先日コメントをいただいたので、それに対する回答を書きたい。
といっても、すでに一度コメント欄で回答はしている。ふだんは、コメント欄で返事を書いたらそれで終わりにしているのだが、これではいい足りないと思ったので、その続きを書くことにした。
また、あらためて回答を書くことにしたのは、もうひとつ理由がある。それは、ちょうどこれまでのまとめを書いておくタイミングにあたっているということだ。
私見では、1990年ごろを境にして、集団的自衛権は性質が変わっていく。そこを境目にして前半、後半にわけるとすると、ちょうどニカラグアやチャドといった80年代のケースまでが前半部分におさまる。区切りがいいところなので、その前半部分のまとめを書いておきたいと思う。
問題のコメントは、次のようなものである。
《日本の自称平和主義者って何故持論の飛躍に気づかないんだろうか。まあ、自己肯定感の獲得が目的なのだろうから当たり前かもしれませんが。
企業の研修が徴兵だって?
もう失笑レベルです。
あとね、集団的自衛権を否定すればするほど、防衛予算も人員も沢山必要になる事にいい加減気付きなさい。
頼むから省エネで効率的な防衛力を構築する邪魔をしないで欲しいし、それで善人面するのも止めて欲しいな。》
まず、一つの数字を紹介したい。
それは、「5分の4」だ。
第二次大戦以降、地図上から消滅した国は5つほどある。ソビエト連邦、東ドイツ、南ベトナム、南アラビア連邦、ユーゴスラビア(※)だ。そして、この5つのうち、ユーゴスラビアをのぞく4つが、集団的自衛権を行使した、あるいは行使してもらった国である。
集団的自衛権の行使に関与した国が世界全体でみればごく一部(たぶん一割から二割ぐらい)でしかないことを考えれば、異常に高い割合ではないか。このうち、南ベトナムはダイレクトに集団的自衛権の行使によって起きた戦争に敗れて消滅した。ソ連の場合も、集団的自衛権を行使したことが、国家が崩壊する一因となったと考えられる。私は集団的自衛権のことを“滅びの呪文”と呼んでいるのだが、まさに、集団的自衛権というのは、ひとたびそれを行使すれば、そこに関わった国々に大きな災いをもたらし、場合によっては国家を崩壊に追いやることさえある危険な代物なのだ。
これまでに当ブログで扱った事例で、それはよくわかる。
たとえば、ベトナムがどれだけの犠牲をアメリカに強いたか。
ベトナム戦争は、米兵5万人の死者を出し、莫大な戦費を費やしたうえに、結局は南ベトナムを崩壊させて、ベトナム全土をアメリカの望まない社会主義体制に変える結果に終った戦争だ。
また、アフガニスタンも、同じようにソ連に膨大なコストを強いた。それが――どの程度の割合でかは議論の余地があるにしても――ソ連邦崩壊の一因となったと考えるのは無理なことではあるまい。そして、ソ連の介入によってはじまった内戦の後に、アフガニスタンにはタリバン政権が誕生し、この地域の不安定要素となった。大きな代償を支払ったすえに、結局は過激な原理主義国家ができただけだったのである。
ベトナムとアフガンの例は無惨な失敗例としてよく知られるが、それ以外の例もひどいものばかりだ。
アメリカのニカラグア干渉の場合、それによって追い落としたダニエル・オルテガが20年も経たないうちに政権に復帰している。つまりは、この干渉にほとんど意味はなかった。そして、この干渉の過程でイラン・コントラ事件という一大スキャンダルを引き起こしもした。
同様に、ソ連が行ったハンガリーやチェコスロヴァキアへの介入も、無意味だった。これらの介入はソ連を中心とした共産主義陣営を守るためといって民主化運動を弾圧したものだが、両国とも民主化運動が完全に潰えてしまうことはなく、二、三十年後に大規模な民主化運動が起こり、これもまたソ連邦崩壊の一因となった。
無意味という点では、イギリスが集団的自衛権の行使として行った南アラビア連邦への介入もそうだった。その介入から3年後に、南アラビア連邦は体制崩壊に追い込まれ、イギリスの介入は、国際社会から強い非難を浴びただけで、無駄に終った。
また、アフリカの例もひどいものだった。
チャドやアンゴラでは、集団的自衛権の行使として他国が干渉してきたことを受けて、さらに別の勢力が介入してきて、内戦は泥沼化し、長期化していった。この両国とも、集団的自衛権行使によって内戦が終わるどころか、二十年、三十年という長期にわたって内戦状態が続くことになった。ここに、集団的自衛権というものに潜む落とし穴があることを私は指摘した。紛争が起きているところに集団的自衛権によって第三国が介入してくると、しばしばさらに新たな勢力――いうなれば“第四国”の介入を招く。それによって、紛争の当事者が増え、当然の結果として内戦は長期化し、泥沼化するのである。これは、ベトナムやアフガニスタンでも見られた構図だ。
以上が、集団的自衛権が行使された例の実態なのである。
いったい、これらのどこが「省エネで効率的な防衛力」なのだろうか? 現実には、集団的自衛権の行使は、そのほとんどが
①莫大なコストがかかる。
②結局、目的を果たせず無意味に終わる。
のどちらか、あるいは両方にあてはまっていて、「省エネ」でも「効率的」でもない。②については、短期的には目的を果たしたように見えるケースでも、二、三十年ほどで結局だめになっている。どちらにもあてはまらないのは、軍を進駐させただけで実際に軍事衝突は起きなかったヨルダンやレバノンのケースぐらいだ。つまり、集団的自衛権によってもたらされる結果は、ゼロかマイナスのどちらかしかなく、しかもゼロよりもマイナスのほうが圧倒的に多い。
推進派には推進派の理論もあるだろうが、机上で「構築」した理屈がどうであろうと、歴史上の現実が示すのは、集団的自衛権はそれを行使した国にも行使してもらった国にも大きなコストを強いてきたし、意図していたような効果が得られない例がほとんど――というか、前半にかぎればすべてがそうだといっていい――ということだ。
日本が集団的自衛権を行使するということになれば、このような泥沼の内戦に足を踏み入れることになりかねない。そして、日本の苦しい財政状況を考えれば、それは国家の破綻に直結する危機をはらんでもいる。世界の武力行使の実例を見ていれば、一度首を突っ込んでしまうと、もうやめます、といってもそう簡単に抜け出せない状態になることは十分に考えられるが、そうなったとき、どんどん膨らんでいく“戦費”をどうやってまかなうのか? 国債を大量に発行するのか? それは、現状でさえ危ぶまれている破綻の引き金になりはしないだろうか?
そんなふうに考えるからこそ、私は集団的自衛権行使を憲法解釈によって容認した安倍政権を批判しているのである。ひとえに、お国のためというやつである。もちろん、自分の書いていることがすべて正しいと主張するつもりもない。私は、軍事についても海外情勢についても専門家ではないから、事実誤認だってあるだろうし、論理に筋道の通っていないと思えるところだってあるだろう。批判があるなら――政府や自民党の人たちとちがって――謙虚にそれを受け止めて議論をしたいと思う。しかし、批判するならせめて、数字のデータなり、そう考える根拠となる事例なりを提示してもらいたい。そうでなければ、とりあえず嘲笑するようなことを書いて相手を貶めようとするただのイメージ戦略ととられてもやむをえまい。
※……ここでいう“地図上から消滅した”というのは、名称が変わり、国境線が変更された場合をいう。単に名称だけが変わったものや、クーデターなどで体制が変わったようなケースは含まない。二つの国が統合した場合(ドイツとベトナム)は、事実上吸収されたほうを“消滅した”とみなす。また、一つの国が複数に分裂したようなケースは、もとの国名が残っていない場合のみが対象(ソ連とユーゴスラビア)。したがって、国の一部が分離独立したようなケースは除く。たとえば、スーダンから南スーダンが分離独立したからといってスーダンという国が消滅したとはいわないだろう。
このルールで行くと、チェコスロヴァキアがチェコとスロヴァキアに分かれた例をどう扱うのかというのが問題になるが、やはり、“消滅した”とはいえないと思うのでここでは対象外にする。もしチェコスロヴァキアを含めるとしたら、この国も集団的自衛権を行使された国なので、「地図上から消滅した国家のなかで、集団的自衛権の行使に関与している国の割合」は6分の5になる。
といっても、すでに一度コメント欄で回答はしている。ふだんは、コメント欄で返事を書いたらそれで終わりにしているのだが、これではいい足りないと思ったので、その続きを書くことにした。
また、あらためて回答を書くことにしたのは、もうひとつ理由がある。それは、ちょうどこれまでのまとめを書いておくタイミングにあたっているということだ。
私見では、1990年ごろを境にして、集団的自衛権は性質が変わっていく。そこを境目にして前半、後半にわけるとすると、ちょうどニカラグアやチャドといった80年代のケースまでが前半部分におさまる。区切りがいいところなので、その前半部分のまとめを書いておきたいと思う。
問題のコメントは、次のようなものである。
《日本の自称平和主義者って何故持論の飛躍に気づかないんだろうか。まあ、自己肯定感の獲得が目的なのだろうから当たり前かもしれませんが。
企業の研修が徴兵だって?
もう失笑レベルです。
あとね、集団的自衛権を否定すればするほど、防衛予算も人員も沢山必要になる事にいい加減気付きなさい。
頼むから省エネで効率的な防衛力を構築する邪魔をしないで欲しいし、それで善人面するのも止めて欲しいな。》
まず、一つの数字を紹介したい。
それは、「5分の4」だ。
第二次大戦以降、地図上から消滅した国は5つほどある。ソビエト連邦、東ドイツ、南ベトナム、南アラビア連邦、ユーゴスラビア(※)だ。そして、この5つのうち、ユーゴスラビアをのぞく4つが、集団的自衛権を行使した、あるいは行使してもらった国である。
集団的自衛権の行使に関与した国が世界全体でみればごく一部(たぶん一割から二割ぐらい)でしかないことを考えれば、異常に高い割合ではないか。このうち、南ベトナムはダイレクトに集団的自衛権の行使によって起きた戦争に敗れて消滅した。ソ連の場合も、集団的自衛権を行使したことが、国家が崩壊する一因となったと考えられる。私は集団的自衛権のことを“滅びの呪文”と呼んでいるのだが、まさに、集団的自衛権というのは、ひとたびそれを行使すれば、そこに関わった国々に大きな災いをもたらし、場合によっては国家を崩壊に追いやることさえある危険な代物なのだ。
これまでに当ブログで扱った事例で、それはよくわかる。
たとえば、ベトナムがどれだけの犠牲をアメリカに強いたか。
ベトナム戦争は、米兵5万人の死者を出し、莫大な戦費を費やしたうえに、結局は南ベトナムを崩壊させて、ベトナム全土をアメリカの望まない社会主義体制に変える結果に終った戦争だ。
また、アフガニスタンも、同じようにソ連に膨大なコストを強いた。それが――どの程度の割合でかは議論の余地があるにしても――ソ連邦崩壊の一因となったと考えるのは無理なことではあるまい。そして、ソ連の介入によってはじまった内戦の後に、アフガニスタンにはタリバン政権が誕生し、この地域の不安定要素となった。大きな代償を支払ったすえに、結局は過激な原理主義国家ができただけだったのである。
ベトナムとアフガンの例は無惨な失敗例としてよく知られるが、それ以外の例もひどいものばかりだ。
アメリカのニカラグア干渉の場合、それによって追い落としたダニエル・オルテガが20年も経たないうちに政権に復帰している。つまりは、この干渉にほとんど意味はなかった。そして、この干渉の過程でイラン・コントラ事件という一大スキャンダルを引き起こしもした。
同様に、ソ連が行ったハンガリーやチェコスロヴァキアへの介入も、無意味だった。これらの介入はソ連を中心とした共産主義陣営を守るためといって民主化運動を弾圧したものだが、両国とも民主化運動が完全に潰えてしまうことはなく、二、三十年後に大規模な民主化運動が起こり、これもまたソ連邦崩壊の一因となった。
無意味という点では、イギリスが集団的自衛権の行使として行った南アラビア連邦への介入もそうだった。その介入から3年後に、南アラビア連邦は体制崩壊に追い込まれ、イギリスの介入は、国際社会から強い非難を浴びただけで、無駄に終った。
また、アフリカの例もひどいものだった。
チャドやアンゴラでは、集団的自衛権の行使として他国が干渉してきたことを受けて、さらに別の勢力が介入してきて、内戦は泥沼化し、長期化していった。この両国とも、集団的自衛権行使によって内戦が終わるどころか、二十年、三十年という長期にわたって内戦状態が続くことになった。ここに、集団的自衛権というものに潜む落とし穴があることを私は指摘した。紛争が起きているところに集団的自衛権によって第三国が介入してくると、しばしばさらに新たな勢力――いうなれば“第四国”の介入を招く。それによって、紛争の当事者が増え、当然の結果として内戦は長期化し、泥沼化するのである。これは、ベトナムやアフガニスタンでも見られた構図だ。
以上が、集団的自衛権が行使された例の実態なのである。
いったい、これらのどこが「省エネで効率的な防衛力」なのだろうか? 現実には、集団的自衛権の行使は、そのほとんどが
①莫大なコストがかかる。
②結局、目的を果たせず無意味に終わる。
のどちらか、あるいは両方にあてはまっていて、「省エネ」でも「効率的」でもない。②については、短期的には目的を果たしたように見えるケースでも、二、三十年ほどで結局だめになっている。どちらにもあてはまらないのは、軍を進駐させただけで実際に軍事衝突は起きなかったヨルダンやレバノンのケースぐらいだ。つまり、集団的自衛権によってもたらされる結果は、ゼロかマイナスのどちらかしかなく、しかもゼロよりもマイナスのほうが圧倒的に多い。
推進派には推進派の理論もあるだろうが、机上で「構築」した理屈がどうであろうと、歴史上の現実が示すのは、集団的自衛権はそれを行使した国にも行使してもらった国にも大きなコストを強いてきたし、意図していたような効果が得られない例がほとんど――というか、前半にかぎればすべてがそうだといっていい――ということだ。
日本が集団的自衛権を行使するということになれば、このような泥沼の内戦に足を踏み入れることになりかねない。そして、日本の苦しい財政状況を考えれば、それは国家の破綻に直結する危機をはらんでもいる。世界の武力行使の実例を見ていれば、一度首を突っ込んでしまうと、もうやめます、といってもそう簡単に抜け出せない状態になることは十分に考えられるが、そうなったとき、どんどん膨らんでいく“戦費”をどうやってまかなうのか? 国債を大量に発行するのか? それは、現状でさえ危ぶまれている破綻の引き金になりはしないだろうか?
そんなふうに考えるからこそ、私は集団的自衛権行使を憲法解釈によって容認した安倍政権を批判しているのである。ひとえに、お国のためというやつである。もちろん、自分の書いていることがすべて正しいと主張するつもりもない。私は、軍事についても海外情勢についても専門家ではないから、事実誤認だってあるだろうし、論理に筋道の通っていないと思えるところだってあるだろう。批判があるなら――政府や自民党の人たちとちがって――謙虚にそれを受け止めて議論をしたいと思う。しかし、批判するならせめて、数字のデータなり、そう考える根拠となる事例なりを提示してもらいたい。そうでなければ、とりあえず嘲笑するようなことを書いて相手を貶めようとするただのイメージ戦略ととられてもやむをえまい。
※……ここでいう“地図上から消滅した”というのは、名称が変わり、国境線が変更された場合をいう。単に名称だけが変わったものや、クーデターなどで体制が変わったようなケースは含まない。二つの国が統合した場合(ドイツとベトナム)は、事実上吸収されたほうを“消滅した”とみなす。また、一つの国が複数に分裂したようなケースは、もとの国名が残っていない場合のみが対象(ソ連とユーゴスラビア)。したがって、国の一部が分離独立したようなケースは除く。たとえば、スーダンから南スーダンが分離独立したからといってスーダンという国が消滅したとはいわないだろう。
このルールで行くと、チェコスロヴァキアがチェコとスロヴァキアに分かれた例をどう扱うのかというのが問題になるが、やはり、“消滅した”とはいえないと思うのでここでは対象外にする。もしチェコスロヴァキアを含めるとしたら、この国も集団的自衛権を行使された国なので、「地図上から消滅した国家のなかで、集団的自衛権の行使に関与している国の割合」は6分の5になる。