となっていなかったのですね。

 

では江戸時代まで河川交通がなかったかというと、やはり船での行き来はあったようですが、具体的な詳細ははっきりしません。

 

神功皇后なり応神天皇が紀ノ川河口までやってきて、紀ノ川を遡らなかったという推定には私は今のところ与しません。海の神、船を自由に操っていた人たちではないかと思うので、この程度の河川を遡れないとは思わないのです。

 

それとは別に、背ノ山の手前、笠田という昔は桛田荘という有名な荘園があった地域に、鎮座する宝来山神社があります。以前、ブログで少し取りあげました。

 

同神社のホームページでは<創建は宝亀4年(773年)和気清麻呂公が八幡宮を勧請し、八幡山と呼ばれたのが始まりとされています。>この和気氏は道鏡時代に大変な活躍をしたものの左遷され、桓武天皇に取り上げれていますが、この読みワケは応神天皇のホンダワケとつながるのではというのは思いつきですが、気になります。

 

それはともかく、宝来山の「ほうらい」は、徐福伝説の「蓬莱山」からきているとの説明を受けたことあり、実際、神社の社の近くまで水がきていたというのですね。

 

中国の道教思想がどう関係するのなんて言われそうですが、紀ノ川中流域に理想の国を生み出そうとした思いを感じるのはあまりに飛躍がすぎますか・・・取って付けたストーリーであることはわかるのですが、神功皇后・応神天皇母子の伝承を通じて、八幡伝説を全国的に展開し、八幡宮を拡散するだけのなにかがこの紀ノ川にあったのではと勝手な空想をめぐらしています。

 

だいたい、和気清麻呂をヒーローにした仕掛け人は、それまで知られていなかった宇佐八幡宮の宮司によるわが国最大の偽装ともいえる神託ですね。

 

桓武天皇に取り立てられた和気氏、空海もびっくりするほどの土木事業などに活躍ぶりをしています。

 

彼が建立した神護寺の沿革によれば、<平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。>

 

この高雄山寺が神護寺となり、最澄も招かれ、空海もここを拠点に活躍の場を広げていますね。中世には文覚も中興の祖になった?とか。たしかこの神護寺で、西行と明恵を会わせていませんでしたかね。

 

その文覚が、宝来山神社の麓に広がる桛田荘のために、北方にある静川から灌漑用水を引いてきたということで、文覚井の伝承が残っています。用水研究をされている皇太子もこの神社を訪ねて、国連国際水フォーラムで立派な講演をされています。

 

ちょっとあげただけで、著名な人物がわんさかでてきます。だからなんだということになりますが、なにか神功皇后伝承や紀ノ川物語と関係がありそうな気がしているのです。

 

こういう脱線をしていると終わりません。

 

夕方から会議があり、今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

 


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