集団的自衛権の行使事例を検証するシリーズの第4弾として、今回は、ソ連によるアフガン侵攻をとりあげる。アフガンについては、2001年にNATOなどが介入したケースもあるが、その件はまた別にとりあげることにして、ここではソ連のことだけを書く。
アフガニスタンは、「ソ連のベトナム」ともいわれる。
アメリカがベトナムに介入して国力の衰退を招いたのと同様に、ソ連もアフガンに侵攻したことで国力を衰えさせた。この戦争もまた、多大な犠牲の末に目的を果たすことができず、しかもソ連そのものの崩壊につながったという意味で、集団的自衛権行使事例のなかで、ベトナム戦争に並ぶ失敗例といえるだろう。
まずは、簡単に歴史的経緯を説明する。
アフガンは、その地政学的な重要性のために、古来から多くの国が勢力争いの舞台としてきた地域である。
かつてのモンゴルや、その流れを汲むムガル帝国、ペルシャのサファヴィー朝などが、この地をめぐって争いを繰り広げてきた。
19世紀頃になると、そこにイギリスとロシアが加わる。南下のルートを確保したいロシアとそれを防ごうとするイギリスの争いは“グレートゲーム”と呼ばれ、日露戦争などもその一環だが陸路での南下ルートとしてロシアが目をつけたのがアフガンであり、それを防ごうとするイギリスとの間で、激しい争奪戦となった。結末としては、ほかの地域でもそうだったようにイギリスの側が勝利をおさめ、アフガンは実質的にイギリスの支配下におかれることになる。
その後、半植民地状態が続くが、中東諸国などと同様に、アフガニスタンも20世紀になると独立を果たす。しかし、その地政学的な重要性は変わらず、第二次大戦後には、おなじみの冷戦の構図でふたたび大国間の覇権争いに巻き込まれることになる。
この1970年代の勢力争いでは、ソ連の側がひとまず勝利をおさめ、1978年、「サウル革命」によって、ムハンマド・タラキーを首相とする社会主義国家「アフガニスタン民主共和国」が誕生した。
しかし、そのまま社会主義政権で安定するというわけには行かなかった。
革命以後のアフガンは混迷していた。タラキー政権の急進的な政策はイスラム教徒たちの反発を招き、各地で“ジハード”と呼ばれるゲリラ戦が展開されるようになる。そしてそんななか、1979年に、かねてから権力の座を狙っていたアミンが、クーデターを起こして政権につく。アミンは、「民族共産主義者」としてアフガン民族の自決権を重視する立場から、ソ連と距離をおく方針をとり、のみならず、経済援助を得るためにアメリカに接近しようとする動きをみせた。
このときのソ連は、ブレジネフ政権の時代。この不穏な動きに対して、アフガニスタンを東側陣営にとどめてくために、ブレジネフはただちに軍事介入に踏み切る。「集団的自衛権の行使」として、アフガニスタンに軍を投入し、アミンを殺害。そのうえで、親ソ派のカルマルを政権につかせたのだった。
以上が、ソ連介入にいたるまでの簡単な歴史である。
その経緯から、このケースは、冷戦期の陣取り合戦というパターンに属するといえる。そういう意味で、同じくソ連が行ったハンガリー侵攻やチェコ侵攻と同じ構図といえるが、もちろん異なる点もあった。それは、軍事介入で話が終らなかったということである。アミン体制打倒は、ソ連にとって泥沼の戦争のはじまりでしかなかった。
そもそも、ここにいたるまでのアフガニスタンの政情は、単純なものではなかった。
先述のとおり、社会主義体制に反発するイスラム教徒たちが激しい反政府運動を行っており、その「政府VS反政府ゲリラ」という対立と並行して、政府内部で親ソ派とそうでないものたちが反目しているという複雑な構図があった。そこに介入していったソ連は、アミンを倒したはいいものの、“イスラム聖戦士(ムジャヒディン)”たちと戦わなければならなかったのである。
その戦いがはじまると、ちょうど、この十数年間のアメリカと同じ状況がソ連を待っていた。
最大で12万人にものぼる兵士を派遣し、激しい空爆を加えたが、ムジャヒディンたちはいっこうに勢力が衰える気配をみせなかった。それもそのはずで、アメリカを中心とする西側陣営が、ムジャヒディンたちを後方から支援していたのである。
「鉄のカーテンは鏡にすぎない」とサルトルはいったが、まさにこれは、ベトナムの共産主義勢力をソ連や中国が支援していたのをそっくりそのまま鏡に映したような図だ。こうして、いくら攻撃してもまったく衰えない敵を相手にして、ソ連は底なしの泥沼にはまり込んでいくのだった。
結果としては、ソ連はアフガン情勢を好転させることができないままで撤兵をせまられる。
80年代後半になると、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカという時代背景もあり、アメリカの「ベトナム化」政策と同様、ソ連もまた、軍を引き上げさせて間接的に支援するという方向に舵を切ったのだった。
これも鏡に映したようにそっくりな展開で、アメリカのベトナム支援が失敗したように、ソ連のアフガン支援も思うようには行かなかった。ソ連軍の撤退後、ムジャヒディンたちはみずからの政権樹立を宣言。アフガニスタンには二つの政権が並び立つという内戦状態になった。
そして、これまた南ベトナムの場合と同様に、ムジャヒディンたちと対立するナジブラ政権は、それ以降ソ連の支援を受け続けることはできなかった。だがそれは、アメリカの場合のように、政治の論理で援助が打ち切られたからではない。ソ連自体が崩壊してしまったためだ。
ソビエト連邦が崩壊したのは、1991年のこと。
その原因はいろいろあるだろうが、一つには、アフガンでの終わりの見えない戦いがソ連を疲弊させ、連邦解体の間接的な原因になっているともいわれる。つまり、ソ連は、集団的自衛権によって自国を防衛するどころか、集団的自衛権を行使したことによって国家の崩壊を引き起こしてしまったことになるのである。
もう少しいえば、東欧諸国での民主化運動の高まりもソ連崩壊の原因のひとつだが、かつてソ連はそれらの運動を弾圧していた(当ブログ「プラハの春」参照)。チェコやハンガリーへの介入は集団的自衛権の行使として行われたわけだが、結局これらの介入も、民主化運動を完全におさえ込むことはできず、東欧諸国で一気に噴出した民主化運動が連邦衰退に拍車をかけた。そういう意味でも、集団的自衛権は自分の国を守るという役割を果たせていないのである。
一方、ソ連という後ろ盾を失ったアフガニスタンのナジブラ政権は、もはや政権を存続させることができず、1992年にナジブラは辞任、その後の内戦状態を経て、1994年にタリバン政権が誕生することになる。結論としては、ソ連が集団的自衛権の行使として行ったアフガン侵攻は、ソ連にとって「自衛」の目的を果たすどころか、むしろ体制崩壊の一因となり、介入を受けたアフガンでは、タリバンという過激派政権を生み出すことになったのだった。
そして、アフガン侵攻の失敗はこれだけにとどまらない。
先述のとおり、ソ連のアフガン侵攻に対して、西側諸国はムジャヒディンたちを支援していたが、そのときアメリカが支援していたムジャヒディンのなかに、かのオサマ・ビンラディンがいたことは周知のとおりである。
ビンラディンだけでなく、各地の過激派イスラム教徒がこのアフガンでの“聖戦”に参加した。そして、それから彼らはイスラム世界の各地に散って、過激主義を拡散させるという結果になった。その後継者たちは、今でも中央アジアから北アフリカにまたがる広い範囲でテロリストとして活動し続けている。そういう意味で、ソ連によるアフガン侵攻は、集団的自衛権の行使が、当事国だけでなく、世界全体をより危険にしたという実例でもあるのだ。
さらに、アメリカの側から見れば、“敵の敵は味方”という理屈でムジャヒディンたちを支援したことが、結果としては後のテロリストたちを養成したことになる。ある意味で、9.11テロは自分たちのまいた種によるものでもあるのだ。こういう観点からすると、アフガンのケースは、もはや集団的自衛権云々というところにとどまらず、武力の行使によって事態を解決しようという発想そのものの致命的な失敗といえる。
ちなみに、本稿のタイトルは映画『ランボー』シリーズの3作目にあたる『ランボー3 怒りのアフガン』からとっている。
この映画では、いつものことながら終盤でランボーはピンチに陥るのだが、そんな彼を窮地から救ってくれるのが、ムジャヒディンたちだ。そのときのアメリカにとって、ムジャヒディンは邪悪なソ連と闘う“正義”の側だったわけである。しかし、そんな彼らが今ではアメリカを脅かすテロリスト。“敵の敵は味方”というのは、とても危険な考え方なのだ。アメリカは、ムジャヒディンを支援することで、“パンドラの箱”を開けてしまった。そういう意味で、このアフガンのケースは、集団的自衛権を行使した側と、それに対抗して介入した側の両者に致命的な結果をもたらしたのである。
ここまでお読みいただければ、このアフガン戦争が、ベトナム戦争にまさるとも劣らない失敗例だということが納得できるだろう。
このような歴史を目の当たりにすれば、「自衛は他衛、他衛は自衛」などという御託が実にそらぞらしく聞こえてくる。“自衛”のためにといって行った“他衛”は、“他衛”にも、まして“自衛”にもならず、それどころか、むしろ自国を衰亡に追いやった。これが、集団的自衛権の現実なのである。
もう少し私の意見を補足しておくと、これは、なにも偶然にそういうことになったわけではない。
私が考えるに、このようになった背景には、集団的自衛権というものの持つ構造的な問題がある。
集団的自衛権というのは、AとBという二つの勢力が衝突しているときに、Cという国がAに肩入れするということなわけだが、このようになるのは、多くの場合、CがもともとAの後ろ盾のような立場にある場合である。そして、たいていの場合はBの側にも同じように後ろ盾Dが存在している。そういう状況があれば、Cの介入は必然的にDの介入も引き起こす(※)。その結果、紛争は拡大し、また、長期化し、その紛争が終わっても別の場所に飛び火していったりすることになる。アフガニスタンで起きたことはまさにそれで、集団的自衛権の行使から30年以上がたち、その当事者だった国々が消滅した後でさえ、それによってまき散らされた火種が世界中で紛争を引き起こし続けているのである。まさに、集団的自衛権というものが、百害あって一利なしの代物であることがよくわかる。
(※)……ベトナム戦争を例にとれば、Aが南ベトナムでBが北ベトナムとすると、Cはアメリカ、Dはソ連、中国など。
アフガンの例では、Aがカルマル政権、Bがムジャヒディンとすると、Cはソ連、Dはアメリカということになる。