政府は、とうとう辺野古の基地建設にむけた工事に着手した。
当然ながら、地元では猛烈な反発がおき、車両の前に反対派の市民が体を張って立ちふさがるなど、まるで天安門事件さながらの光景である。強制排除する警察に対して、反対派は「沖縄を返せ」という歌を歌って抗議したという。恥ずかしながら私は知らなかったのだが、そういう歌があるそうだ。
沖縄県民でもない私ではあるが、沖縄の声が一人でも多くの人に届くように、その歌詞をここで紹介しておきたい。
固き土をやぶりて
民族の怒りに燃える島
沖縄よ
我らと我らの祖先が
血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ
我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ
沖縄を返せ
今回の工事着手は、そもそも存在するかどうかも疑わしい“抑止力”なるもののために沖縄の海とそこに住む人々の暮らしを破壊する暴挙といわなければならない。
私はかねてから、“抑止力”という発想の疑わしさについてこのブログで書いてきた。もう一度繰り返すが、20世紀前半までのヨーロッパでは、ほとんど絶えることなく戦争が繰り返されてきた。それは、みながありもしない“抑止力”という幻想にとりつかれて、「抑止力を強化する」といって軍備を増強し、他国と同盟を結んだりして、結果としてはむしろ軍事衝突を起こすリスクを高めてきたためではないか。むしろ、第二次大戦以降、そういうことをやめたからヨーロッパでは戦争が起きなくなったのではないか。
その実例として、以前も紹介したエピソードのいくつかを再び紹介しよう。
いまから100年ほど前に「日英同盟」が結ばれたとき、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「これで戦争は回避された」といったという。日本とイギリスが同盟を結んだことによって、抑止力が高まるためにロシアとの戦争は未然に防がれたというわけだ。しかし、実際にはその2年後に日露戦争が勃発した。後から振り返れば、日英同盟は「戦争を事前に防ぐ」どころか、むしろ日露開戦の決定的なステップだった。
また、かつてベトナムが南北に分断されていたとき、アメリカは南ベトナムを支援し、軍を駐留させていた。しかし、それによって戦争が防がれるということにはならなかった。むしろ、駐留している米軍の側が戦争を起こしたのである。そして、その戦争に敗れて南ベトナムは消滅した。
このような事例を見れば、「米軍駐留によって抑止力で軍事衝突を防ぐことができる」という発想が非常に疑わしいものであることがわかるだろう。
そして――これもこのブログでは何度か書いてきたことだが――そもそも本当にわれわれを脅かすものは何なのかということを考えなければならない。
北朝鮮や中国の脅威があるから抑止力が必要だというが、そのような強大な軍事力をもった国同士が互いに近代兵器をフルに駆使して戦うような戦争は、これまでにほとんど起きたことがない。弾道ミサイルやらイージス艦やらを互いに出しての戦争ということになると、皆無である。国家同士の全面戦争というのは、現代においては起こる可能性がきわめて低いリスクなのだ。それに対して、国家の横暴によって地方自治体の主権やそこに暮らす人たちの人権が侵害される事態は、いま現に生じている。そしてこれは、沖縄だけの話にはとどまらない。これがまかりとおるとなれば、来年あなたの住む町に同じようなことが降りかかってきてもまったく不思議ではない。そういう、現実的なリスクだ。われわれは、いったいどちらをおそれるべきなのか。
答えはあきらかだろう。政府がいま沖縄に対してやっているような横暴は、絶対に許されてはならない。
当然ながら、地元では猛烈な反発がおき、車両の前に反対派の市民が体を張って立ちふさがるなど、まるで天安門事件さながらの光景である。強制排除する警察に対して、反対派は「沖縄を返せ」という歌を歌って抗議したという。恥ずかしながら私は知らなかったのだが、そういう歌があるそうだ。
沖縄県民でもない私ではあるが、沖縄の声が一人でも多くの人に届くように、その歌詞をここで紹介しておきたい。
固き土をやぶりて
民族の怒りに燃える島
沖縄よ
我らと我らの祖先が
血と汗をもて
守り育てた 沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ
我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ
沖縄を返せ
今回の工事着手は、そもそも存在するかどうかも疑わしい“抑止力”なるもののために沖縄の海とそこに住む人々の暮らしを破壊する暴挙といわなければならない。
私はかねてから、“抑止力”という発想の疑わしさについてこのブログで書いてきた。もう一度繰り返すが、20世紀前半までのヨーロッパでは、ほとんど絶えることなく戦争が繰り返されてきた。それは、みながありもしない“抑止力”という幻想にとりつかれて、「抑止力を強化する」といって軍備を増強し、他国と同盟を結んだりして、結果としてはむしろ軍事衝突を起こすリスクを高めてきたためではないか。むしろ、第二次大戦以降、そういうことをやめたからヨーロッパでは戦争が起きなくなったのではないか。
その実例として、以前も紹介したエピソードのいくつかを再び紹介しよう。
いまから100年ほど前に「日英同盟」が結ばれたとき、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「これで戦争は回避された」といったという。日本とイギリスが同盟を結んだことによって、抑止力が高まるためにロシアとの戦争は未然に防がれたというわけだ。しかし、実際にはその2年後に日露戦争が勃発した。後から振り返れば、日英同盟は「戦争を事前に防ぐ」どころか、むしろ日露開戦の決定的なステップだった。
また、かつてベトナムが南北に分断されていたとき、アメリカは南ベトナムを支援し、軍を駐留させていた。しかし、それによって戦争が防がれるということにはならなかった。むしろ、駐留している米軍の側が戦争を起こしたのである。そして、その戦争に敗れて南ベトナムは消滅した。
このような事例を見れば、「米軍駐留によって抑止力で軍事衝突を防ぐことができる」という発想が非常に疑わしいものであることがわかるだろう。
そして――これもこのブログでは何度か書いてきたことだが――そもそも本当にわれわれを脅かすものは何なのかということを考えなければならない。
北朝鮮や中国の脅威があるから抑止力が必要だというが、そのような強大な軍事力をもった国同士が互いに近代兵器をフルに駆使して戦うような戦争は、これまでにほとんど起きたことがない。弾道ミサイルやらイージス艦やらを互いに出しての戦争ということになると、皆無である。国家同士の全面戦争というのは、現代においては起こる可能性がきわめて低いリスクなのだ。それに対して、国家の横暴によって地方自治体の主権やそこに暮らす人たちの人権が侵害される事態は、いま現に生じている。そしてこれは、沖縄だけの話にはとどまらない。これがまかりとおるとなれば、来年あなたの住む町に同じようなことが降りかかってきてもまったく不思議ではない。そういう、現実的なリスクだ。われわれは、いったいどちらをおそれるべきなのか。
答えはあきらかだろう。政府がいま沖縄に対してやっているような横暴は、絶対に許されてはならない。