タレントのベッキーさん、叩かれてますねえ。スポーツ新聞、芸能週刊誌やWEBニュースなどは、「水に落ちた犬は叩き殺せ」とばかりに連日大きく報道(と言うのかなコレ)しています。妻もいる今売り出し中の軽音楽バンド「ゲスの極み乙女」(すげえバンド名)のボーカルの男性と交際していることがなぜかばれ(「LINE」のやりとりを覗かれたとかいう話。ところでLINEって未だによくわからないんですけど。それおいしいの?)、週刊文春に大きく書き立てられた結果、他の芸能マスコミにも一気に食らいつかれ、やれ「不倫」だの「略奪愛」(これもすごい熟語。よくこういう言葉作るよね)だのと大騒ぎになってしまいました。で、ベッキーさんは潔くというか仕方なくというか記者会見を開いて「謝罪」した(させられた)わけですが、その後も文春が続報を打ち(またもや「LINE」のやりとりが流出したようですな。どうなってるんだ情報セキュリティは)、芸能マスコミは沈静化どころかますますヒートアップ。結局、ベッキーさんは休業を余儀なくされてしまいましたとさ。
当然ながら、テレビのワイドショーなどもこの「事件」を「おいしいネタ」として取り上げています。そこでは、町ゆく人々に「ベッキーさんのこのたびの事件をどう思いますか」などとインタビューしていたりします。すると、「善良な市民」の皆さんは、言うんですね、こんなこと。
「絶対に許せない」「反省の色がない」「不倫なんて信じられない」「奥さんがかわいそう」「もうベッキーの出てるテレビ番組は見ない」。
おいおい。
「不倫」な人は世の中けっこういますよ
そもそも、自分のお連れ合い以外の異性(もしくは同性)と「浮気」(不倫という言葉はなんだかイヤですねえ)している人は、私の身の回りも含めて結構いらっしゃいますよ。社会的に「まじめ・固い」と思われている教員業界でも、あのスバラシイ新潟業界ゴシップ誌「財界にいがた」でダブル不倫を暴かれ叩かれた方がいらっしゃいました(両方とも教員でした。そのほかにも私は実例を何件か知っています)。前の職場(新聞社)などは、勤務時間や休日が不規則なせいもあるのでしょうが、不倫や離婚などはどう考えても一般の平均値よりかなり高い値で発生していたはずです。となれば、テレビや雑誌などの芸能マスコミの方々などは推して知るべきでしょう。そういう、他人のことなど言えない人たちが、有名芸能人の「不倫」となると、かさにかかって責め立てる、というのは、まさに「天に唾する」行為でしょう。ぶっちゃけて言えば、「おめえら、人のこと言えねえよ。どの口でそういうこと言ってるんだ」ということです。
でもまあ、芸能マスコミというのはそういう情報を扱う仕事なわけで、また、そのような情報に対する需要もあるわけですから、あんまり厳しく言い過ぎるのもよくないかな、とは思います。いや、彼ら彼女らはおそらく、そういうことを百も承知のうえで、あえてそういう芸能人のスキャンダルを暴く取材をしているのかもしれず、そうだとしたら、その記者さんたちはそれはそれで職業意識が高い、とも言えるかもしれません。
有名人の「浮気・不倫」は昔から
こんなことは本当は言うまでもないのですが、有名人や芸能人の「浮気」や女(男)遊びというのは大昔から普通にあり、芸能週刊誌・紙も、それこそ戦前から、メインの記事の一つとしてそういうゴシップをよく載せていました。作家なら、谷崎潤一郎や有島武郎、太宰治などの女癖の悪さはつとに知られています。俳優なら、火野正平さんや中尾彬さんのプレイボーイぶりは有名です。彼らは独身だったろう、というなら、芸能人既婚者の「不倫」では、谷隼人と松岡きっこの「不倫交際」(古いね)、デーモン木暮閣下の二股交際(これも20年以上前になりますか)など、枚挙にいとまがありません。
しかし、かつては、今ベッキーさんが被っているような、いわゆる「一般市民」から当事者に対する人格攻撃も含めた極端な非難、ましてや本人の「謝罪」会見など、なかったように思うのですが。というか、むしろ、そういうゴシップやスキャンダルは、その芸能人の「属性」の一つとして、私たちはそれなりに楽しく「消費」していたと思います。少なくとも、「許せない」とか「反省の色がない」などという非難をぶつけるようなことはなかったはずです。つまり、「『芸能人』というのはそういうものだ」という社会的合意が、何となく存在していたように思うのです。
「倫理」や「モラル」は芸能人から教わるものではない
だいたい、私たちが社会の中で守るべきルールやモラルを、そのまま芸能人にも求める、というのはそもそも間違っているような気がします。俳優や歌手などの芸能人は、目立ってナンボ、多くの人に見られてナンボの世界に生きています。早い話が「カブキ者」の世界。それは、目立つのを必ずしも良しとしない「(日本社会の)一般市民」とは異なった価値観の世界です。だから私たちは、明らかな法律破りや犯罪行為は別として、芸能人には、一般市民にはない(できない)「夢」のような世界を表現してもらいたいと思っています。
彼ら彼女らは、たとえば歌手ならば、「永遠の愛」だの「信じれば夢は叶う」だの、現実にはあり得ない(わははは)メッセージを私たちに伝えます。しかし私たちはそういう歌を聴き、つかの間にせよ心の平安を得るわけです(と言いきっていいのかな。ちょっと心配)。また、俳優ならば、彼らが出演するドラマなど、現実には許されない犯罪や殺人をテーマにしたものも数多く、私たちは、そういうドラマを見てカタルシスを得たりします。でも、そういう世界を「現実」に当てはめてしまう人はほとんどいません。なぜなら、それはあくまでテレビや映画・舞台の上の世界だと分かっているからです。で、芸能人の皆さんはそういう世界での活動を生業(なりわい)としている。そういう人たちに、私たちと同じモノサシを当てはめて非難する、ということに、私は強い違和感を覚えます。これもぶっちゃけて言えば、「倫理やモラルなどは、芸能人から学ぶものではない」ということです。
ベッキー叩きに感じる「ヘイトスピーチ」のニオイ
もちろん、「不倫・浮気」をすることは、たとえ芸能人でも、あまり褒められたことではありません。直接被害を被る不倫相手のお連れ合いや家族などが怒ったり非難したりするのは当然です。しかし、そういった当事者でもない、単にテレビを見たり雑誌を読んだりしてこのことを知った人が、したり顔で「許せない」とか言っちゃうのって、どうなんでしょう。
いちいち突っ込むのもバカバカしいですが、ベッキーさん、別に犯罪を犯したわけじゃありません。これといって法律違反もしていません。なのにこういう攻撃にさらされる。あげく、今回の件とは全く無関係な、ベッキーさん自身の「人間性」や「タレントとしての能力」について貶めたりくさしたりする人々も現れる始末(週刊金曜日2月5日号の佃野デボラさんの文章など)。なんでそこまで? と私などは思ってしまいます。
というか、ベッキーさんご本人とは会ったこともない、従って、その人物像について知るはずのない人々が、「許せない」「反省がないぞ」「テレビに出るな」などと言いつのるのを見聞きするにつけ、「これって、ヘイトスピーチと同じなのでは?」という疑問が、私の心にふつふつと湧いてくるのですよ。(この稿つづく)
当然ながら、テレビのワイドショーなどもこの「事件」を「おいしいネタ」として取り上げています。そこでは、町ゆく人々に「ベッキーさんのこのたびの事件をどう思いますか」などとインタビューしていたりします。すると、「善良な市民」の皆さんは、言うんですね、こんなこと。
「絶対に許せない」「反省の色がない」「不倫なんて信じられない」「奥さんがかわいそう」「もうベッキーの出てるテレビ番組は見ない」。
おいおい。
「不倫」な人は世の中けっこういますよ
そもそも、自分のお連れ合い以外の異性(もしくは同性)と「浮気」(不倫という言葉はなんだかイヤですねえ)している人は、私の身の回りも含めて結構いらっしゃいますよ。社会的に「まじめ・固い」と思われている教員業界でも、あのスバラシイ新潟業界ゴシップ誌「財界にいがた」でダブル不倫を暴かれ叩かれた方がいらっしゃいました(両方とも教員でした。そのほかにも私は実例を何件か知っています)。前の職場(新聞社)などは、勤務時間や休日が不規則なせいもあるのでしょうが、不倫や離婚などはどう考えても一般の平均値よりかなり高い値で発生していたはずです。となれば、テレビや雑誌などの芸能マスコミの方々などは推して知るべきでしょう。そういう、他人のことなど言えない人たちが、有名芸能人の「不倫」となると、かさにかかって責め立てる、というのは、まさに「天に唾する」行為でしょう。ぶっちゃけて言えば、「おめえら、人のこと言えねえよ。どの口でそういうこと言ってるんだ」ということです。
でもまあ、芸能マスコミというのはそういう情報を扱う仕事なわけで、また、そのような情報に対する需要もあるわけですから、あんまり厳しく言い過ぎるのもよくないかな、とは思います。いや、彼ら彼女らはおそらく、そういうことを百も承知のうえで、あえてそういう芸能人のスキャンダルを暴く取材をしているのかもしれず、そうだとしたら、その記者さんたちはそれはそれで職業意識が高い、とも言えるかもしれません。
有名人の「浮気・不倫」は昔から
こんなことは本当は言うまでもないのですが、有名人や芸能人の「浮気」や女(男)遊びというのは大昔から普通にあり、芸能週刊誌・紙も、それこそ戦前から、メインの記事の一つとしてそういうゴシップをよく載せていました。作家なら、谷崎潤一郎や有島武郎、太宰治などの女癖の悪さはつとに知られています。俳優なら、火野正平さんや中尾彬さんのプレイボーイぶりは有名です。彼らは独身だったろう、というなら、芸能人既婚者の「不倫」では、谷隼人と松岡きっこの「不倫交際」(古いね)、デーモン木暮閣下の二股交際(これも20年以上前になりますか)など、枚挙にいとまがありません。
しかし、かつては、今ベッキーさんが被っているような、いわゆる「一般市民」から当事者に対する人格攻撃も含めた極端な非難、ましてや本人の「謝罪」会見など、なかったように思うのですが。というか、むしろ、そういうゴシップやスキャンダルは、その芸能人の「属性」の一つとして、私たちはそれなりに楽しく「消費」していたと思います。少なくとも、「許せない」とか「反省の色がない」などという非難をぶつけるようなことはなかったはずです。つまり、「『芸能人』というのはそういうものだ」という社会的合意が、何となく存在していたように思うのです。
「倫理」や「モラル」は芸能人から教わるものではない
だいたい、私たちが社会の中で守るべきルールやモラルを、そのまま芸能人にも求める、というのはそもそも間違っているような気がします。俳優や歌手などの芸能人は、目立ってナンボ、多くの人に見られてナンボの世界に生きています。早い話が「カブキ者」の世界。それは、目立つのを必ずしも良しとしない「(日本社会の)一般市民」とは異なった価値観の世界です。だから私たちは、明らかな法律破りや犯罪行為は別として、芸能人には、一般市民にはない(できない)「夢」のような世界を表現してもらいたいと思っています。
彼ら彼女らは、たとえば歌手ならば、「永遠の愛」だの「信じれば夢は叶う」だの、現実にはあり得ない(わははは)メッセージを私たちに伝えます。しかし私たちはそういう歌を聴き、つかの間にせよ心の平安を得るわけです(と言いきっていいのかな。ちょっと心配)。また、俳優ならば、彼らが出演するドラマなど、現実には許されない犯罪や殺人をテーマにしたものも数多く、私たちは、そういうドラマを見てカタルシスを得たりします。でも、そういう世界を「現実」に当てはめてしまう人はほとんどいません。なぜなら、それはあくまでテレビや映画・舞台の上の世界だと分かっているからです。で、芸能人の皆さんはそういう世界での活動を生業(なりわい)としている。そういう人たちに、私たちと同じモノサシを当てはめて非難する、ということに、私は強い違和感を覚えます。これもぶっちゃけて言えば、「倫理やモラルなどは、芸能人から学ぶものではない」ということです。
ベッキー叩きに感じる「ヘイトスピーチ」のニオイ
もちろん、「不倫・浮気」をすることは、たとえ芸能人でも、あまり褒められたことではありません。直接被害を被る不倫相手のお連れ合いや家族などが怒ったり非難したりするのは当然です。しかし、そういった当事者でもない、単にテレビを見たり雑誌を読んだりしてこのことを知った人が、したり顔で「許せない」とか言っちゃうのって、どうなんでしょう。
いちいち突っ込むのもバカバカしいですが、ベッキーさん、別に犯罪を犯したわけじゃありません。これといって法律違反もしていません。なのにこういう攻撃にさらされる。あげく、今回の件とは全く無関係な、ベッキーさん自身の「人間性」や「タレントとしての能力」について貶めたりくさしたりする人々も現れる始末(週刊金曜日2月5日号の佃野デボラさんの文章など)。なんでそこまで? と私などは思ってしまいます。
というか、ベッキーさんご本人とは会ったこともない、従って、その人物像について知るはずのない人々が、「許せない」「反省がないぞ」「テレビに出るな」などと言いつのるのを見聞きするにつけ、「これって、ヘイトスピーチと同じなのでは?」という疑問が、私の心にふつふつと湧いてくるのですよ。(この稿つづく)