先ほど、安倍政権の閣僚は幼稚園児レベルという記事を投稿した。
そこではいくらかコケにするような調子で書いたが、しかし、そう笑っていられるような状況でもない。
先の記事では政策の中身以前の問題をメインに取り上げたが、政策の中身もまた問題があるから困るのだ。安倍政権のわがままは、憲法をないがしろにするレベルにまでいたっていて、このことは日本の社会に深刻な危機をもたらしつつある。というわけで、この記事では、安倍政権がいかに憲法を蹂躙しているかということについて書く。
先の記事でも少し触れたが、馳文部科学大臣が国歌斉唱について「恥ずかしい」と発言したことに対して、憲法学者らが「違憲」だという声明を出した。
発端は、岐阜大学が卒業式などで国家斉唱をしないという方針を打ち出したことで、これに対して馳文科相は、「恥ずかしい」などと批判していた。この発言に対して、憲法学者96人が「国歌斉唱をするかどうか決定する権限は各国立大にある」として今回の声明を出した。馳発言が、学問の自由を保障する憲法23条の趣旨に反するという批判である。先日、高市総務大臣の電波停止発言に対して学者たちが違憲と批判する声明を出したが、それに続いてまたしても安倍政権の閣僚が違憲と断罪されたかたちだ。
もっと前にさかのぼれば、安倍政権が違憲との批判を受けたことは、これだけにとどまらない。
安保法は圧倒的大多数の憲法学者に意見と指摘され、昨年は臨時国会を開かなかったことが憲法違反と指摘された。そして、今年に入ってからもまた。こうして次々に違憲を指摘されているのである。
かつて、ここまで幾度も憲法学者らから違憲と批判された政権があっただろうか。
それに、思えば、そもそもの選挙からして、衆参両院で定数配分が違憲状態だと指摘されているという事実もある。そういう意味では、内閣がその信任のもとに成立し連帯責任を負うとされている国会自体が違憲状態なのであって、最高裁の指摘にも根本的な措置をとらないままその状態を放置している安倍政権は、存在そのものが憲法に違反する“違憲内閣”とでも呼ぶべき状態である。
ここまでくると、もうこれは故意にやっているのじゃないかと思えてくる。
あえて憲法を無視しまくって、憲法違反を日常茶飯事にしてしまう。そうすれば、新たに憲法に違反しても「またか」という感じで誰もなにもいわなくなる。改憲は難しそうだから、憲法を無視しても大丈夫な状況を作ろう――そう彼らは考えているのじゃないか。彼らの憲法蹂躙っぷりをみていると、なかば本気でそんなことを思ってしまうのだ。
まあ、それはさすがにうがった見方というものだろうから、ここではじめの話に戻る。
高市発言は「報道の自由」、馳発言は「学問の自由」への侵害と批判されているわけだが、この両方で指摘されているのは「戦前の経験」である。言論の自由や学問の自由が抑圧された社会が無謀で無責任な戦争につながっていったという過去があるから、日本国憲法ではそういう自由が保障されているわけである。それを無視する大臣らの発言は、つまりは安倍政権がこの国を“戦前レジーム”に戻そうとしていることのあらわれである。そして、その“戦前レジーム”はばかげた戦争につながるものにちがいないのだ。
そこではいくらかコケにするような調子で書いたが、しかし、そう笑っていられるような状況でもない。
先の記事では政策の中身以前の問題をメインに取り上げたが、政策の中身もまた問題があるから困るのだ。安倍政権のわがままは、憲法をないがしろにするレベルにまでいたっていて、このことは日本の社会に深刻な危機をもたらしつつある。というわけで、この記事では、安倍政権がいかに憲法を蹂躙しているかということについて書く。
先の記事でも少し触れたが、馳文部科学大臣が国歌斉唱について「恥ずかしい」と発言したことに対して、憲法学者らが「違憲」だという声明を出した。
発端は、岐阜大学が卒業式などで国家斉唱をしないという方針を打ち出したことで、これに対して馳文科相は、「恥ずかしい」などと批判していた。この発言に対して、憲法学者96人が「国歌斉唱をするかどうか決定する権限は各国立大にある」として今回の声明を出した。馳発言が、学問の自由を保障する憲法23条の趣旨に反するという批判である。先日、高市総務大臣の電波停止発言に対して学者たちが違憲と批判する声明を出したが、それに続いてまたしても安倍政権の閣僚が違憲と断罪されたかたちだ。
もっと前にさかのぼれば、安倍政権が違憲との批判を受けたことは、これだけにとどまらない。
安保法は圧倒的大多数の憲法学者に意見と指摘され、昨年は臨時国会を開かなかったことが憲法違反と指摘された。そして、今年に入ってからもまた。こうして次々に違憲を指摘されているのである。
かつて、ここまで幾度も憲法学者らから違憲と批判された政権があっただろうか。
それに、思えば、そもそもの選挙からして、衆参両院で定数配分が違憲状態だと指摘されているという事実もある。そういう意味では、内閣がその信任のもとに成立し連帯責任を負うとされている国会自体が違憲状態なのであって、最高裁の指摘にも根本的な措置をとらないままその状態を放置している安倍政権は、存在そのものが憲法に違反する“違憲内閣”とでも呼ぶべき状態である。
ここまでくると、もうこれは故意にやっているのじゃないかと思えてくる。
あえて憲法を無視しまくって、憲法違反を日常茶飯事にしてしまう。そうすれば、新たに憲法に違反しても「またか」という感じで誰もなにもいわなくなる。改憲は難しそうだから、憲法を無視しても大丈夫な状況を作ろう――そう彼らは考えているのじゃないか。彼らの憲法蹂躙っぷりをみていると、なかば本気でそんなことを思ってしまうのだ。
まあ、それはさすがにうがった見方というものだろうから、ここではじめの話に戻る。
高市発言は「報道の自由」、馳発言は「学問の自由」への侵害と批判されているわけだが、この両方で指摘されているのは「戦前の経験」である。言論の自由や学問の自由が抑圧された社会が無謀で無責任な戦争につながっていったという過去があるから、日本国憲法ではそういう自由が保障されているわけである。それを無視する大臣らの発言は、つまりは安倍政権がこの国を“戦前レジーム”に戻そうとしていることのあらわれである。そして、その“戦前レジーム”はばかげた戦争につながるものにちがいないのだ。