本日4月29日、福岡県の宗像というところで、小林節氏の講演会があった。
その模様を、今回は報告する。
会場となったのは宗像ユリックス。宗像は“都会”とはいいがたいところで、会場もあまり交通の便のよいところではなかったが、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。
小林節氏といえば、昨年の参考人として呼ばれた国会で安保法を「違憲」と断じたことで一躍名を知られるようになった憲法学者であるが、全国各地を行脚しており、その一環として福岡にもやってきたのだった。
小林氏は、もともと改憲派であり、本人も語るとおり、“自民党サイド”にいた憲法学者である。
そういったこともあって、改憲派論壇の内情にも結構くわしい。そういった立場から語られる安倍政権批判には強い説得力がある。そういったこともあってか、最近では地上波のテレビ番組には呼ばれなくなり、あるテレビ局の幹部が漏らしたところでは、「使ってはいけない言論人」リストの2番目に名前が載っているということである。
安保法制への批判は、たとえばその根拠のいい加減さというところに向けられる。
安倍総理は、はじめは「アメリカの艦船に載って朝鮮半島から逃れてくる日本人母子」というような例を挙げ、またあるときは、ホルムズ海峡の機雷掃海という例を挙げた。いずれも、実際にはありえないということが指摘されたわけだが(米軍の行動計画に「朝鮮半島から艦船で日本人を救出する」などというシナリオはないし、ホルムズ海峡のもっとも狭い部分には公海がないため、他国の領域に入らずに機雷掃海はできない。それに、そのルートが使えなくとも日本に原油を輸送する代替ルートはある……など。前者については、昨年の国会審議の過程で、政府側も結局「日本人が乗っているかどうかは関係ない」と答弁している)、そうすると政権側は別の理由を持ち出してきた。はじめは「考えていない」といっていた南シナ海での行動などを言い始めた。これがおかしいわけである。根拠となる事柄が否定されたのなら、法案を取り下げればいいだけの話だ。ところが、そこに別の理由を持ち出してきて「だから安保法制が必要なんだ」とあくまでも言い張る。この一事だけとっても、あきらかにおかしい。
結局こうした疑問に安倍政権がまともに答えることはなかった。問題点は解決されておらず、「時間がたったからいいなどとはいわせない」と小林氏はいう。
また、小林氏の批判は、安保法制にとどまらず、表現の自由への抑圧、アベノミクスなどにも及ぶ。
国家の仕事は国民の幸福を追求する権利を保障することであり、そのためには、自由、経済的豊かさ、平和が保障されなければならないが、安倍政権は、言論への抑圧、アベノミクスという経済的失政、安保法制によって、その三つすべてを国民から奪っている――と、鋭く批判する。
そんな小林氏が訴えるのは、国民が「主権者としての自覚」をもつこと。
大日本帝国憲法にせよ、現行の日本国憲法にせよ、日本ではこれまで「上から与えられる」という形でしか憲法がもたらされなかった。そのことが、立憲主義の危機に対するどこか「他人事」のような姿勢につながっている、と小林氏は指摘する。そうではなくて、安倍政権という最悪の政権を「選挙で落とす」という方法で引きずりおろすことによって、みずから勝ちとる――そのことで、「自分たちで勝ちとった立憲主義」という自覚をもつことができる。そのための野党共闘なのである。これを、小林氏は「心の独立戦争」と呼ぶ。もちろん、戦争といっても銃など持つ必要はない。「紙切れ一枚、投票箱に入れるだけでいい」のである。その「独立戦争」に「ぜひ勝ってください」という言葉で、講演はしめくくられた。
最後に、小林氏が講演のなかでその一部を引用していたアメリカ独立宣言の冒頭部分を引用しよう。
われわれは、以下の事柄を自明の真理とみなす。
人はみな平等に作られており、みな、侵されることのない権利を付与されている。その権利は、生存、自由、幸福を追求することが含まれる。これらの権利を保障するために、国民の合意によって権力をもつ政府が組織される。いかなる政府であれ、それらの権利を破壊するようなときには、その政府を変え、あるいは廃止し、そうした原則に基盤をおき、そうした方式でその権力を組織し、安全と幸福にもっとも資する政府を組織するのは、人民の権利である。