大津地裁が、高浜原発3、4号機の稼働を差し止める仮処分を決定した。
これによって、稼働中の3号機は停止した。
今回の判決はかなり踏み込んだもので、安全性を証明する責任が電力会社の側にあるとし、新規制基準自体にも疑念を呈した。福井地裁で同様の判断が示されたときには、「もともと反原発派の判事がくだした判断」と批判する声もあがっていたが、ここで大津地裁でも差し止めの仮処分が出されたことは大きい。原発の再稼動差し止めは、一部の判事が出すレアな判断ではないということが示されたわけで、しかも「新規制基準自体が信用ならない」、「電力会社の側に安全を証明する責任」があるという基準が一般的なものとなれば、今後も原発再稼動に関する訴訟で似たような判断が出てくる可能性がある。そういう意味で、今回の大津地裁の判断は、原発再稼働路線自体にもブレーキをかけるものになりうる。
そこに危機を感じ取ってか、関西電力の側はこの判決に強く反発しているのだが、そもそも彼らは反発などできる立場にないだろう。高浜原発の4号機は、差し止められるまでもなくすでに停止状態にあるわけだが、周知のとおり、これは再稼動直後にトラブルが発生したために停止せざるをえなかったのである。そんな状況で、どの面さげて「承服できない」などといえるのか。
さて、当ブログで原発ネタを扱うのは3回目になる。
一回目は原子力発電の安全性、二回目はその安定性について書いた。今回は、原発の自然災害に対する安全性について書きたい。
最近、かの甘利前経済再生担当相が、テレ東に対して「スラップ訴訟」(政治家や企業が、自分に不都合な報道を封殺する目的でメディアなどを威嚇するために起こす訴訟)を起こしていたという話があって、ここgoo ブログでもそれに関する記事が多数投稿されているが、その訴訟の発端となったのは、原発の津波対策である。
これは昨夜のNEWS23のスペシャルでも扱っていたし、これまでにも各種報道で出てきている話だが、実際には福島第一原発が大津波に襲われる可能性は、2008年の段階で指摘されていた。しかし、東電側はその対策は必要ないとして津波への備えを怠ってきたのである。
つまり、福島の事故は「想定できなかった」のではなく、東電や自民党の政治家、経済産業省の役人らが「想定しなかった」のである。理由は単純で、それを想定すれば、原発を稼働し続けられなくなるから。
ここが、原発のリスク管理における最大の問題だ。稼働することありきで動いていて、その閾値におさまるようにリスクが計算されているのだ。
本来なら、リスクの計算が先にあって、そのリスクが一定のラインを超えていたら原発を稼働させるべきではない――となるはずなのに、この国の原発行政ではそれが逆になっている。原発は稼働しなければならない。だから、リスクは一定のライン以下でなければならない。もし一定のラインを超えるリスクがありそうだったら、それを隠すか、見なかったことにするか、数値を改竄する。そして、大丈夫であることにする……これが、原発ムラの論理である。
それが、実際に、各種の改竄や隠蔽となってあらわれるし、またそもそものリスク想定の甘さにもつながってくる。
先の津波の話もそうだし、ほぼ同じ時期のもうひとつの例として、2006年に制定された耐震指針もあげられるだろう。
福島県のいわき市に「湯ノ岳断層」という断層があるのだが、2006の新耐震指針にしたがって、東電はこの断層を「地震を起こす可能性がない断層」とし、当時の原子力安全・保安院など規制当局もその判断を追認していた。ところが、東日本大震災から一ヵ月後の余震で、この断層が活動した跡がみつかったのである。この事例においても、結果としては活動する可能性のある活断層が見過ごされていたことになるわけで、国や電力会社の想定の甘さを露呈するものといえる。
また、断層の問題でいうと、最近石川県の志賀原発でも、原子炉の直下にある断層が活断層である可能性が指摘されている。この「S-1」断層も、その存在が以前から知られていながら北陸電力が「活断層ではない」と言い張ってきたものなのだが、今回その審査にあたった専門家からは「よくこんなものが審査をとおったものだ」と呆れる意見も出たそうだ。
こうした経緯をみてくれば、原発を推進する側の論理で作られた新規制基準など信用できないのは当然である。
さて――ここまでは、原発を推進する側がみずからの都合で「想定しない」という問題について書いてきたが、もちろん実際に「想定できない」リスクもある。そして、意図的に「想定しない」リスクにくわえて「想定できない」リスクもあるのだから、さらに原発の安全性は確保しがたいということになる。
原発のリスクは、「雷が落ちる可能性」とか「地震が起きる可能性」とかいった事故につながりうるケースをリストアップし、それぞれの確率を計算して算出する。しかしこのやり方は、想定しえた事象の確率しかふくんでいないので、あきらかに不完全である。そして、想定し得ない事態は想定し得ないのだから、その確率など計算のしようがない。つまり、原発のリスクは、電力会社が想定している値より大きいことは確実であり、しかもどれだけ大きいかはわからないのだ。
たとえば、あり得ないような想定の例としてよく持ち出される「隕石の落下」などというものも、それが起きる可能性はたしかにおそろしく低いだろうが、だからといってそのような事象全てを無視してリスクを評価してよいのか。たとえば「10年以内のおきる可能性が1千万分の1」という事象が1万個あれば、10年以内にそのどれかがおきる可能性は1千分の1となり、無視できないものになってくる。もしかしたら、重大事故につながるような自然災害に見舞われる可能性は、電力会社が試算する数字よりずっと大きいかもしれないのである。
最後に、自然災害などのリスク計算がいかに難しくラフなものでしかないかということを示す数字を紹介しよう。
それは、炉心損傷が起きるような事故に関する東電の試算である。東電は、そのような重大事故が起きる可能性について、福島第一原発の事故が起きる前には「1千万年に1回」と試算していた。ところが、わずか40年で3基がメルトダウンを起こす。そして事故後の試算では、同じような事故が起きる可能性は1基あたり「5千年に1回」となった……
この数字一つとっても、こうしたリスク計算がいい加減なものであることがわかるだろう。この試算に関しては、東電の計算がいい加減だとなじるつもりはない。事故前のリスク評価が甘すぎという側面はあるにせよ、どのみち自然災害のような予測困難なリスクについては、この程度の大雑把な計算しか成り立たないのだ。自然の事象に対する原発のリスク管理はそういうあやふやな土台の上に組み立てられているのであり、新たな規制基準が「世界最高」などという言辞をそのまま鵜呑みにすることはとうていできないのである。
これによって、稼働中の3号機は停止した。
今回の判決はかなり踏み込んだもので、安全性を証明する責任が電力会社の側にあるとし、新規制基準自体にも疑念を呈した。福井地裁で同様の判断が示されたときには、「もともと反原発派の判事がくだした判断」と批判する声もあがっていたが、ここで大津地裁でも差し止めの仮処分が出されたことは大きい。原発の再稼動差し止めは、一部の判事が出すレアな判断ではないということが示されたわけで、しかも「新規制基準自体が信用ならない」、「電力会社の側に安全を証明する責任」があるという基準が一般的なものとなれば、今後も原発再稼動に関する訴訟で似たような判断が出てくる可能性がある。そういう意味で、今回の大津地裁の判断は、原発再稼働路線自体にもブレーキをかけるものになりうる。
そこに危機を感じ取ってか、関西電力の側はこの判決に強く反発しているのだが、そもそも彼らは反発などできる立場にないだろう。高浜原発の4号機は、差し止められるまでもなくすでに停止状態にあるわけだが、周知のとおり、これは再稼動直後にトラブルが発生したために停止せざるをえなかったのである。そんな状況で、どの面さげて「承服できない」などといえるのか。
さて、当ブログで原発ネタを扱うのは3回目になる。
一回目は原子力発電の安全性、二回目はその安定性について書いた。今回は、原発の自然災害に対する安全性について書きたい。
最近、かの甘利前経済再生担当相が、テレ東に対して「スラップ訴訟」(政治家や企業が、自分に不都合な報道を封殺する目的でメディアなどを威嚇するために起こす訴訟)を起こしていたという話があって、ここgoo ブログでもそれに関する記事が多数投稿されているが、その訴訟の発端となったのは、原発の津波対策である。
これは昨夜のNEWS23のスペシャルでも扱っていたし、これまでにも各種報道で出てきている話だが、実際には福島第一原発が大津波に襲われる可能性は、2008年の段階で指摘されていた。しかし、東電側はその対策は必要ないとして津波への備えを怠ってきたのである。
つまり、福島の事故は「想定できなかった」のではなく、東電や自民党の政治家、経済産業省の役人らが「想定しなかった」のである。理由は単純で、それを想定すれば、原発を稼働し続けられなくなるから。
ここが、原発のリスク管理における最大の問題だ。稼働することありきで動いていて、その閾値におさまるようにリスクが計算されているのだ。
本来なら、リスクの計算が先にあって、そのリスクが一定のラインを超えていたら原発を稼働させるべきではない――となるはずなのに、この国の原発行政ではそれが逆になっている。原発は稼働しなければならない。だから、リスクは一定のライン以下でなければならない。もし一定のラインを超えるリスクがありそうだったら、それを隠すか、見なかったことにするか、数値を改竄する。そして、大丈夫であることにする……これが、原発ムラの論理である。
それが、実際に、各種の改竄や隠蔽となってあらわれるし、またそもそものリスク想定の甘さにもつながってくる。
先の津波の話もそうだし、ほぼ同じ時期のもうひとつの例として、2006年に制定された耐震指針もあげられるだろう。
福島県のいわき市に「湯ノ岳断層」という断層があるのだが、2006の新耐震指針にしたがって、東電はこの断層を「地震を起こす可能性がない断層」とし、当時の原子力安全・保安院など規制当局もその判断を追認していた。ところが、東日本大震災から一ヵ月後の余震で、この断層が活動した跡がみつかったのである。この事例においても、結果としては活動する可能性のある活断層が見過ごされていたことになるわけで、国や電力会社の想定の甘さを露呈するものといえる。
また、断層の問題でいうと、最近石川県の志賀原発でも、原子炉の直下にある断層が活断層である可能性が指摘されている。この「S-1」断層も、その存在が以前から知られていながら北陸電力が「活断層ではない」と言い張ってきたものなのだが、今回その審査にあたった専門家からは「よくこんなものが審査をとおったものだ」と呆れる意見も出たそうだ。
こうした経緯をみてくれば、原発を推進する側の論理で作られた新規制基準など信用できないのは当然である。
さて――ここまでは、原発を推進する側がみずからの都合で「想定しない」という問題について書いてきたが、もちろん実際に「想定できない」リスクもある。そして、意図的に「想定しない」リスクにくわえて「想定できない」リスクもあるのだから、さらに原発の安全性は確保しがたいということになる。
原発のリスクは、「雷が落ちる可能性」とか「地震が起きる可能性」とかいった事故につながりうるケースをリストアップし、それぞれの確率を計算して算出する。しかしこのやり方は、想定しえた事象の確率しかふくんでいないので、あきらかに不完全である。そして、想定し得ない事態は想定し得ないのだから、その確率など計算のしようがない。つまり、原発のリスクは、電力会社が想定している値より大きいことは確実であり、しかもどれだけ大きいかはわからないのだ。
たとえば、あり得ないような想定の例としてよく持ち出される「隕石の落下」などというものも、それが起きる可能性はたしかにおそろしく低いだろうが、だからといってそのような事象全てを無視してリスクを評価してよいのか。たとえば「10年以内のおきる可能性が1千万分の1」という事象が1万個あれば、10年以内にそのどれかがおきる可能性は1千分の1となり、無視できないものになってくる。もしかしたら、重大事故につながるような自然災害に見舞われる可能性は、電力会社が試算する数字よりずっと大きいかもしれないのである。
最後に、自然災害などのリスク計算がいかに難しくラフなものでしかないかということを示す数字を紹介しよう。
それは、炉心損傷が起きるような事故に関する東電の試算である。東電は、そのような重大事故が起きる可能性について、福島第一原発の事故が起きる前には「1千万年に1回」と試算していた。ところが、わずか40年で3基がメルトダウンを起こす。そして事故後の試算では、同じような事故が起きる可能性は1基あたり「5千年に1回」となった……
この数字一つとっても、こうしたリスク計算がいい加減なものであることがわかるだろう。この試算に関しては、東電の計算がいい加減だとなじるつもりはない。事故前のリスク評価が甘すぎという側面はあるにせよ、どのみち自然災害のような予測困難なリスクについては、この程度の大雑把な計算しか成り立たないのだ。自然の事象に対する原発のリスク管理はそういうあやふやな土台の上に組み立てられているのであり、新たな規制基準が「世界最高」などという言辞をそのまま鵜呑みにすることはとうていできないのである。