180123 画像鏡と紀ノ川その4 <日根氏の「銘文を読む」>と海上交通を支配した神功皇后伝承の脈絡を考えてみる
わが国の古代歴史において著名な人物は、皆さん八面六臂の活躍を示されています。日本武尊は日本各で破天荒の活躍をしていますね。聖徳太子も神がかりの才能を発揮しています。少し下りますが空海は当時の世界の中心地、唐で、またわが国で比類のない活躍が伝承されています。それに劣らないのが神功皇后です。
で、その実在性に疑いをもたれたり(空海は別ですが)、さまざまな人の時代を超えた業績を一人に凝縮されるといった伝承ならではの有り様を感じることがあります。神功皇后こそその典型のように感じて、とても興味深い存在です。
わたしが神功皇后を身近に意識したのは、瀬戸内海の潮待ち港、鞆の浦にある神社を訪ねたときが最初です。その港の一部を埋立架橋するという埋立免許差止訴訟(略称・世界遺産訴訟)を提起する弁護団の一人として、景観調査の一貫で、町並みを散策しているとき、地元の沼名前神社(ぬなくま)の鎮座由緒に、神功皇后から身につけていた鞆を賜ったということが書かれていたのです。でも当時は神功皇后と聞いてもあまり心に響きませんでしたが、住民の多くが意識していたのでずっと心の奥底に残っていました。
それから少し時間が経ち、当地にやってきて古代に関心を抱くようになり、隅田八幡画像鏡を知るようになり、神功皇后が突然、なにか心に響くものがありました。
神功皇后に関わる各種の書籍を読んだり、隅田八幡画像鏡についてもいろいろ渉猟しているうちに、適当に読んでいるせいもありますが、訳がわからなくなっているのが現在の状態です。紀ノ川の歴史風土にも関心があるので、その辺りを軸に少し整理しようかと思っているとき、以前読んだことがある日根氏の著作が一見、わかりやすく感じ、この中の一冊を手がかりに一歩踏み出してみようかと考えたのです。まだ霧にむせぶ中を進む視界不良の航海ですので、どこに行き着くかわかりません。
さて今朝は日根氏の「銘文を読む」を中心にして、神功皇后との関係を少し考えてみたいと思います。
隅田八幡画像鏡について、日根氏は詳細にその画像の一つ一つ、形状、全体の外観、材質など、緻密に観察していますが、それでも問題の核心は「銘文」としています。それはそうでしょう。この銘文が高橋健自氏によってわが国最古とされ、当時の大王の比定まで言及されていくわけですから。
日根氏は、銘文の最初に書かれた「癸未年」の年が議論されていることを取りあげ、西暦383年から623年まで、干支の60年周期にそった可能性を取りあげ、道教思想や当時の歴史的事実を踏まえて、503年説を妥当としています。ここの議論は別の機会にできればと思います。
さらに進んで、固有名詞に着目し、人名、地名について、いずれも日本書紀による当てはめでは妥当せず、中国の文字資料・国史の倭王名とも一致しないとして、次の章で「銘文は吏読(いどう)だった」の中で、当時の東アジアでは漢文が国際表記で、百済を含め朝鮮半島三国も、万葉仮名に類似した独自の吏読という表記方法をとっていたとの見方です。
先住民の世界を少し歩いていると、彼らの言語文化は文書より口承ですので、どうしても文書は先端文化を導入して渡来してくる西欧人の言語によってしか古い時代の文書が残っていませんね。6世紀頃まではわが国や朝鮮半島も、そういった時代であったとの理解はもっともと思うのです。
で、「万葉仮名では読めない」と箇所では、昨日取りあげた、小林行雄『古語』でも万葉仮名の読み方ですので、ふりがながついていない箇所が多いというのです。吏読である以上、それに応じた読み方となるわけですね。
さらに固有名詞についてのこれまでの通説に異論を唱えます。
たとえば、次にように個別に問題を指摘します。
「男弟王」も「おと王」と読んで、誇が「男大逃」である継体天皇をあてる人が多いのですが、岩波書店門日本書紀』の頭注でも「音韻の点からみて難がある」としています。「男弟」は「おと」しか読めないというのです。「今州利」にもフリガナがうたれていません。
地名や人名でフリガナがうたれているのは、意柴沙加(おしさか)宮、斯麻(しま)、開中費直(かわちのあたい)、穢人で(えひと)すが、問題ないのは上の二つで、開中、穢人にも疑問符がつきます。読める漢字よりも読めない漢字の方が多いわけで、これを万葉仮名とするにはかなりムリがあるようです。
このような解釈に一定の合理性があると思うのですが、あまり議論が深まっていない印象もあります。
私はこの言語の解釈論がまだ理解できていないこともあり、一歩退いて、次のような見方ができないかと考えています。
この人物画像鏡の銘文では、おおむね斯麻が武寧王であることは異論がほとんどないのではないかと思います。日根氏は「武寧王陵から墓誌石がでて、諱が斯麻で、四六二年に生れ、没年が五二三年であったことがわかって、斯麻=武寧王説は一気に有力になり、癸未五〇三年説が大勢を占めて現在に至っています。」と述べています。
で、その百済の武寧王が長寿を念じて発注して製作されたのが人物画像鏡であることは銘文で明らかですので、その製作が日本人によって行われたり、日本で行われたりというのはあり得るかですが、別段の事情がない限り、それは認めがたいように思うのです。
さて製作を担当したそれぞれを特定するのも大事ですが、これはさておき、武寧王は送り主ですが、その前に、二人の名前がでています。「日十大王」と「男弟王」とありますが、前者は大王となっているにもかかわらず、その特定が明確でありません。後者の男弟王について継体王とする比定することに日根氏の見解では語音などから疑義が出されています。
なぜ武寧王が王という名前を記さず、その前に、大王と王を置いたか、そこに3者の関係を物語る背景を考える必要があると思うのです。
そして日根氏はこの後に、「神功皇后の記憶」という表現で、「紀伊國名所圖會」の記載を引用しています。
「寺僧伝えて神功皇后三韓を征したまへる時、かの土の人、皇后に献れる鏡といふ」としるしています。
神功皇后が朝鮮半島において献上された画像鏡とされているのです。日根氏指摘のように、18世紀初頭の紀州徳川家も、編集責任者も、実直に、また相当の根拠を持って寺の伝承を残したのだと思います。
日根氏はこの大王、王と武寧王、そして神功皇后との関係性については語っていません。が、語る価値のあるものではないかと思っています。それは5世紀の倭の五王や百舌鳥古市古墳群の被葬者比定にも関係する問題につながる可能性があるからです。
さてこの次はどこまで書けるかわかりませんが、少し休憩してから、頭の整理をして再開してみようかと思います。そうなるといつになるかわかりませんが、なにか伏線を書ければ書いておきますが、明日になるとどうなるか・・・
補足
海上交通支配と神功皇后の話が欠落しました。その辺りを書ければ明日の話題にはなりますが・・・
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