ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

エッセイアーカイブ㉖ 学校や社会を「汽水域」に

2021-08-15 14:54:04 | エッセイアーカイブ
「汽水域」から学びの場や社会のあり方について考えたコラムです(「汽水域」は5号で終刊したため、このコラムもこれでおしまいとなります)。

 先日、何気なくTVを見ていたところ、岡山県の児島湾で獲れるウナギが話題となっていました。児島湾のウナギは、ほかの普通のウナギよりもずっと大きく成長し、また、蒲焼きなどの料理にすると、味も大変よいのだそうです。その理由は、児島湾が、河川水が流入する汽水域で、栄養に富んでいるためだから、ということでした。そういえば、島根県の宍道湖や本県の阿賀野川河口などで獲れるシジミをはじめ、スズキやボラなどさまざまな魚介類も、汽水域という環境の中で豊かに育つことが知られています。まさに、多様な生物を育み、複雑で豊かな生態系を保つ場所として、汽水域は存在しているわけです。

 ことわざで、「水清ければ魚住まず」というのがあります。きれいすぎる水だと、むしろ魚は生きにくい、水は多少濁っているくらいの方がいいのだ、ということから、あまりに清廉すぎる人は、逆に人から親しまれない、という意味で用いられています。なるほど、わたしたち人間の世界も、あんまりきれいすぎるというか、きちっと整いすぎている環境だと、かえって息苦しい。多少いいかげんな部分が残っているほうが、なんとなく安心する、ということは実際ありますよね。

 ところで、最近の日本社会を見てみると、そうした、いい意味でのいいかげんさというか、汽水域的な「濁り」が許されないような雰囲気が高まってきているような気がします。中国や韓国・北朝鮮は日本の敵でなければならず、その国々を多少なりともかばおうものなら「反日」のレッテルを貼って攻撃する、という風潮は、すっかり定着してしまった感がありますし、ネットの世界では、それが極端な形で増幅されてもいます。そのように、わざわざ「敵」と「味方」をくっきりと二分させ、「敵」と見なした人間は徹底的に攻撃する、という「空気」が、今日の日本社会には満ちあふれている、とわたしには感じられるのです。

 全く困ったことだ、と思うのですが、実は、このような「〝区分〟して〝排除〟する」という日本社会のやり方は、今に始まったことではありません。差別をはじめとして、ハンセン病患者の隔離政策、アイヌ民族への差別など、これまでにさまざまな形で行われてきています。学校だって例外ではありません。「障がい」児の隔離教育などはその典型ですが、私たちが勤務する高校だって、「学力」により区別され、生徒それぞれの学力に応じた学校に通うのがあたりまえ、ということになっています。そういうことに疑問を持つ人は、ほとんどいないでしょう。で、その結果、自分たちが属する集団の常識が社会全体の常識であると思い込み、自分たちとは異なる人間観・人生観を持つ人がいることを想像することができない人間がどんどん生み出されることになっている、といったらさすがに言いすぎでしょうか。

 でも、実際問題として、たとえば、「障がい」のある人々とのかかわり方がよくわからない、という人は大勢います。「障がい」者が隔離され、「健常者」の見えないところに押し込められているためです。その結果、「障がい者」に対する差別意識も払拭されない、ということにもなっています。あるいは、いわゆる「学力」の高い「進学校」の生徒が、そうでない学校の生徒を見下す、という話も聞きます。つまり、多様性のない社会は必然的に差別的なものにある、ということです。

 知り合いの若い新聞記者が、自分の高校生活についておもしろいことを語っていました。大阪出身のその人は、中学校の先生の勧めに従って、地元の新設校に進学したのでそうです。そこは、学力の高い生徒から低い生徒、いわゆる「ヤンキー」な生徒まで、さまざまな生徒が集まった学校で、その人は、勉強が不得意な同級生に勉強を教えていたということで、高校生活は、いろんなタイプの生徒がいてとても楽しかった、と言っていました。いい話だと思います。

 居心地のよい社会というのは、さまざまな人がいる中で、自分の居場所が確かにある、と感じられる社会なのではないでしょうか。そこは、自分と「違う」誰かを一方的に排除するような場ではないでしょう。学校も社会も、そのような場でなければならないのではないか、とわたしは思うのです。そういう場であれば多様性も保障されますから、豊かな関係性の中で新しい発想や活力も生まれてくることでしょう。

 新潟高教組の文芸・オピニオン誌としての「汽水域」は、この五号で終刊を迎えることとなりました。私たちが現に生きているこの世界そのものを「汽水域」としていくことが大切なのだ、と私たちは考え、この雑誌を作ってきました。そんな思いが、多少なりとも読者にもなさんに伝わっているとしたら、とてもありがたく、うれしいことだと、心から思います。

【新潟県高等学校教職員組合文芸誌「汽水域」5号 2014年11月発行 より】