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プラハの春――集団的自衛権行使事例を検証する(東欧の2事例:ハンガリー、チェコスロヴァキア)

2015-10-06 00:37:06 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 集団的自衛権の過去の行使事例を検証しようというシリーズの第一弾として、今回は、冷戦時代の東欧の二カ国、ハンガリーと旧チェコスロヴァキアの例をとりあげる。


 まずは、ハンガリーについて。
 話は、1956年にさかのぼる。この年、フルシチョフのいわゆる「スターリン批判」によって、東欧諸国にスターリン主義を排しようという動きが広がっていく。
 ポーランドでは、ゴウムカ政権が復活。そして、その隣国の動きに触発されて、ハンガリーでも自由化をもとめる運動が拡大し、デモ隊と治安部隊との衝突にいたる。「ハンガリー動乱」である。この動乱のなかで、前年解任されていた改革派のナジ・イムレが首相に復帰する。
 これに対して、当時のソビエト連邦が介入。二度にわたる武力行使で、自由化運動の参加者たちを弾圧し、ナジ政権を崩壊させた。
 このときにソ連が口実としたのが、“集団的自衛権”だった。
 これがおそらく史上初の集団的自衛権行使例と思われるが、これが“侵略”としか呼びようのないものであることはあきらかだろう。
 冷戦時代には、米ソが世界の各国を自分の陣営に取り込もうと陣取り合戦のようなことをやっていた。そんななかで、東欧諸国が東側陣営から離れていくことを、ソ連はおそれた。そのために、ハンガリーに侵攻したのである。そして、そのための口実として“集団的自衛権”を使った。この軍事介入によって、3,000人が死亡し、20万人が西側に亡命したといわれる。結局自由化運動は実力行使によって打ち砕かれ、ナジは処刑され、ソ連の息のかかったカーダールが政権についた。

 そして、このハンガリー動乱と同じ構図は、同じく旧ソ連による1968年のチェコスロヴァキア侵攻でもみられた。
 68年に旧チェコスロヴァキアで起きた民主化運動――いわゆる“プラハの春”に対して、ソ連はやはり、弾圧で応じた。このときはワルシャワ条約機構(NATOに対抗して共産圏が結成したもの)の5カ国が軍事介入し、共産党の改革派を排除した。
 これもまた、「集団的自衛権の行使」を口実として行われたわけだが、はたして、チェコスロヴァキア一国で共産党の改革派が政権をとったからといって、それがソ連をはじめとする東欧諸国にとって、本当に“危機”といえるのか? これは、相当な拡大解釈といわねばならないだろう。実際、のちのペレストロイカの時代になって、ソ連側もこの介入は過ちだったとしてチェコスロバキア側に謝罪している。そして、このような軍事介入によって維持しようとしていた共産圏が結局半世紀ともたずに崩壊し、ハンガリーでもチェコスロヴァキアでも社会主義体制は消滅し、ソビエト連邦も解体してしまったわけだから、結果から見てもこれらの介入は無意味だったということになる。まったく、馬鹿げた話ではないか。

 この東欧の2事例は、集団的自衛権なるものが、大国が自分の属国とみなす国に対して軍事介入するための口実でしかないことを如実に示すものである。この二つのケースをみて、「ソ連の自衛のためだ」と擁護できる人がどれだけいるだろうか? あきらかにこれは、“ディフェンス”ではなくて“オフェンス”なのだ。
 一般論としていうと、1990年ごろまでは、冷戦という時代を背景にして、資本主義圏の盟主であるアメリカと共産圏の盟主であるソ連が、互いに自陣営内の国で起きた政変を鎮圧するために「集団的自衛権行使」を口実として軍事的に干渉する――というのが一つのパターンとしてあった。その代表がアメリカにとってのベトナム、ソ連にとってのアフガンだが、ハンガリーとチェコの事例は、その東欧における例である。