ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

ブログでトグロ巻きR その15 2015教員免許更新講習、とある新潟大学の先生の講座が物凄すぎた件

2018-09-17 22:15:40 | ブログでトグロ巻きR
 第1次アベ政権が制度化した「教員免許更新制」にもとづき、2009年から始まった「教員免許更新講習」に、3年前に参加しました。はっきり言って、金と時間の無駄、としか言いようがない講習なわけですが(教員免許更新制の不当性については、また別の機会に書こうと思います)、それでも大学の先生方は、そういう教員の思いを理解し、多少なりともためになる学習を提供しようと一生懸命でした。
 そんな中、とてつもない講座に行き合ってしまい、それはとても私の心の中だけにとどめておけないほど「面白い」ものだったため、講座修了後にすぐ文書化しました。それが以下の文章です。

2015.7.30 教員免許更新講習「話しことばと書きことば」(担当教員:新大教育学部・鈴木恵(すずきめぐむ)教授)に参加して思ったこと            2ねんEぐみ オブさん


 7月30日、教員免許更新講習の選択講習「話しことばと書きことば」(6時間)に参加してきました。担当は、新潟大学教育学部で国語学を教えている鈴木恵先生です。「すずきめぐむ」と読みます。名前がかわいい、60歳のおじさまです(年齢は、講習の冒頭に本人がおっしゃっていました)。
 今日の講習はいろんな意味でとてもためになりました。なので(「なので」を接続詞で使うのはとてもイヤだ、と最初のお話で鈴木先生はおっしゃっていました)、その大まかな内容についてご報告したいと思います。

■「なので」問題
 前文でも書いたとおり、鈴木先生は「なので」という接続詞がとてもイヤだとおっしゃいます。「なので」は、2000年に入ってから若者ことばとして使われ始め、今では若者だけでなく、けっこう「いい年」をした人たちも使うようになってきているそうです。確かに、私も生徒さんの作文などでよく見ますし、あまりよいことばだとは思いませんから、先生のおっしゃることはもっともなことだなあ、と思いながら聞いていました。
 で、先生はこうおっしゃいました。「同僚の50歳を過ぎている女性の先生がこのことばを使ったのにはあきれた。おばさんなのに、何を若者ぶっているんだと」。会場の受講生の多くはこのことばを聞いて笑っていました、私も笑いそうになりました。が、ちょっとまてよ、と思いました。確かに大人の言葉遣いとしてはどうだろう、とは思うけれども、いわゆる「話しことば」なのだし、「不愉快に思った」というのは鈴木先生の主観的感想であって、他の先生方がどう思われたかはわからない。この場でその先生を、そういうふうにあげつらうのはどうなのか。
 でもまあ、鈴木先生はその先生のお名前は出してはいないので、これからの講義の前振りとしての冗談の一つなのであろう、と私は思い、それからの話を聞いていたのです。

>■「講習中は水を飲むな」
 さて、講座は、午前は60分のコマが3回、午後は70分のコマが2回で、その後40分の試験という流れです。3コマ目の講義が終わるとお昼休み。私たち受講生はめいめい昼食などのためにお昼休みを取り、13時40分から4コマ目が始まりました。その冒頭、先生はこうおっしゃいました。「先程まで言うのを忘れていたが、この講座では講義中に水分を取るのは禁止です」。
 私は、おや? と思いました。昨日の講座では、水分は講義中でも自由にとっていただいて結構です、というお話をいただいていたからです。また、午前中には、水分禁止、という話は全くありませんでした。というわけで、私は先生の説明を待たずに質問しました。「昨日の講座では、水分は自由にとってよいということだった。この講座ではなぜ禁止なのか、理由をお聞きしたい」。
 私は、ただ単に、水分禁止の理由をうかがいたい、と思って質問しただけなのですが、先生は私に向かい、怒りに満ちた視線を向けて、こう言いました。「私の講座だからです」(なぜあんなに恐ろしい目つきで睨まれなければならないのか、私は理由が今もわかりません)。私は、しかし、前述のとおり、ことを荒らげるつもりは毛頭ありませんから、「先生がそうおっしゃるのなら従います」と答えました。その答え方が鈴木先生のお気に召さなかったのか、先生はさらに、会場全体に向かってこのように説明されました。「私は附属小学校(←中学校だったかもしれません)の校長をしていた。また、教育学部の教員として多くの教育実習生を送り出している。彼らには、『授業中に飲み物を飲んでいる児童・生徒がいるか? 現場の先生方は、児童・生徒に対して、授業中に飲み物を飲んでもよい、という指導はしていないはずだ』と指導している。ここにいる先生方も、当然生徒にそのように言っているはずだ。だから、講義中に飲み物を飲んではいけない、というのは当然のことだ」。
 なるほど、たいへんもっともなお話だ、とは思いましたが、いくつかの疑問も残りました。「講座中の水分補給は禁止」というのは、会場の制約がある場合を除けば、社会人講座としてはかなり異例ですから、そもそも講座の冒頭で説明すべきなのではないか。また、最近の小学校などでは、脱水予防のために、家庭から水筒を持たせているはず。あれは授業中に飲んではいけないものなのか? そもそも欧米では、授業中の飲み物禁止、ということ自体あり得ないのでは?(これは、日本と欧米の教育文化の違いがありますから何とも言えませんが)。また、いろいろ細かい指導が必要な成長途上の学校の生徒と、免許が失効してはたいへんだから仕事で忙しい中無理に時間を工面して、自費で講座に参加している先生方とを同一視してそのような理屈を主張するのはどうなのか? と、私は正直思いました(ついでに言えば、この講義の途中、会場からは何度か携帯電話がブーブーうなる音が何度か聞こえていました。私などは、特に周囲の迷惑にならないペットボトルや水筒などからの水分補給より、そっちのほうがよほど気になるのですが、先生は、そのことについては全く何も注意されませんでした。4コマ目冒頭の「言うのを忘れていた」件とは、てっきり携帯・スマホのマナーの件だと思ったのですが)。
 で、先生は再び私に顔を向けて「ということです。いいですか」とお尋ねになりました。私はおとなしく「わかりました」と答えました(この場合の「わかりました」は、先生がとにかく自分の授業中に水分を取る受講者がいること自体が許せないとお考えになっている、ということが「わかった」という意味です)。先生のご機嫌を損ねて教員免許が更新されなければ大ごとですから、とりあえずこの場は、もめ事を起こさずやり過ごそう、と私は思ったのでした。
 その後、次の講義の前に、先生はこうおっしゃいました。「水を飲んでいいといったのは教育学部の○井先生だったそうだ(実名をばっちり出していました)。大学に帰ったら抗議しようと思う」。
 この講座を受講して(させられて)いる小・中・高校の教員が置かれている状況を理解しているのは、はたしてどちらの先生だろう、と私は思いました。

■『舞姫』の「エリス」を「キ○○イ」。
 さて、鈴木先生のお話は続きます。何しろ都合6時間の長丁場、ずっとまじめに講義を続けていたら、先生も受講生もものすごく消耗します。そこで、どの先生も、講義終了後に行われる試験とは無関係な、雑談的お話を必ず織り込んでくださいます。もちろん鈴木先生もそうでした。ただ、鈴木先生の場合、国語学がご専門のためか、話題に出す文学や歴史の細かい事実・史実はけっこうお間違えになっているのですが(坂本龍馬が殺害された時の年齢が「35歳だったかな」とか)、まあ、本筋ではないですから、特にだれも指摘などせず、話は進んでいきます。
 今回の講義では「言文一致運動」が重要なテーマの一つなので、それに関する話題の一つとして、先生は森鷗外の『舞姫』を取り上げられました。そのあらすじの説明もかなりいいかげんでしたが(主人公の「豊太郎」の友人で、豊太郎の日本への帰国を取りはからった「相沢」が留学生仲間だったとか ← 相沢は政府の大物「天方伯」の随行員でしたよね)、
 まあ、それはどうでもいいです。問題は、物語のラストで、愛人である豊太郎の日本への帰国を相沢から知らされたエリスが精神に変調を来したことについて、こうおっしゃったことです。「(高熱が下がり)豊太郎が目覚めると、なんと、隣には『キ○○イ』になったエリスがいたんです」。
 先生、それはさすがにまずいでしょう、と私は(おそらく私以外の受講者の多くも)思いました。その場で瞬時に「それは明らかに差別につながることば・言い回しです」と指摘できればよかったのですが、その場はやり過ごしてしまいました。正直、この先生は、大勢の人々の前でそのようなことを指摘しようものなら、指摘者を逆恨みし、講習の評価を「不合格」にしかねない、という感じだったので、指摘しようにも恐ろしくてできない、という心配が勝(まさ)ったのは否めません。

■同僚の口癖が「不愉快」
 さらに先生の余談は続きます。話しことばについての説明の余談で、先生は、大学の同僚の口癖を取り上げました。「その先生は、話をするとき、余剰言語で『えーっ(小さい「っ」)』と」というのを『えーつ(大きい「つ」)と』言うんですが、それがとても聞き苦しいので、今度注意しようと思っているんです」。
 確かに、他人の癖というのは、傍からみたらとても不愉快に感じてしまうことはあります。貧乏揺すりとか、食べるときにくちゃくちゃ音を立てるとか。でも、その同僚の先生の口癖はどうなのでしょう。確かに、近くで聞いている人にとっては「不愉快」な感じなのかもしれません。が、それは個人的レベルで当人同士やり取りすれば済むことでしょう。わざわざ教員免許更新講習という公の場で、その同僚の口癖をあげつらう、というのは、単なる「話のネタ」ではなく、相当な悪意を感じました。驚きを通り越して、私のほうが不愉快になりました(何しろ、その同僚の方は「新潟大学教育学部の先生」であることは間違いないですから、知っている人は知っているでしょう。単なる「ここだけの話」では済まないのではないか、と私は思ったわけです。

■自分の指導する学生の「常識知らず」をあげつらう
 先生の余談はまだまだヒートアップしていきます。新潟市西区の某中学校で教育実習をした先生の教え子の話題になりました(「○○中学校」と、先生ははっきりおっしゃいました)。
 この教え子は、教育実習終了後、先生の指導に従い、中学校に礼状を封書で送りました。ところが、表書きは普通に書けていたのですが、裏に書く自分の名前を、裏面のど真ん中に、表書きと同じくらい大きな字で、どーんと書いて送ったのだそうです。それが中学校での笑いの種になり、あるとき所用で先生が小新中学校に赴いたときその話題を出され、恥をかかされた先生は、その学生を呼び出して叱責したそうです。するとその学生は「大学にあった礼状のひな形にはそのように書かれていた」と主張したのであきれた、と先生はおっしゃいました。
 でも、これって、大学での指導がなってないからじゃないの?
 確かに、天下の国立新潟大学教育学部の学生が、世間一般の常識を全く身につけていないというのは嘆かわしいことでしょう。でも、勉強ができれば他のことはどうでもいい、と言わんばかりに児童・生徒に勉強を押しつけてきたのは、他ならぬ私たち教員をはじめとした社会全般でしょう。学生は、そもそも常識など身についていない、という前提で指導していかなければならないのが現状なのです(私だって学生のときは本当に非常識な人間でした。もちろんすっかり反省していますが、ひょっとすると今も非常識なおじさんのままなのかもと思うと不安です。皆さんはいかがですか?)。
 それを、マヌケなことをした学生に恥をかかされた、といって怒り、私たち受講生へのネタにして仕返しするというのは、ご自分の指導責任をまったく考えていない振る舞いなのではないか、と私は思いました。

■そういえば、レジメもいいかげん
 講習にあたっては、どの先生方も、1日でまとめて講義を聴き、その日のうちに試験も受けるという私たち受講者のために、講義内容をまとめたレジュメを作って配布してくださいます。私が受講した講座の先生方はほぼ全員、パワーポイント等で明瞭、かつ詳しいレジュメをお作りになっていました。しかし、鈴木先生は違います。講習の概要については、新潟大学が作成した冊子「教員免許状更新講習概要」に載せたもので済ませ、配付資料はあちらこちらの書物や百科事典をコピーしたりしたものばかりで、縦横も統一されておらず、見づらいことこのうえありません。いかにも「やっつけ仕事」感あふれた「テキトー」なもので、しかも、ご自分が作成したレジュメにもかかわらず、どこに何が載っているのかわからなくなり、受講生が先生に教えている、という場面もありました。講習の内容の「薄さ」も含め、どうも、この講習をやる気自体があまりないのではないか、と思いました。まあ、それはお互いさまなわけですからいいのですが、やる気がないのなら、受講生に「講習の最中は水を飲むな」などの「厳しい」基準を求めるのはどうなのか、と思いました。

■テストは40分でB4用紙2枚
 さて、講習もすべて終了し、最後にようやく試験です。
 試験の形式は、2問が出題され、それをそれぞれB4の用紙1枚ずつで書く、それをトータル40分でこなせ、というものでした。そもそも、40分でこなせる分量ではありません(もちろん、1枚全部書け、ということではないようですが、他の講座の試験は、A4用紙1枚、というのがほとんどでした)。私を含め、参加者の多くは、それでもなんとか半分ずつくらい埋めるべく悪戦苦闘していました。私も、それぞれ3分の2程度ずつは埋めたのですが、何しろリウマチで、手の関節に症状があるため、そういう短時間でまとまった字を書くと、右手の指の付け根が腫れて痛み出すので、難儀でした(どうでもいいことですが、鉛筆・シャープペンシルは書くのにけっこう力がいる、ということを再発見しました)。
実は、講習の申し込み時に「障がい」の申告欄があり、何の気なしに「上肢に障がいがあってメモが大変な場合がある」と申告したら、鈴木先生が「だったら板書をカメラで撮影してもいいですよ」とおっしゃってくれたとかで、なかなか良い先生だと思っていたのですが、実際に参加してみると、ホワイトボードに書く分量はとても少なく、写真を撮る必然性はありませんでした。ともあれ、鈴木先生の講習はとても「意外性」があり、いろいろ面白い目に合いました。

■「国語学」を教える「元新大附属学校の校長」が、そういうことを言うことの「おもしろさ」
 今日の講習は、いろいろな意味でとても勉強になりました(本当です)。少なくとも、人権感覚という点においては、鈴木先生より私たち小・中・高校の教員のほうが優れているということがわかったのは収穫でした。国語学の先生が、「人権に配慮したことばの選び方」を全くできないというのも新鮮な発見でした。この事実を、この講座の受講生だけで分かち合うのは大変もったいないので、私の信頼する友人・知人にもお伝えしたいと思います。

 ただし、前述したとおり、私の更新講習の合格が決まる前にこのお話を広く公開してしまい、鈴木先生に知れてしまうと、私の教員免許が更新されない → 失職 → 路頭に迷いのたれ死に ということになってしまいかねないので、このお話を広めるのは、私のこの講座の合格が決まってからにしていただけるとありがたいです。

 この文章は、その講座を受講した3年前に、あまりのことに、すぐに文章化して信頼できる友人・知人に送付したものです。同時期にすぐにブログ等にアップしなかった理由は、もちろん、何らかの事情でこの文章が問題化し、私の教員免許が失効させられる、という最悪の事態を避けるためです。しかしまあ、無事に免許も更新されましたし、3年も経てばほとぼりも冷めているだろう、という判断の下に、ここに公開することにしたというわけです。
 もちろん、以上の文章はすべて事実にもとづき、その上でそこに私の感想を織り込んだものです。皆さんにお楽しみいただければ幸いです。



ブログでトグロ巻きR その14 「原発を動かさないと柏崎の将来はない」という論のふしぎ

2016-11-20 23:27:13 | ブログでトグロ巻きR
 米山新知事が実質的に原発再稼働反対を訴えて当選しましたが、県民の一部、とくに原発立地の柏崎市・刈羽村では、原発再稼働推進もしくは容認の党派が推薦した候補の得票が米山さんの得票を上回りました。また、本日投開票の柏崎市長選でも、原発再稼働容認の候補が当選しました。刈羽村に至っては、原発バリバリ推進派の現職が無投票で当選、という状況でした。原発は必要だ、と考える県民も相当数いらっしゃる、ということがわかります。

原発しか見えない人々の「思考停止」

 原発再稼働を主張する方々は、「原発を稼働させないと日本のエネルギーは成り立たない」とか、「低迷している柏崎経済を立て直すために、原発再稼働は絶対に必要だ」という理由を挙げておられます。わかりやすいですね。
 そういう方々は、「原発」に意識を絡め取られていて、別の方向もあるのでは、というふうには考えられなくなっているようです。道は「原発再稼働行き」一本のみ。よ〜く周りを見渡せば、その他の道だってある可能性があるのに、それが見えなくなっている。
 そもそも、今、日本では原発はほとんど稼働していません。というか、全機が停止していたときも、日本は別に電力不足にはなりませんでした。とりあえず、当面は原発がなくても大丈夫だったわけです。
 というと、「石油や石炭などの化石燃料をばんばん燃やす火力発電に頼るのは、地球温暖化対策に逆行するやり方だ。原発は発電時にCO2を排出しないのだから、活用すべきだ」などの反論が返ってきそうです。
 これって、完全に「思考停止」ですよね。
 そもそも、新潟県は、原発の電力の「恩恵」など、もともと一切受けていません。県内を流れる大中河川のダムによる水力発電や火力発電で新潟県の電力は賄われています。それは柏崎市・刈羽村も同様です。つまり、少なくとも新潟県や柏崎市・刈羽村は、電力調達については現状を保ちつつ、これからのエネルギーをどうするかをみんなでしっかり考える「余裕」がある、とも言えると思うのです。

柏崎・刈羽を廃炉ビジネスと自然エネルギーの拠点に

 私は、原発という危険きわまりない物件を受け入れ、長らく首都圏のために貢献して(させられて)きた柏崎市・刈羽村の人々に心から同情しますし、その人々が、原発を失うことで不幸な目に遭うなどということがあってはいけない、と思います。ですから、柏崎市・刈羽村に、原発に代わる、安全で持続的な産業を創出することが絶対に必要だと思います。
 となると、まず最初に思いつくのは、原発廃炉ビジネスです(これは多くの方々がすでに挙げていますね)。柏崎・刈羽を拠点に原発廃炉のための技術開発を、産・学・行政が共同で進める。世界中の原発は、当然ながら、古くなった順に廃炉させなければなりません。そのための技術開発を、柏崎・刈羽が担うのです。
 もう一つ、これは以前にもここで書いたような気がしますが、原発立地は危険きわまりない放射能を抱えていて、一般的な工業用地や住宅地などへの転送は不可能ですから、その立地をそのまま風力・潮力・波力・太陽光などの自然エネルギー発電の基地として使うのです(これもいろんな方々がすでに提案していますね)。これも何度も書きますが、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんがおっしゃっているとおり、自然エネルギーはすでに成熟技術で、実際にヨーロッパではものすごい勢いで普及し、十分採算が合う、という状況になっています。
 というと、原発稼働にこだわる方々は、「そんな不安定な電気は実用的でなく非現実的だ」と一刀両断したりしますが、それは原発だって、普通に稼働しているときでも一年の半分は点検のために停止しているわけですから似たようなものです。そもそも、蓄電技術の進歩や、自然エネルギー電力でいったん水素を生産し、それを改めてエネルギーとして使用する、などのことで、「不安定性」は解消できます。
 今さらこんなことを言うのもアレですが、我々の生命を脅かす放射性物質を廃棄物としてどんどん生成し、数十万年も厳重に管理し続けなければならない原発のほうが、人間社会を維持するには明らかにヤバイでしょう。

今こそ原発からの離脱のチャンスだ

 ついでに言えば、フクイチ破局事故に見舞われた福島の農産物は、今でもすべて放射線検査が義務づけられるという現状です。原発は、農業をはじめとする新潟の産業をすべて台無しにするリスクなのです。事故がなければいい、というものではありません。自然エネルギーが仮に不安定なものだとしても、少なくとも原発の持つ「破滅性」は全くありません。
 新潟の、そして日本の美しい風土をこれからも保ちたい、と考えるのなら、事故ったら最後、地域の破滅をもたらし、事故らなくても安全な後始末の方法がない原発から、今こそ離脱しなければならないし、そのチャンスはまさに今だ、と思う、今日このごろの私なのです。

ブログでトグロ巻きR その13 わだかまりを解消して選挙戦に臨もうではありませんか

2016-09-28 23:04:57 | ブログでトグロ巻きR
 いよいよ明日29日は新潟県知事選の告示日です。前長岡市長の森民夫さんと、前民新進党新潟5区総支部長で医師で弁護士の(重たい肩書きがなんて多い人だ)米山隆一さん、他2人が立候補を予定していると報道されています。
 私は、新潟県で最も重要な問題である原発再稼働問題をはじめ、TPP参加で本県にも多大な影響が予想される農林水産業や地場産業の振興、人口減少社会対応、新潟の豊かな自然環境の維持・保全、東京・中央の思惑に振り回されない地域主権の確立などといった政治課題について、私の考えに近い米山候補を応援したいと考えています。もちろん、他の候補が私の考えに近い政策を打ち出してくれるならそれでもよいわけですが、有力候補の一人とされる森候補は、私にはとてもその政策・政見が信頼できないあのアベ首相率いる自民党の推薦を喜々として受けているので、ちょっとアレかな、と思っています。

報道のとおりなら、市民連合グループはよろしくないでしょう

 ところで、毎日新聞や新潟日報の報道によると、米山さん擁立の過程で、何やら行き違いがあった様子。両紙の記事によれば、9月上旬に民進党県連が、野党統一候補として米山さんはどうか、と市民連合と野党3党(以下「市民連合グループ」)に提案したのに、市民連合グループは、中央の元官僚だか現官僚に出馬の打診をしていたため、その提案を拒否してしまったんだと。それで民進党県連がすっかりヘソを曲げ、自主投票ということになっちゃったと。その後市民連合グループは中央官僚に立候補を断られ、改めて米山さんに、民進党を通さずに立候補を促したため、民進党県連はすっかり腹を立て、今日の状況になっちゃったんだと。
 それは、市民連合グループが悪いでしょう。
 そもそも中央の元官僚だか現官僚は、当初から立候補はしない、ということを表明していましたから、そもそもダメかもしれない、という状況でした。となれば、県内から候補を見つけなければならず、その場合、現職の議員ではなく、しかしその政治経歴や政見、人物像から、米山隆一さんは当然上がってくる人物でした。ですから、民進党県連が米山さんを打診してきたとき、無下に断るのではなく、候補の一人として確保しておく、という態度が必要ではなかったか、と思うのです。
 市民連合グループの思惑はどうあれ、米山さんの擁立過程は、民進党県連に対して、礼を失した対応になっていたのでは、と私は思います(ただし、これはあくまで、毎日新聞・新潟日報の報道が正しい、という前提です。もしそういうことではない、ということなら謝りますm(_ _)m)。

行き違いがあったなら、誠意を持ってちゃんと謝るべきです

 上記のような行き違いがあったのならば、明日が告示という押し迫った状況ではありますが、私は、市民連合グループのリーダーの人が、民進党県連に、きちんと誠意を持って謝るべきだと思います。
 もちろん、政策等の筋は市民連合グループのほうが通っているのかもしれませんが、政治は、すべて合理で進むわけではなく、多分に感情に左右されます。少なくとも、民進党県連の皆さんが、米山さんの擁立過程について、「市民連合グループはあまりに身勝手だ」と感情的に憤っているのであれば、そこはとにかく謝りましょう。おそらく許してはくれないでしょうが、それでも市民連合グループは、何度でも謝り続けた方がよい。そうすることで、ひょっとしたら森さんに傾いている民進党の人々の一部でも、米山さんに向き直ってくれるかもしれません(「なんでそんなに謝らなくちゃいけないんだ」と思っちゃうようなら、それは、戦前・戦中に我が国が行った中国や韓国・朝鮮への侵略や暴虐を認めない「あっち側」の人と同じになっちゃう、ということですよ)。
 前々回のこのブログで私は、民進党を「第二自民党」とこき下ろしましたが、実際のところ、民進党の方々の中には、憲法観や社会観、原発問題等について、たいへん穏健でリベラルな方々も多くいらっしゃいます。内心では米山さんを知事として推したい、という人もいるでしょう。そういう方々を、「あっち側」に押しやったままというのは、いかにもまずい、と私は思うのです。

「今の自民党」に頭が上がらない森候補より、米山候補のほうがよいと私は思います。

 ともあれ、圧倒的な政治力を誇る自民・公明連合の推薦を取りつけ、あろうことか労働組合の親玉である連合新潟の支持も取りつけた森さんは、たいへん有力な候補者であることに間違いはありません。しかし、前述の通り、森さんが知事になっても、私がよいと思うような政策を進めてくれそうにありません。はっきり言えば森さんは、目先のカネのために、もっともらしい理屈をつけて原発再稼働に踏み切るニオイがぷんぷんとしますし、自民党とたいへん仲のよい地元経済界(土建業が多いようですね)の喜びそうな、アベ首相が唱えている20世紀型で時代遅れの「成長戦略」とやらに基づく開発行政なんかを進めそうです。
 そういう森候補に対抗し、中央政治や経済界の言いなりでない、苦しい立場に置かれた人の立場に立った県政を実現するには、今の自民党政治に疑問を感じているあらゆる人々の力を結集させて、米山候補をもり立てなければなりません。感情のねじれのために、そういう市民が結集できないということがあってはいけません。とにかく、謝るべきは謝り、結べる人とは幅広く結びながら、知事選を戦っていこうではないですか、と思う今日このごろの私なのです。
(なお、このブログでは、告示日から投票終了まで、知事選を直接論評するような投稿は極力控えることとします)

ブログでトグロ巻きR その12 新潟県知事選候補選びを再び考える

2016-09-18 19:23:34 | ブログでトグロ巻きR
 新潟県知事選、森民夫候補の対立候補が決まりません。以前このブログで勝手に候補に挙げた米山隆一さん(民進党の次期衆院選新潟5区の予定候補ですね)を野党統一候補として押し上げようという動きがあったのはマジで驚きでしたが、結局米山さんも、出馬の色気はあったようですが、民進党の党内事情で断念しちゃいました。告示日は9月29日ですから、候補者選びはもはやデッドラインに入ったと言ってもいいでしょう。このままではほぼ間違いなく、(よくわからない〝泡沫〟候補が出る可能性はあるでしょうが、実質的に)森民夫候補が無投票で次期知事に選出される、ということになります。
 そういうことでいいのでしょうか。

知事選立候補は、米山さんにはメリットだらけ

 米山隆一さんは、実は、この知事選に出馬することは、おそらくメリットのほうが多いように思います。
◆メリットその1
 米山さんが持っている政見や政策、人間性について、新潟5区エリアだけでなく全県に知らしめるチャンスです。しかも、もし当選すれば、いわば新潟県の「大統領」として自らがよいと考える政策を、議会とのすり合わせや合意が必要なのは当然としても、推し進めることができ、おそらく国会議員よりも、政治家としての実力を存分に発揮することができます。これまで選挙運がなく、自分の政策を議会の場で展開できませんでしたから、このチャンスを生かさない手はないでしょう。
◆メリットその2
 もし残念ながら知事選に落選しても、自らの名前と顔、政策は広く県民に知れ渡りますから、次期衆院選に改めて立候補するならば、以前よりはるかに高い知名度を得ることができます。
 ついでに言えば、民進党県連の決定を無視して、離党などをして立候補したために、もし知事選に落ちて次期衆院選に立候補するとき不利になる、ということには決してなりません。今回の候補者選びで露呈している通り、民進党には、米山さんに代わる有力な候補者を出馬させる力量はありませんから、たとえ一時期ゴタゴタしても、結局米山さんを立てるしかないからです。

立候補しなければ、米山さんの政見・見識に疑いが生じることに

 このように、いろいろメリットがあるにもかかわらず立候補できないとすれば、それは、ブログ等で表明している米山さんの立派な政見・見識は実はポーズで、本音では、原発は再稼働させるべきであり、現在の自民党中心の政治のあり方をよいものと考えている、と見なされても仕方ありません(民進党の中も、相当なドロドロや矛盾が存在していて、米山さんの腕力を持ってしてもそれに抗うことができなかったであろうことは容易に想像できますから、上記の批判は言い過ぎかもしれないとは思いますが)。

民進党は結局「第二自民党」か

 今次知事選候補選びの迷走は、一義的に民進党の責任だと思います。せっかく野党で共闘して候補者を立てようという気運があり、その候補として自分の党所属の米山さんがふさわしい、となったのに、自らその選択肢をつぶすちゃうんですから。
 ま、でも、なんとなくわかります。
 民進党としては、「脱原発」を打ち出す候補は立てられない、ということなんでしょう。
 これも以前にこのブログで書きましたが、おそらく「祟り神信仰」に基づいて未だに原発再稼働に固執する電力労組と、原発と密接に関係する企業の労組が、(国政選挙はまだしも)知事選には脱原発候補は絶対に立てさせない、と考えているのでしょう。そんなアヤシイ「信仰集団」に振り回される民進党なわけですが、選挙のときの票や応援を考えると、強大な電力および関連労組のご意向には逆らえない、ということかもしれません。
 いや、そもそも、民進党の議員や幹部には、明らかに原発推進派だろうオマエは、という人物もいるようですから、そもそも何をかいわんや、ということなわけですが。現状の民進党がしょせん「第二自民党」でしかない、ということの証明でもあります。しかし、自民党は一つあれば十分。エセ自民党なんて必要ないわけですから、今のままの民進党なら、滅んでしまってもしょうがないのでは、とさえ思います。

とにかく早く候補者を立てよう

 しかしまあ、そうは言っても、原発問題や人口減社会対応、国と県との関係のあり方、地域主権の確立など、多くの課題を抱えるこれからの新潟県の将来を決める重要な選挙なのですから、複数の候補がそれぞれの政策をぶつけ合い、その議論をもとにして県民が判断・選択する機会を作ることは絶対に必要です。この際、何が何でも対抗馬を立ててもらいたい(ただし、私は出ませんよ。念のため 完全な泡沫だ、わははは)。米山さんがダメなら、市民連合・社民党・生活の党・共産党で早急に再人選し、無理にでも候補を立ててもらいたいと思う今日このごろです。

ブログでトグロ巻きR その11 泉田知事VS新潟日報を見ていろいろ考えた

2016-09-06 00:08:23 | ブログでトグロ巻きR
 泉田裕彦・新潟県知事が、日本海横断航路フェリー購入問題にかかわる、自らについての新潟日報の「虚偽報道」を理由に4戦出馬を取りやめたことについて、泉田さんを支持する方々の中には、新潟日報を批判・非難する向きもあるようです。
 福島第一原発事故以後、東京電力や国の原発政策そのものに厳しい姿勢で臨む「もの言う知事」として全国にその名を知られた泉田さんは、「脱原発」派の人々から強く支持されています。特にそういう人々が、「新潟日報が泉田さんを知事選出馬撤回に追い込んだ。日報は許せない」と考えているようです。中には、日報を「クズ新聞」呼ばわりしている人までいらっしゃいます。
 でも、それって、「八つ当たり」というか、逆恨み」というか、「ひいきの引き倒し」なのではないでしょうか。

誰が知事でもダメなものはダメ

 どんな人物が知事をしていようが、その政策に問題があるのなら、新聞などのマスコミは当然書くでしょうし、書くべきです。今回のフェリーの問題は、明らかに県民の税金の使い方として問題がある、と思われる案件なわけですから、書かれて当然、とも言えるでしょう。そういう問題を、泉田さんは脱原発を推進する知事だから、という理由だけで、大した問題ではないとして過小評価するのはそもそもおかしいと私は思います。もしこの案件が、自分たちがよいと考える政策を行わない知事の下で行われたなら、当然ものすごく批判するわけでしょう? それを、自分たちの考えと近い人だから許す、というのは、身内に甘く敵に厳しい、どこかの国の総理大臣と同じ態度ではないでしょうか。

新潟日報は「ちゃんとした」新聞です

 中には、「新潟日報は東京電力の広告を何度も掲載して多額の広告料をもらっている。だから、脱原発の泉田知事がジャマになったんだろう」という趣旨のことをもっとももらしく語る「識者」もいらっしゃいます。
 でも、それって、言いがかりそのものではないでしょうか。
 新潟日報は、私が見る範囲では、それこそ原発が柏崎に建設されるころから、原発については慎重もしくは批判的な記事を書いていましたし、今でもそうです。少なくとも、「東京電力から広告を出稿してもらってるから原発推進の記事を書こう」などという態度は、今の段階でも見受けられません。というか、東電から広告を平然ともらいながら、「でも、それと報道姿勢とは関係ないもんね」という態度は、「原発事故の反省がない東電の広告なんか載せないぜ」という態度よりはるかにナイスだな、と私は思います。
 私は、新潟日報の何人かの記者さんを存じ上げています。皆さん、ジャーナリズムとは何か、ということをわきまえた、しっかりした方々だ、という印象を持っています。ですから、これは「ひいき目」もあるとは思いますが、日報の紙面は、リベラルと言われる某全国紙よりはるかに筋が通っている場合が多い、と私は思っています。泉田さんを持ち上げたいばかりに、そういう紙面を見もしないで批判する一部識者の態度には、首をかしげざるを得ません。

泉田さんも日報も「どっちもどっち」という印象

 ちなみに私は、「県内市町村と県との関係、国と県との関係を修復する」とうたって立候補している森民夫・前長岡市長よりも、もともと自民党を中心とした保守勢力から担がれた人ではありますが、脱原発の姿勢が鮮明で、新潟県の主体性を保つためには国との対決も辞さない泉田さんのほうを、知事としては好ましく思っています。ですから、今回のような、日報の報道姿勢を理由に知事選出馬を撤回するというのは、何とも残念です。もし日報の報道が間違っているというのなら、事実関係を明らかにしつつ、論理的に反論すればよいわけです。ああいう降り方をしてしまうと、「泉田さんは、本当はあの件で説明しきれない後ろ暗いところがあるんだろう」というふうに思われても仕方がないでしょう。そういう意味で、いかにも子どもっぽく、まずい対処の仕方であったと言わざるを得ません。
 ただ、日報も、この件については冷静さを欠く対応をしました。編集局長が「知事の出馬撤回は報道への圧力だ」という趣旨のことを述べていましたが、んなわけないでしょう。当該記事について訴訟を起こし、多額の損害賠償を請求するとか、記事を書いた記者を名誉毀損で刑事告訴するとかなら「圧力」ということになるでしょうが、泉田さんの行動はその真逆。「報道への圧力」というのは、かなり無理がある、と私は思います。私は日報という新聞が好きなので、その点はとても残念です。

複数の候補者の政策を比較・熟考して、県のトップリーダーを選びたい

 とにかく、10月には知事選が行われます。おそらく、泉田さんは不出馬を撤回することはないでしょう(もし出馬するなら、その説明もかなり難しいことになります)。前述のとおり、私は、特に脱原発の姿勢、中央政府との向き合い方において泉田さんを好ましく思っていますが、県職員との良好な関係をついに築けなかったこと、新潟県の持っている力をもとにして地域主権を確立することがまだできていないこと、いちばん困っている県民の立場に立った政策を必ずしも打ち立てていないことなどに不満を感じていますので、そういう政策を掲げてくれる候補者が現れることを心から期待しています(自分で出るわけではないので、ここのところは無責任ですが)。前回のブログで、勝手に候補者を挙げてみましたが、もちろん他にも素晴らしい人がいると思います。それが森民夫さんでもいいのですが、知事は県のトップリーダーなわけですから、やはり、人格・識見・政策ともしっかりした人物を、複数の選択肢から選びたいなあと思う、今日このごろの私なのです。
 

ブログでトグロ巻きR その10 勝手に新潟県知事候補選定委員会(委員1人)

2016-09-02 23:26:18 | ブログでトグロ巻きR
 泉田知事の突然の出馬撤回、驚きましたね。このままでは、前長岡市長の森民夫さんがあっさり次期知事になりそう。そういうことではいけません。何しろ新潟県の今後最低4年間のトップリーダーを選ぶわけですから、無投票になっちゃうのはいかにもまずいでしょう。やはり、候補者の政見や思想信条、人物像をしっかり見極めたい。そのためには選挙を行うのがとっても大切だと私は思っちゃうわけです。
 しかし、9月2日現在、森さんに対抗する候補者は、有力・「泡沫」を問わずまだ現れていません。 ひょっとすると、泉田さんがまた翻意して立候補するかも知れず、また、県外の有力な人物が立候補する可能性もあるので、何とも言えない現状ですが、どんなに遅くとも9月半ばくらいまでに出馬表明しないとまずいわけで、もし森さんの対抗馬を立てるなら、もう時間がありません。
 というわけで、この際私は、県知事候補選定委員会を立ち上げ(委員一人)、知事候補になりそうな人物を考えてみたいと思います。
 ちなみに、私が知事さんに求めたい基準は以下のとおりです。

◆日本国憲法を守る(公務員には憲法遵守義務がありますから、これは当然ですね)
◆脱原発をすすめる(持続可能な自然エネルギーへのシフトはもはや世界的な流れです)
◆地域主権を確立する
(新潟県内だけで衣・食・住をはじめとした自立経済・社会体制を確立し、中央=東京の思惑に振り回されない共生社会を形成していくことは、今後の縮小社会を考えても重要ですね)
◆いちばん困っている人の立場に立って政策を立案する(そうすることで、結果として県民全体への目配りができると思います)

 そういう観点から、県知事にふさわしい人物を、いちいち考えてみましょう。


○西村智奈美候補
color="red">○中山均候補
size="4">○米山隆一候補 color="red">○齋藤正行候補 color="red">○江口歩候補
 ご存じ「お笑い集団NAMARA」の代表。発想の豊かさと人脈の広さは特筆もの。本人が「出る」といえば応援団も大勢いそう。ただ、基本的に本人が「応援団」的性格なので、自分が県を動かす立場になったとき、その実力が発揮できるかどうかは未知数。ま、そもそも、お笑い集団のリーダーが政治家になっちゃうのは、それこそシャレにならないかも。まあ出ないな。

 このほかにも、某大学で政治学を教えているあの先生とかこの先生とか、いろいろいらっしゃるような気もしますが、選定委員会としてはとりあえずこのくらいにしておきます。(ここに挙げた人物についての苦情等は一切受け付けません。あしからず)


 私の身近な友人が、泉田さんを支持する人々について、こんなことを言っていました。「初めのころは泉田さんの政治姿勢をさんざん批判していたクセに、泉田さんが「脱原発」姿勢を鮮明にし出してから「やっぱいいじゃん泉田さん」とコロッと変わり、その泉田さんが出ないとなったら他の候補が見つからず右往左往する、というのはおかしい。3期12年も知事を続けている人物がいるなら、自分たちの政策を実現してくれる有力な後釜を育てておくのが当然なのに、そういうこともしないで騒いでいるのはおかしいだろう」。たいへんもっともで、耳の痛い指摘だと思いました。
 まあ、森さんが上記の基準を満たす人なら、それでもいいか、と思うのですが、漏れ聞くところによると、長岡市の職員からはあんまり芳しい話が聞こえてきません(それは泉田さんも同様でしたね)。とにかく、きちんと選挙戦を行い、それぞれの候補が政策を県民にしっかり示し、選択の機会を与えることが何しろ重要だと思う、今日このごろの私です。

ブログでトグロ巻きR その9 アヤしさてんこ盛りの傑作、映画「FAKE」

2016-08-22 12:50:56 | ブログでトグロ巻きR
 旧聞に属する話で恐縮ですが、8月上旬、森達也さんの新作ドキュメンタリー映画「FAKE」を鑑賞してきました。上映会場は市民映画館シネ・ウインド。席数は約90席ですが。週末の公開初日の2回目上映で、時間が午後1時過ぎからということもあったのか、客席はもう満員です。東京・ユーロスペース等での大盛況ぶりはもちろん新潟にも伝わっていましたから、おそらくその評判を聞きつけた映画ファンが集結したのでしょう。
 上映時間は約1時間半くらい。キャッチコピーは「ラスト12分は、絶対に話さないでください」。そりゃネタバレになるから、未見の人にしゃべっちゃうという野暮なことはもちろんしないわけですが、特にラストだけでなく、とてもおもしろい映画でした。

ほかのドキュメンタリー映画とは趣を異にしている

 実は私、常用している薬のせいもあって、映画を観てると途中で必ず寝てしまう、という悪い癖があります。「阿賀に生きる」なんか、これも大変な傑作なのですが、3回観てやっと全体の話がつながった、というありさま(とほほ)。ところが、「FAKE」は、以前に森さんの「A」「A2」を観たときと同様、何とか眠らずに最後まで見続けることができたのです。それは、この作品が、ほかのドキュメンタリーとはちょっと趣を異にするおもしろみを持っている、ということなのだろうと思います。
 で、その中身。主人公は、数年前雑誌やテレビにおいて、いわゆる「ゴーストライター問題・ニセ聴覚障害者問題」で大変な騒ぎになった、あの佐村河内守さんとそのお連れ合いです。何しろまだあちこちで公開中の作品ですから、細かく説明するのは避けますが(というか私の能力ではそもそもうまい解説なんぞできませんが)、映画の冒頭、森さんと撮影スタッフは、佐村河内さんからの「私を信用してくれますか」という問いかけに対し、「信用してますよ。信用してなきゃ撮れません」的なことを言うわけです。そういうこともあってか、世間を欺いた悪者として佐村河内さんを指弾する人々からの、「佐村河内を被害者に仕立て上げているこんな映画はダメだ。森達也は間違っている」的な批判も多いようです。

とにかく登場人物全員がアヤシイ

 しかし、私にはこの映画が、「主人公の佐村河内さんは一方的で誤った激しいバッシングにさらされて社会的信用を失った被害者である」という描き方をしているようには全く見えませんでした。映画の舞台は、その大部分が佐村河内さんの自宅マンションで、そこで佐村河内さんご夫婦に密着して撮影しているわけですが、なんというか、登場人物が全員アヤシイ。もちろん佐村河内さんとそのお連れ合いもそうです。
 佐村河内さんの音楽作品のいわゆる「ゴーストライター」であったことを告白した新垣さんのテレビ映像を見ている佐村河内さんは、「どうして彼はあんなウソをつくんだろう」的なことをカメラの前でつぶやきます。それを見て、観客の一部は「なるほど、佐村河内さんはむしろ被害者なんだな」などと思ってしまうかもしれません。が、私にはそこはかとないアヤしさが画面からにじみ出てくるのを感じるばかり。お連れ合いは、出演依頼に来たテレビ局のスタッフや、ゴーストライター問題を取材に来た外国メディアの記者など、ほとんど「招かれざる客」も含め、あらゆる来客にケーキを出してもてなします。一見、社会から干し上げられたかわいそうな夫をかいがいしく支える妻、という映像が展開されるわけです。でも、これは私の人間性にも問題があるのだろうとは思うのですが、なんか、あざといというか、正直、「本当は、腹の底では何を考えているのかわからない」という人物のようにしか見えなくなってくるのです。
 アヤシイのはご夫婦だけではもちろんありません。出演依頼をしに来たテレビ局のスタッフは、これ以上ないほどの美辞麗句を並べ立て、佐村河内さんをTVに引っ張り出そうとします。その心の中は一体どんなものだろう、と観ている私は思います。また、あるとき森さんたちは新垣さんのサイン会にカメラを持って直撃します。新垣さんは森さんを見て、にこやかに「一度お会いしたかった」と言い、取材依頼に対して「ぜひお願いします」と答えます(その後、所属事務所が断ってきたそうですが)。これもまたアヤしさが満開です(唯一アヤしさを感じなかったのは、わざわざ外国から佐村河内さんを取材に来た記者さんだけでした)。

一筋縄ではいかない傑作モヤモヤ映画

 ラスト12分(本当は17分らしい)の場面も、もちろんこの映画の最も重要な部分なわけですが、私には、そこはかとないアヤしさが微妙に伝わってくるばかり。そして、ラストのラストでの森さんと佐村河内さんのやりとり。これでもう私の心の中は、アヤシイ印象で満ちあふれることとなります。
そもそも、撮影している森さんご本人が、最初から最後までとにかくアヤシイ。場面ごとに佐村河内さんに投げかける言葉に乗せられている「思い」は、決して言葉どおりのものではないのではないか? という「アヤしさ」を、へそ曲がりな私は感じてしまうのです。
 おそらく、観る人によって、印象が全く違う、一筋縄ではいかない映画であることは間違いありません。
 観終わってしばらく経った今、とりあえず私は、こんなことを思っています。人は誰でも、他人に対しては自分のよい部分だけを見せようとする。そのときはもちろん腹の中の黒々とした部分は見せない。「FAKE」は、そういう登場人物たちによって形作られた、観客にシッポをつかませない、ことさらにモヤモヤした印象ばかり与える、奇妙で、そして圧倒的におもしろいドキュメンタリー映画である、と。

ブログでトグロ巻きR その8 オリンピックにふさわしい格闘技とは

2016-08-21 23:35:14 | ブログでトグロ巻きR
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 スポーツ観戦はわりと好きなほうですが、オリンピックに特別な思い入れはありません。だからテレビが連日日本選手のメダル獲得をこれでもか、と伝えてくれるのは、まあ私も日本人ですのでそれはうれしいとは思いますが、私の好きなテレビ番組がオリンピック放送のせいでなくなっちゃうのはとても残念に思ったりします。まあ、それでもそれなりに楽しく拝見してはいるのですが。

外国人選手の「JUDO」はおもしろくない

 で、柔道とレスリングを見ていて、こんなことを思っちゃいました。
 柔道ですが、外国人選手の柔道って、あれ柔道ですか? 子供のころ、テレビドラマ「柔道一直線」の一条直也(当時の青春スター、桜木健一さんが演じていましたね)に憧れ、小林まことの漫画「柔道部物語」を楽しんだ私には、あれが柔道とは思えないのです。
 だって、「技」がないというか、「柔よく剛を制す」という柔道本来の理念なんか、どこにもないように見えるんですもん。強いと言われる選手は、ただ力任せに攻めるだけ。かと思えば、腰をひいた状態で相手の攻めをただただしのぎ、時折足技等をかけるふうを装い、時間の過ぎるのを待つだけ、という選手もいました。そういう相手を攻めあぐね、結局ポイントで負けてしまった日本人選手もいましたね。だから結局、あれは、「柔道」ではなく「JUDO」なのだな、という印象を持ちました。
 あれは楽しくない。

「レインボーマン」の世界とは違うレスリング

 レスリングのほうは、往年の特撮ドラマ「レインボーマン」の主人公もアマレス選手だったと思いますが、両肩が地面についたら負け、というルールの下、多彩な技を巧みに繰り出して相手を倒す、というイメージを持っていました。バックドロップも、プロレスの技だと思っている人も多いようですが、もともとはアマレスの技だそうです(何しろ決まれば一発で相手の両肩が地面についちゃう必殺技です)。
 という感覚で試合を眺めていると、ちょっとイメージと違っていました。まず、バックドロップなんて大技を掛ける選手なんていやしない。というか、選手の皆さんはみんな鍛えていますから、あんな技をかけられるような人ははじめからオリンピックなんかに出ていません。相手の足を取り体をひっくり返し、あるいは相手のバックを取って責め立てる。それがポイントとして積み上がって勝ちにつながる、というのは、少なくとも柔道よりはわかりやすい、のですが、やはりあまり楽しくない。

柔道やレスリングは「通」好みの格闘技

 まあ、それはただ単に、私が柔道やレスリングを知らないから、ということに過ぎないわけですし、柔道やレスリングの経験者や、経験はなくても興味を持ってずっと見てきたファンの皆さんにとっては、私にはわからない微妙な点も含めて楽しめる競技なのだとは思います。「通好み」の格闘技、といってもよいかもしれません。
 しかしまあ、オリンピックで行われている競技スポーツというのはどれも、競技人口よりも観戦者のほうが圧倒的に多いわけで、その観戦者は多くが私のようなシロウトなのだろうと予想できます。そうすると、柔道やレスリングは、そういう、「通」でない人々にはなかなかおもしろみが伝わりにくいのかな、とも思います。

テレビ観戦オンリーの人々にもわかりやすい格闘技を採用してくれないか

 どうせなら、オリンピックにおいて、私のようなシロウトにもおもしろく見ることができる格闘技があればいいのに、と思います。柔道やレスリングに限らず、フェンシングやテコンドーなども、その道に通じている「通」の格闘技であるという点では変わりがありません。
 そこで、私がオリンピックに加えてほしい格闘技があるのです。

相撲は最もわかりやすい格闘技

 それは、相撲です。
 相撲という格闘技のすばらしさは、まず、なんといっても「わかりやすい」ということです。相手より先に土俵から出たら負け。足の裏以外の体が相手より先に土俵についたら負け。突き押しのほか、投げ技・足技・反り技など、決まり手も多彩で、技が決まったときの美しさは他の競技にはない魅力があります。一試合(というか取り組み)あたりの所用時間も平均十秒前後で、長くても2〜3分しかかからない。拳で殴る、といった行為は禁止なので、安全性もレスリングや柔道とそれほど変わらない。どうです。相撲、いいでしょう?
 いや、裸でまわし、という競技スタイルは、国際競技としてはダメだろう、という人もいるでしょうが、それは、男子ならショートパンツの上から、女子もレスリング用のウェアの上からまわしを着用すればいいだけのこと。国際相撲大会ではもうすでにそうなっています。そういう意味では、もう問題は解決しているともいえます。

オリンピック相撲は、日本相撲協会と切り離して「国際化」しよう

 オリンピックに相撲を加える際、ジャマになるのはおそらく日本相撲協会でしょう。彼らはことさらに「伝統」を持ち出し、その「伝統」に反すると思われるやり方に対しては執拗に反対することでしょう。未だに、土俵には女性を上げないとか、日本国籍を取らないと親方(つまり協会の運営者)にはしないとか言ってる組織ですから。ですから、オリンピックに相撲をエントリーする際の母体となる団体は、日本相撲協会から切り離すことが不可欠です。もちろん、競技ルールはなるべく統一することも必要ですが、日本人にしか理解できないような「神事」としての独特のしきたりは大相撲の中だけにとどめておく、ということにもなるでしょう。でも、スポーツとしての相撲は、競技の性質から見ても、十分国際的に通用すると思います。
 その際、体重別で行うのは致し方ないとは思いますが、あんまり細かく分けるのではなく、軽量級・中量級・重量級くらいにして、そして、もはや柔道では消えた無差別級も設定するのです。「柔よく剛を制す」の世界が、相撲によって表現されることになるのです。本当にすばらしいですね。

 というわけで、どうでしょう。私はやめたほうがよいと思いますが、2020年には東京でオリンピックを行うということになっています。そこには間に合わないにしろ、「見ていて最もわかりやすい、スカッとする格闘技」として、ぜひ相撲をオリンピック競技としてもらいたいと思う、今日このごろの私なのです(酔っぱらった勢いで書いてますので、はっきり言ってほぼむちゃくちゃですが、けっこうマジ)。

ブログでトグロ巻きR その7 電力会社の労働組合は、本当に「労働組合」なのか?

2016-04-20 17:44:58 | ブログでトグロ巻きR
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 ◆振込口座は、今のところ以下のとおりです
  郵便振替口座 00550-4-37823 ばらくて編集人会
 このほか、銀行もしくは信用金庫で、新しい口座を開設したいと考えております。開設ししだい追ってお伝えします。



新潟地震を覚えています

 熊本大地震が収束しません。多くの人々が未だに避難生活を余儀なくされ、車中泊によるエコノミークラス症候群で亡くなる方も出ています。しかも、九州の活断層を横断するように震源が移動し、気象庁も「今後どうなるかわからない」という始末。本当に大変なことになってしまった、と思います。
 私は、2歳9か月のときに新潟地震を経験しました。そんな幼児の頃の記憶などないだろう、と思われるかもしれませんが、実は、今でも鮮明に記憶しています。そのころ私は、今で言う新潟市東区の上木戸に住んでいました。祖母と一緒に庭先にいた昼下がりに、激しい揺れが来ました。私は一人では立っていられず、祖母にしがみつきながら泣き叫んでいたように思います。地震が収まってからも、玄関を開けると、当時の上木戸は田畑が広がり、人家もほとんどなかったため、昭和石油の石油貯蔵タンクが爆発・炎上した、その黒く巨大なキノコ雲がそのまま見えていました。忘れようとしても忘れられない「思い出」の一つです。

震源近くにある原発を心配するのは当然ですが

 で、九州の大地震です。今回の地震は、いわゆる「中央構造線」沿いの活断層が連続的に動いて引き起こされたようです。その北東側には伊方原発が、南西側には川内原発があります。こういう大地震が原発の近くで発生した以上、少なくとも地震が収束するまでは稼働をやめるべきだ、という声が上がっているのは至極当然です(そういう声に対し、いわゆる「ネット右翼」というか現政権支持者と思しき「ネット住民」たちは、「地震をすぐに原発と絡めるのは、サヨクの政治利用でけしからん」とか「原発の電気がなくなったら復旧もできないではないか」などと口汚く罵っていますが、地震の震源域との距離を考えれば、原発を心配しない方がおかしい、と思うのですがねえ)。

「原発は地震にも耐えられる」と考えるのは、楽天主義にもほどがある

 そもそも、今回の地震があろうがなかろうが、5年前の東日本大震災による福島第一原発の破局事故を経験してしまった私たちは、原発という物件は、一度事故を起こしてしまったら取り返しのつかない事態が半永久的に続く、ということを学んだはずです。
「ネット右翼」(の方たちは、自らを「ごく普通の市民です」と言っています。あんな「普通の市民」いるかい?)をはじめとする、現政権を熱く支持しているらしい皆さんは、福島第一原発の事故については、「あれは津波のせいで壊れたのであって、地震には耐えている」と主張し、「だから川内も伊方も大丈夫だ」となるわけですが、データ分析等により「おそらく地震で壊れていたはずだ」と考える学者も大勢いますから、日本の原発はどんな地震にも耐えられる、と主張するのは、はっきり言ってものすごい楽天主義であろう、と心配性な私などは思います。
 だいたい、仮に事故が(運よく)起きなかったとしても、そのうち必ず廃炉にしなければならないときが来ます。ウランやプルトニウムを「燃やした」あとの高レベル放射性廃棄物や様々の低レベル放射性廃棄物の処理方法も決まっていませんし、処理できるのかどうかがそもそも疑問です。後始末の問題が全く解決されていない、「トイレなきマンション」と揶揄されている所以です。そういう問題を、現に今原発を稼働させ、その電力を享受している私たちではなく、遠い未来の子孫に押しつけて平気、というのは、歴史というものをあまりに侮った振る舞いではないか、と思います。

「死ぬかも知れない仕事」を組合員に強要する電力会社の労働組合は、果たして「労働組合」と言えるのか?

 そんな原発の運転や維持管理を担っているのは、沖縄電力を除く各電力会社の社員やその下請けの労働者なわけです。電力会社には、それぞれ大変大きく有力な労働組合があります。
 労働組合の一義的な存在意義は、労働者の権利を守り発展させる、ということです。具体的には、組合員が物質的・精神的な「豊かさ」を感じられる生活を享受できる賃金や、健康で文化的な生活を営める労働条件を経営側・理事者側に保障させる、というのが仕事です。経営側や社会・政治との距離の取り方は組合によってずいぶん異なるのも事実ですが、基本的に、どの労働組合も、労働者の生命と生活を守り、そのことで社会に貢献する、という目標については共通していると思っています。私も、現在を含めて三つ「正職員」の仕事をしてきましたが、必ず労働組合には入っていました。それは、上記のような労働組合の意義を積極的に認めているからです。私たちの社会を形成する人々の大多数は労働者ですから、そういう労働組合運動が、ひいては社会全体の幸福を担って行く力になる、とも思っています。
 とすると、電力会社の労働組合は、果たして私の思う労働組合なのか、という疑問が、ふつふつと湧いてくるのです。
 だって、彼らは社員や下請け労働者、そして市民の命を守ろうとしてないんだもん
 場合によっては死んでしまうかもしれない任務に就きなさい、と構成員に命令できる(してしまう)組織というのは、軍隊・警察、もしくは暴力団組織や、ショッカーなどの悪の秘密結社くらいでしょう。しかし、電力会社の労働組合は、原発推進という会社の方針をそのまま丸呑みし、たとえばメーデーで私たちが「原発反対」とコールしてデモ行進しているその後ろで「原発推進」と叫んでいるような組織です(統一メーデーとなった近年は、お互い自粛しているようですが)。それはつまり、組合が組合員に対し、「場合によっては死ぬこともある、いや、おそらくかなりの確率で死ぬ仕事をしなさい」と言っているも同然だ、と私は考えます。そういう意味で電力会社の組合は、経営側と一体化して、高い給料は保障するから、その引き替えに命を差し出せ、と社員に要求する組織だ、と言われてもしかたないのではないでしょうか(これは言い過ぎかな)。

「死」が前提の仕事を認める労働組合はありえない

 もちろん、命の危険のある仕事はこの社会にいくらでもあります。高所作業や大規模土木工事、鉱山労働などは常に危険と隣り合わせです。しかし、これらの危険業務と原発労働とでは決定的な違いがあります。原発労働以外の危険労働については、安全対策の徹底によって、危険度は相当に軽減されます。強風や地盤の崩壊等で危険すぎる場合は、そもそも作業をさせることはないでしょう。だいたい、「放射能」などという得体の知れないものにさらされることはほとんどありません。
 では、原発はどうでしょう。「安全」に稼働している状況でも、放射性物質を取り扱っている以上、ちょっとした事故で放射線が漏れ出している事故は枚挙にいとまがありません。さらに、福島第一原発のような破局事故が起こったらどうでしょう。原発が壊れてしまったら、放射線被害は逃れることができません。「安全対策」などできるわけがないのです。でも、社員のみなさんは、原発を稼働させているという会社の責任を、社員として背負わなければなりません。まさか組合員ではなくなった管理職だけでその収束作業を行うわけはありません。軍隊と同様に、エライ人は安全なところで「何とかしろ」と命令し、現場の社員が放射能まみれの危険な現場で働かざるを得なくなるでしょう。当然、被曝その他のひどい目に遭い、命を失う社員も出てしまうことでしょう。ついでに言えば、原発事故に巻き込まれてしまった多くの市民も、命や生活を奪われてしまう、ということにもなるわけです
 そういう原発を、国や経営側と一体となって「推進する」といってしまう「労働組合」というのは、論理的にも倫理的にもあり得ないのではないでしょうか。組合員の命を守れない(守る気がそもそもない)、市民の命や生活をを守る意志がない組合が「労働組合」を名乗ること自体、全くちゃんちゃらおかしい、と私は思います。
 とまあ、このようなことを書いてしまいましたが、これは、電力労組も変わってほしいからなのです。電力労組の中にも、私たちと同様の問題意識をお持ちの組合員はきっといると私は思っています。おそらく社内的な事情で、そういう声を上げることは相当困難なのだと推察していますが、それでも、そういう組合員が声を上げてくださることで、電力労組のあり方が多少なりとも変わり、真の意味での「労働組合」に近づいてくれるのではないか、と思うのです。次の原発破局事故が起こってしまう前に、電力労組が変われば、日本も必ずよい方向へ変わります。こんなことを期待というか夢想する、今日このごろの私なのです。

 今回も、勢いに任せて書き殴った結果、なにやら乱筆乱文のランラン文章となった気がしますが、どうかお許しを(許してくれない人もきっといるだろうなあ)。

ブログでトグロ巻きR その6 あくまで一般論ですが

2016-03-09 23:20:46 | ブログでトグロ巻きR
 最近のさまざまなニュースを見聞きしながら思うこと。

 たとえ当人が被差別の立場にある人であっても、その言動が被差別者の解放や差別の解消につながらないばかりか、差別を拡大・強化する方向性しか持たないようであれば、その人物は評価するに値しない有害な人物であると言うしかない。
 たとえ当人が障がい当事者であっても、その言動が障がい者の解放や権利保障につがならず、かえって差別を温存したい勢力にいいように利用されるのであれば、その人物はやはり有害な人物であると言うしかない。

 ……これは、あくまで、最近のニュースを見聞きしながら、一般論として、こういう人がいたとしたらまずいだろう、と思ったまでのこと。誰か特定の人物を指して言っているわけではありません。本当です。念のため。