今回は、最近気になった二つのニュースについて書く。
一つ目は、ジュンク堂が安保法関連のコーナーを撤去したという話。
「自由と民主主義のための必読書50」というブックフェアを行っていたが、このフェアについてのツイッターでの発言が抗議を受けたためという。
以前、学校の図書館におかれていた漫画『はだしのゲン』が、抗議を受けて校長室に下げられていたという話があったが、それに通ずるものがあるように思える。たった一人からクレームを受けただけで図書館の本を撤去してしまうということのおそろしさを感じたものだが、そうしたことが大型書店でも起きた。ジュンク堂だから報道されたが、もしかするとこれは氷山の一角で、もっとあちこちで同じようなことがおきているのかもしれない。
二つ目は、立教大で、安保関連のシンポジウムの開催を大学側が拒否した件。
「岐路に立つ日本の立憲主義・民主主義・平和主義」と題されたシンポジウムである。これに立教大学の講堂使用を申請したのだが、大学側が拒否した。そもそも、学外の団体には使用を許可しないからだというのが、大学側のいいぶんである。
それだけ聞くともっともなようにも思えるが、一部報道では、「政治的な意味をもちうる」ためとの指摘があったためともいう。
たとえば朝日新聞電子版の記事があるが、その記事によれば、立教大には講堂の使用に関して「学外の宗教、学術、教育、芸術、その他学校が適当と認めた会合に限り許可する」という決まりがあるという。
この説明にも、疑問がわいてくる。学術・芸術はよくて、なぜ憲法や平和主義について語ることはダメなのか。それに、そのきまりには“その他”というカテゴリーがちゃんと設けられているわけだから、「純粋に学術とないえないから」というのは理由にならない。純粋に学術的でなくとも大学側が「適当と認め」れば許可できるのであって、講堂使用の拒否は、大学側がシンポジウムを「その他学校が適当と認めた会合」とみなさなかったということにほからなないのである。そして、「政治的」であることをもって「適当でない」と判断したのなら、それは大いに問題があるだろう。いったい、大学は、政府が進める政策に反対するようなことをいってはいけないとでもいうのだろうか? それでは、“学問と良識”の自死ではないか。
こうしたことが積み重なって、自由は侵蝕されていくのではないか。そして、気がつけばいいたいこともいえない世の中になってしまうのではないだろうか。
ここで、本稿のタイトルについて。
この記事を書く際に「講堂使用」と打ち込もうとして変換したら、「行動しよう」と出た。なかなか気の利いた誤変換だ。まるでパソコンに促されているようでもあり、それをタイトルにすることにした。決して、ただの駄洒落ではない。
あの“元”自民党・武藤議員の騒動や自民党の憲法草案が教えてくれるのは、自由というものが気に食わなくて、すきあらばそれを縛ろうとしている政治家が少なからず存在しているということだ。である以上、自由というのは放っておいてもいつでもそこにあってくれるものではない。それを守り、ときには勝ちとるための行動を起こさなければ維持できないものなのだ。
自由を守るためには、行動が必要だ。そういう自由の“危険水位”に、いまの日本はもう入り込んでいる。そんな今だからこそ、声を大にしていいたい――行動しよう。自由のために。
一つ目は、ジュンク堂が安保法関連のコーナーを撤去したという話。
「自由と民主主義のための必読書50」というブックフェアを行っていたが、このフェアについてのツイッターでの発言が抗議を受けたためという。
以前、学校の図書館におかれていた漫画『はだしのゲン』が、抗議を受けて校長室に下げられていたという話があったが、それに通ずるものがあるように思える。たった一人からクレームを受けただけで図書館の本を撤去してしまうということのおそろしさを感じたものだが、そうしたことが大型書店でも起きた。ジュンク堂だから報道されたが、もしかするとこれは氷山の一角で、もっとあちこちで同じようなことがおきているのかもしれない。
二つ目は、立教大で、安保関連のシンポジウムの開催を大学側が拒否した件。
「岐路に立つ日本の立憲主義・民主主義・平和主義」と題されたシンポジウムである。これに立教大学の講堂使用を申請したのだが、大学側が拒否した。そもそも、学外の団体には使用を許可しないからだというのが、大学側のいいぶんである。
それだけ聞くともっともなようにも思えるが、一部報道では、「政治的な意味をもちうる」ためとの指摘があったためともいう。
たとえば朝日新聞電子版の記事があるが、その記事によれば、立教大には講堂の使用に関して「学外の宗教、学術、教育、芸術、その他学校が適当と認めた会合に限り許可する」という決まりがあるという。
この説明にも、疑問がわいてくる。学術・芸術はよくて、なぜ憲法や平和主義について語ることはダメなのか。それに、そのきまりには“その他”というカテゴリーがちゃんと設けられているわけだから、「純粋に学術とないえないから」というのは理由にならない。純粋に学術的でなくとも大学側が「適当と認め」れば許可できるのであって、講堂使用の拒否は、大学側がシンポジウムを「その他学校が適当と認めた会合」とみなさなかったということにほからなないのである。そして、「政治的」であることをもって「適当でない」と判断したのなら、それは大いに問題があるだろう。いったい、大学は、政府が進める政策に反対するようなことをいってはいけないとでもいうのだろうか? それでは、“学問と良識”の自死ではないか。
こうしたことが積み重なって、自由は侵蝕されていくのではないか。そして、気がつけばいいたいこともいえない世の中になってしまうのではないだろうか。
ここで、本稿のタイトルについて。
この記事を書く際に「講堂使用」と打ち込もうとして変換したら、「行動しよう」と出た。なかなか気の利いた誤変換だ。まるでパソコンに促されているようでもあり、それをタイトルにすることにした。決して、ただの駄洒落ではない。
あの“元”自民党・武藤議員の騒動や自民党の憲法草案が教えてくれるのは、自由というものが気に食わなくて、すきあらばそれを縛ろうとしている政治家が少なからず存在しているということだ。である以上、自由というのは放っておいてもいつでもそこにあってくれるものではない。それを守り、ときには勝ちとるための行動を起こさなければ維持できないものなのだ。
自由を守るためには、行動が必要だ。そういう自由の“危険水位”に、いまの日本はもう入り込んでいる。そんな今だからこそ、声を大にしていいたい――行動しよう。自由のために。