たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

家庭と教育と支援 <「家庭教育支援法」成立目指す自民・・・>を読んで

2017-03-02 | 教育 学校 社会

170302 家庭と教育と支援 <「家庭教育支援法」成立目指す自民・・・>を読んで

 

今日は割合、暖かい一日でした。和歌山地裁まで往復したのですが、窓を開けて入ってくるそよ風がとても気持ちよく感じました。体調も少しずつよくなってきて、最近はドライブ中不調になることもほとんどなくなりました。

 

ドライブ中、紀ノ川の流れと周囲の山並みを見るのが楽しみですが、いつもなにか発見があるんですね。ま、よく見ていないということでしょうか。今日は時折、まるで盆地の中を走っているような感じになるほど、360度山が連なっているではないかと思ったほどでした。地球が丸いというのも多少影響するのでしょうか。京都や奈良の盆地の中にいるような感覚でしょうか。

 

それと高野山にはいくつか高い頂のある山がありますが、前景に連なる山脈の中で小さな三角形に見えるのが雪池山(ゆきいけやま)ではないかと思います。おおよそ同じくらいの標高の山が、北から高野山方向を眺めると、雪池山、楊柳山(ようりゅうさん)、魔尼山(まにさん)と南に向かって頂があり、標高はそれぞれ988 m 、1009m 、1004mということですから、ほぼ同じくらいでしょうか。そうすると紀ノ川北岸から見えるとすると、雪池山と考えるのが自然でしょう。で、ウェブ情報で雪池山の画像を見ると、やはり三角形でした。との雪池山、いつもは事務所の近くの紀ノ川北岸の河岸道路からしか見ていなかったのですが、今日はかつらぎ町あたりからもよく見えて、異なる雰囲気の魅力を感じました。

 

さて、そろそろ本題にはいりますが、「家庭教育支援法」となっていますが、中身が全然わかりませんので、毎日の関連記事を探すと<憲法公布70年 24条改正へ布石か 自民検討、家庭教育支援法案 家族の役割を固定化>という記事がありました。その末尾に法案骨子が以下の内容で掲載されていました。

 

<・保護者が子に社会との関わりを自覚させ、人格形成の基礎を培い、国家と社会の形成者として必要な資質を備えさせる環境を整備する

・保護者が子育ての意義を理解し、喜びを実感できるようにする

・国と自治体、学校、地域住民などの連携の下、社会全体で取り組む

・文部科学相は家庭教育支援基本方針を定める。自治体は実情に応じて基本的な方針を定めるよう努める

・国と自治体は、家庭教育に関する保護者への学習機会の提供や相談体制の整備に努める>

 

そこでの議論は、憲法24条の改正議論との関係で、戦前の家制度のように国が家庭像を提示することに、弁護士あるいは学者が問題視する発言が取り上げられています。

 

法案骨子だけからは、必ずしもそういった懸念が当てはまるといえるか、疑問なしとしませんが、国家がこういった家庭教育の支援を制度化する場合、その家庭像というものをたとえば夫は外で仕事をして妻は家で家事をするといった偏った見方であれば当然問題となるでしょうし、シングルマザーやシングルパパ、ジェンダーの家庭など多様なあり方について、基本的に尊重するものでないと、国家による家庭観の押しつけになる危険があることは否定できないと思います。

 

知らなかったのですが、教育基本法が平成18年に改正され、国・地方自治体の関与を推し進めるような改正がされていますが、その中で次の条項が新設されています。

 

(家庭教育)

第十条  父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

 

(幼児期の教育)

第十一条 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。

 

この立法趣旨はまだチェックできていませんが、こういう改正の動向からすると、一定の家庭教育支援法というのは教育基本法の改正時点からの方向性があったように感じます。

 

で、ついでに文科省の<家庭教育支援の推進に関する検討委員会(第9回) 議事要旨>を見ると、その中に、平成24年3月に報告書案が含まれていて、課題をあげ、その支援のあり方、方策、そして国と自治体の役割が述べられています。

 

ざっと読んでみましたが、内容自体はさほど極端なこともなく、これまで教育論議の中でよく言われてきたことを整理しているようにも見えます。といって、この内容から、法制度化までしないと、適切な支援ができないとまではとても読めません。

 

そうなると、見出しの毎日記事で問題視している、「伝統的家族」なる幻想に囚われたのが自民党案の意図かもしれないおそれが払拭できないでしょう。

 

毎日記事は戦前の「家庭教育」なり「しつけ」なりの実態について、興味深い調査結果を指摘しています。

 

<明治後期から昭和初期の漁村で幼少期を過ごした古老への聞き取り(92年、大阪商大の佐野茂教授の論文)では、「学校は厳しかったが、家庭でしつけをされた記憶はない」との趣旨の回答が多かった。>

 

これはわたしよく引用する、維新前後にわが国を訪問した異邦人の記録とも整合するように思います。異邦人の多くは、日本人の両親がとても子どもをかわいがり、しつけといったことはほとんどしない、家庭の中や外は子どもも大人も楽しみ姿で満ちあふれているというものです。まるで良寛さんが子どもと遊んでいるのがどこの家庭でも見られる姿でもあるかのような記述です。

 

それにしても教育勅語を全員で唱和させるという、あの森友学園の幼稚園について、安倍首相や鴻池議員ら、おそらく稲田防衛大臣も含め、この法案を推し進めている自民党議員の人たちは、これがすばらしい教育だと思っているのでしょうね。

 

私自身は、以前にも書きましたが教育勅語自体は、学ぶに値するものの一つと思いますが、幼稚園児全員に一方的に唱和させたりすることが適切かという点では首をかしげざるを得ません。そういう兵隊さんのような、集団教育は個人の尊厳という基本的価値を幼い頃から養うことへの弊害にはなり得るでしょうし、決して役立つとは思いません。なんらかの工夫があれば幼い時期に学ぶことも意味があるかもしれませんが、よほどの教育者が指導するのでなければ、少人数でも有効性に疑問を抱きます。

 

蛇足になりますが、この森友学園の幼稚園での指導については、別の報告がウェブ上で掲載されており、もしこのようなことが事実であれば、大阪府の審議会が一体なにを審議したのかあきれてしまいます。

 

私自身、10年以上前になりますが、地主の代理人として、ある幼稚園経営者が保育園を新たに開園するので、借地させて欲しいという申し出があり、いろいろ面談して、事業の採算性を中心に、保育園児の確保の可能性とかをヒアリングしたのですが、資料を会計士とともにもってきても、きちんと説明できないのです。よく聞くと、コンサルが入っていて、その指導ですべてやっているというのです。それならコンサルに説明してもらおうとしたのですが、コンサルが来ませんでした。なんともお粗末な事業の見通しでした。しかし、幼稚園における教育とかは信頼できるとの地主の情報があり、待機児童問題もあり、行政が積極的で、その免許関係の資料などを見ると、行政が働きかけるので園児の確保も確実で、補助金も確保できると言うことで、結局は、保育園という特殊性から認めました。

 

しかし、小学校となるとまったく違いますね。ましてや幼稚園教育が上記のウェブ情報どおりであれば、とても教育をまかせられないと思わざるを得ません。

 

また、サザエさん人気の背景ともいわれる、<昔の家=3世代同居」論は本当なのか。 >という点ですが、<戸田貞三氏が大正期の第1回国勢調査(20年)を分析した労作だ。この時代、核家族は既に54%(2015年は57・4%)に上り、3世代以上の同居家族などは31%(同10・1%)に過ぎない。>と、3世代同居の実態はなかったのですね。

 

実際、江戸時代以前の墓を見ても、基本、個人墓です。夫婦といえども、一人ひとりの墓です。あるいは共同墓です。こちらの方が普通かもしれませんが、それは家族単位ではありません。また、異邦人が驚いたわが国の家のお粗末さ、狭さこそ、3世代同居なんてあり得るはずがありません。庶民が大きな家を建てるようになったのは、維新後、おそらく大正期頃からではないでしょうか。多くは大地主でしょうから、庶民ともいえませんけど。

 

安倍首相夫婦のような裕福な家系の出だと、それは3世代同居で、大きな家に住んでいたのかもしれません。それは普通の家庭とはかけ離れたものではないでしょうか。

 

やはり安倍首相の思い入れは、祖父や父親の話をよく持ち出されていますが、極めて恵まれた特別の家庭に育ったことから、そこに理想を抱くのもやむを得ないかもしれませんが、それでは多様な家庭のあり方を模索する庶民の意識や心とは離れてしまうのではないかと危惧します。

 

とはいえ抽象論ばかりしていても、現在起こっている、家庭内、家庭外のさまざまな問題に対応できていない状況への適切な対応が実現できません。より具体的問題を取り上げ、それへの実効性ある対策を示すのが政治家の姿勢ではないかと思うのです。法律を作ることだけが立法府の役割ではないでしょうし、行政府、自治体も、現行法の改正や新立法をする前に、現行法の中でできる実践策をもっと練ってもらいたいと思うのです。その上で、改正論なり、新立法なりを検討するのであれば、それは論議してよいと思います。


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