たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

認知症高齢者との触れ合い(1) <『「ユマニチュード」という革命』>を学ぶその1

2018-04-10 | 医療・介護・後見

180410 認知症高齢者との触れ合い(1) <『「ユマニチュード」という革命』>を学ぶその1

 

以前、ユマニチュードを実践されているイヴ・ジネストさんを取り上げたNHK報道を紹介したことがありました。その中で、イブさんがされることは驚きの連続でした。

 

認知症高齢者で寝たきりの人、奇声を大声で上げてばかりいる人、何にも関心を示さない人、それが普通の人になるのです。寝たきりの人が立ち上がり、話し出すのです。奇声を上げていた人に笑顔が戻り話ができるようになるのです。彫刻のように物質化しているように見えた人が動き出し、喜怒哀楽を示す、喜びを表すようになるのです。

 

一度偶然見た番組ですが、鮮烈な記憶として残りました。なぜそのような魔法のようなことが可能なのか、そのときユマニチュードについての解説や基本的な技法についても説明がありましたが、少しわかったような気がしましたが、いつかもう少し学んでみたいと思いました。

 

実際、実家に帰ったとき、認知症の母親にまねごとを試してみましたが、少し母の様子が変わったかなというぐらいで、あまり大きな変化は認めることができませんでした。それは当然です。母親の目線で見る、話しかけながら触る、自分のやることを実況中継のように話しながら行う、両手を持って少し立たせてみる、といったことを番組を見た記憶で、見よう見まねで試したのです。容易ではないなというのが感想でした。当然でしょうね。

 

今回、たまたま図書館で『「ユマニチュード」という革命』を見つけ、しばらくこの本を頼りに著者イブ・ジネストさんと、ロゼット・マレスコッティさん(日本語監修・内科医本田美和子さん)の精神と技法を学び、紹介してみようかと思っています。

 

今日はその第1回目ということになります。本に書かれている内容をその順序で紹介するよりは、気になったところから始めます。

 

ユマニチュードの意味は、前のブログで紹介したかもしれませんが、言葉の意味より中身を知ることが大事かなと思いますし、内容を紹介しているうちに、その目的・意義も自然に理解できるのではと期待しています(これは自分自身にとってもです)。

 

そこで本書は5章の構成ですが、今日はその最後の章を取り上げて、ユマニチュードにアプローチしてみたいと思います。

 

第5章のタイトルは「ユマニチュードに迎い入れる」というものです。その相手の方は認知症高齢者です。それは介護の対応といったよくあるマニュアルとは異なる表現ですね。「迎い入れる」というのです。変わった言葉遣いですね。フランス語でなんという原語が使われているのでしょうか。

 

Accueillirという原語が辞書では出てきましたが、もしこれだと「歓迎」「迎える」といった日本語訳が一般のようです。あえて「迎い入れる」と訳したのは本田氏の意訳なんでしょうかね。

 

ユマニチュードでは、触れるということを大切にしていますが、私は、ユマニチュードを連載で紹介するに当たり、「触れ合う」という言葉を選びました。それはユマニチュードの基本的な4つの柱を総合すると、そういう要素を感じたからです。今後理解が深まれば、また表現も変えるかもしれませんが、とりあえずはこの言葉があっている印象です。

 

さてここでは、まず「人間の第2の誕生」ということが「迎い入れる」ことを理解するための重要な要素として取り上げられています。

 

人間の誕生は、第1、第2、第33つの段階があるというのです。第1は母胎から生まれる生物学的誕生です。これは誰も異議がないでしょう。でも第1の誕生だけでは生きていけないというのです。「種の仲間に迎え入れる」第2の誕生が欠かせないというのです。

 

その「迎い入れる」方法は、ユマニチュードの「基本の柱」、それは「見る・話す・触れる」という包括的コミュニケーションと、自己の尊厳を感じるための「立つ」ことの4つの柱です。」なのです。赤ちゃんがこのようにして「迎い入れる」をしてもらうことにより、「私たちは「おまえは人間だよ」というメッセージを受け取ることができるのです。」

 

おそらくは、この第2の誕生に用いられる4つの柱こそ、認知症高齢者となった人が「迎い入れ」の作法を施すことで、再び人間として誕生することができるという、人間復活のために必須の方法だということではないかと思うのです。それが第3の人間誕生となるのでしょう。

 

このユマニチュードの4つの柱は、見る、話す、触れる、立つということですが、その方法はとても繊細さが求められているように思います。それは一面では赤ちゃんに接するように、あるいは赤ちゃんに教わるように、触れ合う必要があるのだと思います。

 

明日からは、個別にそれぞれの柱を学んでいきたいと思いますが、今日はそのエキス的な表現を取り上げておきたいと思います。

 

1つの柱「見る」ことは「愛の表現」であり、「見ないとは、「あなたは存在しない」と告げること」です。後者は極めて鮮烈的な表現ですが、ずばりではないかと思うのです。

 

2つめの柱「話す」ことは、まず「話す理由は、言語情報を伝えるためだけではない」というのです。これだとわかりにくいかもしれません。話すことは通常、相手に話の内容を伝え理解してもらいその反応を期待しますね。言葉がわからない重度の認知症の方だと言語情報が伝わらないので話す意味がないと思う人が大半ではないかと思います。しかし、そこに誤解があるというのです。赤ちゃんに話しかけるのはなぜでしょう。

 

認知症高齢者は赤ちゃんとは違うと考えるのが普通でしょうね。一旦、言語を理解できなくなったら、理解できるようにならないのだからと・・・それは違うというのです。

 

「沈黙のケアの現場に言葉をあふれさせるための技術」として「オートフィードバック」を提唱するのです。この内容の詳細はまた次の機会にして、基本的には自分が行うことを実況中継するように認知症高齢者に語りかけるのです。

 

3つめの柱「触れる」もまた相当訓練をしないといけないように思います。「優しさを相手に伝える触れ方」という内容は、従来の介護手法に革新をもたらすでしょう。それは「体に触れることは、脳に触れること」という理解ができていないと、かえって悪化しかねないからです。「触れることが自由をもたらす」という言葉も意味深長な言葉です。これらをしっかり学ばないと、とても心の触れ合いができないでしょう。

 

4つめの柱「立つ」がなぜ4つの柱の一つになるのでしょう。「立つことは知性の根幹」であるというのです。立つことの意義、影響の大きさは驚くほどです。その内容も後日として、「人は死を迎える日まで、立つことができる」ともいうのです。立てることで人としての尊厳が保てる、アイデンティティを保持することができるのかもしれません。それは寝たきりの人でも立てるということでもあるのです。そんなことができるか、疑問がわきますが、後日にそれを学びたいと思います。

 

今日はユマニチュード学習、初日ということで、これにておしまい。また明日。


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