此の弁財天がどうして宇賀神になったのかと調べてみますと、これも余りそれが証拠だと云うことはないのですが、「弁財天三経」という書物の中にどうもそれを知らせてくれるようなものがありそうなのです
「此天女天竺に在り、則、弁財天と称する。或は宇賀神主と号す。日本に現われ、則、大日尊。或は天照大神と称する」
と書かれてあります。此の書物は誰によって書かれたのかは知りませんが、随分と思いきった説を称えた意見であるように思われますが、このようなことから弁財天が宇賀神になったのではないかとも言われています。日本に来てからは「天照大神」になったのだとか、大日如来になったのだと書かれています。いい加減な物だと云うことは分かりますが、そんな話が広く伝わり信じられたと云うことです。
このような話が、明治初年の廃仏毀釈等により、この吉備津神社では、仏ではなく「神のお宮」だと云うイメージを強くするために、敢て、「弁財天」という仏様に近い名前を捨てて、「宇賀神」という真っ当な神様らしい祠名にしたほうがいいのではという考えから命名したのではないでしょうか。だから、このお宮さんは、次の絵地図にあるように、江戸の世では「弁財天」という名で呼ばれていたのではないかと思われます。
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なお、この地図にある「手洗池」も、「弁財天」という祠名を無くした、せめての罪滅ぼしと思ったのでしょうか、「龍神池」という弁財天と深く関わりのある名を新たに付け、弁財天というそれまでの名前を懐かしむ村人の為に、敢て是も付けなおしたのではないでしょうか。
では、どうして、この時、この池が「龍神池」と名付けられたのでしょうか。龍と弁財天の接点はあるのでしょうか????
「此天女天竺に在り、則、弁財天と称する。或は宇賀神主と号す。日本に現われ、則、大日尊。或は天照大神と称する」
と書かれてあります。此の書物は誰によって書かれたのかは知りませんが、随分と思いきった説を称えた意見であるように思われますが、このようなことから弁財天が宇賀神になったのではないかとも言われています。日本に来てからは「天照大神」になったのだとか、大日如来になったのだと書かれています。いい加減な物だと云うことは分かりますが、そんな話が広く伝わり信じられたと云うことです。
このような話が、明治初年の廃仏毀釈等により、この吉備津神社では、仏ではなく「神のお宮」だと云うイメージを強くするために、敢て、「弁財天」という仏様に近い名前を捨てて、「宇賀神」という真っ当な神様らしい祠名にしたほうがいいのではという考えから命名したのではないでしょうか。だから、このお宮さんは、次の絵地図にあるように、江戸の世では「弁財天」という名で呼ばれていたのではないかと思われます。
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なお、この地図にある「手洗池」も、「弁財天」という祠名を無くした、せめての罪滅ぼしと思ったのでしょうか、「龍神池」という弁財天と深く関わりのある名を新たに付け、弁財天というそれまでの名前を懐かしむ村人の為に、敢て是も付けなおしたのではないでしょうか。
では、どうして、この時、この池が「龍神池」と名付けられたのでしょうか。龍と弁財天の接点はあるのでしょうか????