たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

祈りと人の生き方 <「象徴」実践と不可分 陛下の祈り、全身全霊>を読んで

2017-05-21 | 日本文化 観光 施設 ガイド

170521 祈りと人の生き方 <「象徴」実践と不可分 陛下の祈り、全身全霊>を読んで

 

今朝も暗闇の中で目覚めました。それでも漆黒の中、野鳥のか細い鳴き声が聞こえてきます。意識がはっきりしていたこともあり時計を見ると3時半頃でした。意識活動が明確だと、たまたま浮かんでくる想念のようなものも自分の意図と絡んで方向性がわりあい集中し、ある事柄をしばらく考えていました。個人的なことなのと、たのしい話題でもないのですが、ついついいろいろ考えが湧いてきます。嫌気がさすほどしっかりした意識ではないものの、次第に眠気が勝ち、目覚めると外はまぶしいほど明るいのです。それでも6時前でした。

 

ツーピーツーピーと甲高いシジュウカラの声が聞こえてきました。スギの木のてっぺんに止まって、周りを席巻するかのように、一羽が奏でています。今日も暖かい一日になりそうですが、まだ肌寒く感じるほどで、ちょうどよい早朝の空気です。花に水をやり、だいぶ枯れたのが目立つようになりましたが、何度も枯れては咲いてくれる花もあり、それを期待しながら一つひとつの花に水をあげています。今日も別の花を買ってこようと思いながら。

 

さて本日のテーマ、なかなか絞れなかったのですが、自分の感覚にはない分野の問題に少し挑戦してみようかと思う気分で、<考・皇室社会を映す/1 「象徴」実践と不可分 陛下の祈り、全身全霊>を取り上げることにしました。

 

最近、皇位継承や天皇の退位問題など、皇室をめぐる話題に事欠かないですね。私自身は、失礼ながら、従来ほとんど関心のなかった分野です。憲法論としてもほとんど考えてこなかった対象でしょうか。ただ、最近の今上天皇が被災地や沖縄をはじめ太平洋各地の戦没地を訪問される様子をニュースで見るたびに、なにか心に響くものを感じるようになってきました。

 

祈りという行為は天皇が行う祭祀として最も重要な行事の一つでしょうか。いや祈りという行為とはどんな内容で、どんな意味を持っているのか、どのような方式があるのか、そういったことすら、これまでほとんど考えたことがありませんでした。

 

私自身は、神社仏閣について特段の関心をもつことがないものの、訪問すること自体は最近になって割合多くなりました。首都圏で仕事をしている頃は、そういう気持ちの余裕がなかったこともありますし、そもそも宗教にさほど関心がなかったことも根底にあると思います。そして神社やお寺に参っても、祈るという形はとっても、特段、祈ることを意識的にしたことはありません。ましてや自分の将来や人生を祈るといったことはどちらかというと恥ずかしいことという感覚があるのか、やりません。

 

祈りとは何かについて、宗教的な意味合いで言えば、国家仏教の時代から個人のための仏教がより一般化した鎌倉仏教の時代ころから、祈るというのが庶民に普及したのでしょうか。むろん平安時代には空也をはじめ、浄土思想を普及させたおかげで、庶民は祈ることにより浄土に行き着くことを期待していたのかもしれません。法然はそれを南無阿弥陀仏と、日蓮は何妙法蓮華経と、などそれぞれの宗祖が祈りのあり方を導き、心の平安を庶民にもたらしたのかもしれません。

 

ただ私のように、聖書を勉強してもアーメンと祈るにはほど遠い状態で生きてきましたし、仏教もそれぞれの宗教史や宗祖の生き様を少しかじっても、祈るという方向にはなかなか性根がすわってきません。

 

そのためか記紀に書かれている天皇の古墳や神社を訪れても、その伝承に感銘するような心の動きは一切起こりませんので、その形態や周囲の景観などといったものには関心を抱いても、祈る中身が心のどこからも生まれてきません。

 

と長々と私個人の祈りについての感想めいた話しをしましたが、それは毎日記事で天皇がおこなってきた祈りの一端を明らかにされたことから、少し敬虔な気持ちになったためかもしれません。自らと対比するのも失礼なことですが、天皇がされてきたことは人間・天皇として精一杯の努力の積み重ねでもあったのかなと思った次第です。

 

<天皇陛下は70歳を超えていた。毎年11月23日に行われる収穫に感謝する新嘗祭(にいなめさい)で、祭祀(さいし)を執り行う神嘉殿(しんかでん)に向かって陛下が回廊を歩いていく時のことだった。装束を着け、斜め後ろから見ていた当時の侍従長の目に、奥歯をぐっと強くかみしめるような非常に厳しい陛下の表情が映った。>という記述は、全身全霊で祈りに取り組む姿を的確に描写しているように思えます。

 

<新嘗祭の当日は事前に御所でおけでお湯をかぶって身を清める。下半身はけがれたものであるという考え方から、タオルで体全体を一緒に拭くのではなく、浴衣のようなものを着ては脱いでを繰り返し、体を乾かす。宮中三殿で通常の祭祀で着る装束よりさらに古式で純白の絹でできている御祭服(ごさいふく)に着替える。重く、袖も広くて動きづらいが、祭祀では立ったり正座したりを繰り返す。>

 

人間のもつけがれを取り払い、できるだけ自然に近い形で、清清とした、そして凛として、望まれる人間・天皇の潔さを感じてしまいます。祈りとはそういうものなのでしょうか。そしてその祈りは人のため、万民のために、なされている純粋な思いなのではないでしょうか。

 

このような清清とした祈りであってこそ、その祈りは尊いものとなりうるでしょうし、その祈りをされる天皇への崇敬というか、尊敬の思いが自然と宿るのではないでしょうか。

 

私たち庶民は、欲望の塊かもしれません。祈りという形で、自らの欲望や希望、目標という個人的利益を追求しようと生きていないでしょうか。欲望がなくなれば、いきている価値がない?と思う人もいるかもしれません。しかし、人は欲望を求めるためだけに生きているとは限らないようにも思うのです。

 

法然が自力を排し、他力にのみ依拠して、ただ阿弥陀を祈ることに生涯をかけ、その純粋さに多くの人が救われてきたのかもしれません。それは浄土宗だけがなしえたものではないでしょう。

 

現代の私たちは、真の祈りというものを失っていないでしょうか。そこにこそ心の安楽、安らぎがあるのではないかと、ふと思うようになりました。

 

すでに人間のさまざまな能力を超えるAIが社会の中で活躍しています。<時代の風人工知能の未来=京都大教授・中西寛>では、<人間が作った機械が人間の知性のある部分を追い越しつつある事態をどのように考えるべきか、答えは出ていない。一方で発明家のカーツワイルが「特異点」という言葉で表現したように人類史の転換点が迫りつつあるという見方がある。カーツワイルはAIが人間の脳組織を超えた時、知性は生物としての限界を突破し、機械と融合した新たな知性が文明を担う時代が始まると唱える。>

 

現代の人間にとって人生における本旨的な要素といっても過言ではない、働くということについて、中西氏は<人間は本来、他者と交わり、誇りを持って生きる「活動」のために「労働」や「仕事」をする存在のはずなのに、機械の発達によってますます狭い「労働」に押し込められているのではないだろうか。物質的、技術的に最も発達した先進世界で人々の不満が高まっている背景には、人間の本質的な価値が忘れられていることがあるのではないかと思う。>と懸念を訴えています。

 

その<人間の本質的な価値>とは何か、また<見直すとき>とされる<「人間らしさ」>とは何か、いま私たちは日々、この問題に直面しているように思うのです。

 

その答えではないですが、私たちが過去、とても大事にしてきた「祈り」という心と体の集中を失っていないかを、天皇の祈りを通じて、いま考えています。祈りは、縄文の時代から1万年以上の歴史をもち、人間の本質的な要素ではないかと思うのです。弥生時代に農耕文化の繁栄という形で、少し変容してしまったかもしれないですし、それ以降も、個々人が心の支えとなっていたものを喪失したまま、現在に到っていないのか、少し考えてみたいと思います。それはAIが人間の能力を凌駕しても、人間の本質を脅かすことがない重要な要素として、一見、失ってしまったかもしれない精神的肉体的作用を蘇らすことかもしれません。

 

今日も暗中模索のものがたりでした。この辺で終わりとします。

 

 


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