「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが波紋を広げている。
この問題で、当初安倍総理は相手にしないような態度をとったことで批判を浴び、あわてて大気児童問題に取り組む姿勢を示そうとしたが、今度は国会答弁で「保育所」を「保健所」といい間違えて問題になった。ただの言い間違いをそこまで問題視するべきではないかもしれないが、しかし、本当に真剣に考えていたらそんな言い間違いはしないだろうとは思うところである。
また、この問題に関しては自民党議員のヤジも問題になった。
そのヤジを飛ばした一人とされる平沢勝栄氏は、民放の情報番組に出演した際に「本当に女性が書いたのか」という疑問を呈したそうだが、言葉遣いなどから女性であるかどうかを疑うというのは、まったくばかげた態度である。
“女性がこんな言葉遣いをするはずがない”というのは、脂ぎったおっさんが勝手に作り上げた女性像にすぎない。女性はつつましく、しとやかに――そんな妄想を投影されても、世の女性方にとっては気色悪いだけだろう。実際のところ、複数のメディアがこのブログの投稿者に接触していて、投稿したのは30代の母親であるとされている。投稿者がじつは女性ではないというのは、平沢氏の勝手な思い込みである可能性が高い。
保育といえば、昨年の冬、政府が「保育の資格をもっていなくとも保育所の一部の仕事につけるように要件を緩和する」という方針を打ち出したことがあったが、この件でも、巷では「そういう問題じゃない」と批判の声があがった。
実際には、資格をもっていても保育の仕事についていない人は相当数いるといわれていて、資格のない人を保育の仕事に就かせるよりも、むしろ資格のある人たちがそのもっている資格をいかそうという気になるように、待遇面を改善していくことが重要だ――という指摘である。そういったところをみても、政府の待機児童問題に対する取り組みは、現状認識の段階から間違っているのではないかと思えてくる。
もちろん、待機児童の問題に即効性のある対策がそうあるわけではないだろう。
だが、この問題はなにも去年突然ふってわいたわけではなく、もうずいぶん前からいわれていることなのである。前に書いた震災復興の問題もそうだが、これまでの数年間真剣に取り組んでいれば、もう少しどうにかなっているはずではないのか。特定秘密保護法だの安保法だのといったことの前に取り組むべき問題があったのではないか、と思わずにいられない。どうも安倍政権というのは“戦後レジームからの脱却”などという、自己満足でしかない愚行に政治資源を浪費していて、ふつうの国民のいまの生活に関わる問題を軽視しているように私にはみえる。
最後に、もう少し話を広げて考えてみたい。
今回の一連の騒動をみていて、私は、中野晃一教授が以前福岡のシンポジウムで語っていた論を思い出した。
代表制民主主義とは、「再現民主主義」である、と中野教授はいう。代表制民主主義というときの「代表」にあたる英語はrepresentation だが、この言葉は、「現れること、現前」という意味の presentation に「再び」を意味する接頭辞の re がついたもので、字義通りに訳すれば「再現」となる。すなわち、代議制民主主義とは、民意を議会のなかに「再現させる」ことなのだ。
しかし、いまの日本ではその「再現」が機能していない。だから国民は、みずからの体で「現れる」ということをしなければならない。re‐presentation が成立しないので、presentation =「現前」をしなければならなくなる――それが、デモや国会前でのスタンディングなのである。
今回の「保育園落ちたの私だ」運動は、保育といった分野でも同じ構図が存在することを示した。すなわち、安全保障の分野にかぎらず、安倍政権はその本質からして民意を体現していないのだ。
そしてそのうえで指摘したいのは、そうした presentation が実際に国会を動かしたということだ。
あのブログをきっかけにしてはじまった「保育園落ちたの私だ」運動は短期間で多くの署名を集め、それに対して与野党がそれぞれに対策を打ち出している。このことが重要である。問題の当事者やその支持者たちが「現前」したことによって、国会議員たちはそれを無視することができず、動かざるをえなくなった。――そういう点で、今回の件は、デモや抗議活動、署名といった運動が決して無駄なものではなく、実際に政治を動かしうるということの証明といえるのだ。
そういう見方でみると、反原発や反安保、反辺野古基地の運動も、それぞれに一定の影響力を発揮しているように見える。国民の間で続く反原発の運動は、裁判官の判断にも影響したかもしれない。辺野古新基地への反対運動によって、政府は一時的にせよ沖縄との和解案を呑んだ。そして、反安保運動は野党の共闘を後押しし、難航していた民主・維新の合流につながった。
こうしてみれば、国民がみずから姿を現わしての抗議は、決して無駄にはならないということがわかる。抗議の声が大きくなれば、政治の側は動かざるをえないのだ。今回の「保育園落ちたの私だ」運動は、それをはっきりとしたかたちで示してくれた。
この問題で、当初安倍総理は相手にしないような態度をとったことで批判を浴び、あわてて大気児童問題に取り組む姿勢を示そうとしたが、今度は国会答弁で「保育所」を「保健所」といい間違えて問題になった。ただの言い間違いをそこまで問題視するべきではないかもしれないが、しかし、本当に真剣に考えていたらそんな言い間違いはしないだろうとは思うところである。
また、この問題に関しては自民党議員のヤジも問題になった。
そのヤジを飛ばした一人とされる平沢勝栄氏は、民放の情報番組に出演した際に「本当に女性が書いたのか」という疑問を呈したそうだが、言葉遣いなどから女性であるかどうかを疑うというのは、まったくばかげた態度である。
“女性がこんな言葉遣いをするはずがない”というのは、脂ぎったおっさんが勝手に作り上げた女性像にすぎない。女性はつつましく、しとやかに――そんな妄想を投影されても、世の女性方にとっては気色悪いだけだろう。実際のところ、複数のメディアがこのブログの投稿者に接触していて、投稿したのは30代の母親であるとされている。投稿者がじつは女性ではないというのは、平沢氏の勝手な思い込みである可能性が高い。
保育といえば、昨年の冬、政府が「保育の資格をもっていなくとも保育所の一部の仕事につけるように要件を緩和する」という方針を打ち出したことがあったが、この件でも、巷では「そういう問題じゃない」と批判の声があがった。
実際には、資格をもっていても保育の仕事についていない人は相当数いるといわれていて、資格のない人を保育の仕事に就かせるよりも、むしろ資格のある人たちがそのもっている資格をいかそうという気になるように、待遇面を改善していくことが重要だ――という指摘である。そういったところをみても、政府の待機児童問題に対する取り組みは、現状認識の段階から間違っているのではないかと思えてくる。
もちろん、待機児童の問題に即効性のある対策がそうあるわけではないだろう。
だが、この問題はなにも去年突然ふってわいたわけではなく、もうずいぶん前からいわれていることなのである。前に書いた震災復興の問題もそうだが、これまでの数年間真剣に取り組んでいれば、もう少しどうにかなっているはずではないのか。特定秘密保護法だの安保法だのといったことの前に取り組むべき問題があったのではないか、と思わずにいられない。どうも安倍政権というのは“戦後レジームからの脱却”などという、自己満足でしかない愚行に政治資源を浪費していて、ふつうの国民のいまの生活に関わる問題を軽視しているように私にはみえる。
最後に、もう少し話を広げて考えてみたい。
今回の一連の騒動をみていて、私は、中野晃一教授が以前福岡のシンポジウムで語っていた論を思い出した。
代表制民主主義とは、「再現民主主義」である、と中野教授はいう。代表制民主主義というときの「代表」にあたる英語はrepresentation だが、この言葉は、「現れること、現前」という意味の presentation に「再び」を意味する接頭辞の re がついたもので、字義通りに訳すれば「再現」となる。すなわち、代議制民主主義とは、民意を議会のなかに「再現させる」ことなのだ。
しかし、いまの日本ではその「再現」が機能していない。だから国民は、みずからの体で「現れる」ということをしなければならない。re‐presentation が成立しないので、presentation =「現前」をしなければならなくなる――それが、デモや国会前でのスタンディングなのである。
今回の「保育園落ちたの私だ」運動は、保育といった分野でも同じ構図が存在することを示した。すなわち、安全保障の分野にかぎらず、安倍政権はその本質からして民意を体現していないのだ。
そしてそのうえで指摘したいのは、そうした presentation が実際に国会を動かしたということだ。
あのブログをきっかけにしてはじまった「保育園落ちたの私だ」運動は短期間で多くの署名を集め、それに対して与野党がそれぞれに対策を打ち出している。このことが重要である。問題の当事者やその支持者たちが「現前」したことによって、国会議員たちはそれを無視することができず、動かざるをえなくなった。――そういう点で、今回の件は、デモや抗議活動、署名といった運動が決して無駄なものではなく、実際に政治を動かしうるということの証明といえるのだ。
そういう見方でみると、反原発や反安保、反辺野古基地の運動も、それぞれに一定の影響力を発揮しているように見える。国民の間で続く反原発の運動は、裁判官の判断にも影響したかもしれない。辺野古新基地への反対運動によって、政府は一時的にせよ沖縄との和解案を呑んだ。そして、反安保運動は野党の共闘を後押しし、難航していた民主・維新の合流につながった。
こうしてみれば、国民がみずから姿を現わしての抗議は、決して無駄にはならないということがわかる。抗議の声が大きくなれば、政治の側は動かざるをえないのだ。今回の「保育園落ちたの私だ」運動は、それをはっきりとしたかたちで示してくれた。