おはようございます。
奈良の古墳巡りシリーズ、今回は一番最初にお送りした佐紀盾列古墳群の続編と言う感じで奈良市の北部にある古墳についてお送りしていきましょう。
まずは写真1枚目~5枚目にある石のカラト古墳、イオンモール高の原から西へ上り坂を進んだ所にある神功1丁目緑地内にあるのですが、その場所がちょうど京都府と奈良県の境界線が通っている上になってしまっている。奈良県民としては古墳は奈良にあってほしいと思うところなのですが、地図をよ~く見てみると緑地は半分以上が京都府だが古墳の印は奈良県側についている、しかし木津川市のページでもこの古墳を紹介しているのだから所在地ははっきりさせていない感じです。
近鉄高の原駅からはバス停巡りをしながらならやま大通りを経て奈良市内の北部を通る県道44号線へ、その交差点を入ってすぐにあるのが奈保山御陵バス停、御陵と言うからには古墳があるわけだがこの辺りは丘陵地でどれが山でどれが古墳か分からない。地図サイトで確認するとバス停を挟むようにして元明天皇陵と元正天皇陵が向かい合うようにある、ぽっかりとした丘が緑色の風景の中にあまりの馴染みようで溶け込んでいる。元明天皇も元正天皇も共に女性天皇、元明天皇は元正天皇の母親に当たると言うことで、親子で並んでこの地に眠っていることになっている。現在は時代が令和になってこの後の皇位継承で女性天皇、女系天皇についていろいろと議論されているが、過去には多くの女性天皇がいたわけだから今更それを気にすることもないと思うのですが・・・女性じゃダメなんですかねえ、まあは絶対ダメと言いそうな感じだから、政権が変わればまた考えも変わるかも知れないけど、まあ政権が変わることはあり得ないか・・・。
近鉄奈良駅の東側にあるのがきたまち、このエリアはこの前お地蔵様巡りで訪れましたが、この町並の一番北の方には山と見間違えてしまいそうなほどの大きな古墳がそびえている。写真1枚目にあるのがその古墳だがここには2つの古墳が並んでいて、南側から見て右手側が光明皇后陵、左手側が聖武天皇陵となっている。写真2枚目にあるのはきたまちを東西に貫く一条南大路にある道標、さっき訪れた奈保山御陵の2つの古墳名が刻まれている。この道標が立つ道を北へと進んで行くと緩やかな上り坂となって聖武天皇陵の横へとたどり着く、その上り詰めた所には「眉間寺」と刻まれた碑が立っている、聞いたことがない寺院名だが江戸時代まであった聖武天皇の創建による東大寺の末寺と言うことらしいです。
このゾーンでは前にお伝えした佐紀盾列古墳群の残りの古墳を巡って行くこととしましょう。平城宮跡の北側、歌姫街道に近い所の民家の中にポカリとあるのが平城天皇陵、「平城」とは名前は奈良にちなんでいるが天皇名としてはあまり馴染みがない、調べてみると平安時代で桓武天皇の子、次代の天皇に当たっている。平安時代なのになぜ「平城」?wikiによると親に背くかのように平城京への遷都を計画したが兄弟に阻まれて断念、そのまま平城京に滞在したとある。もし天皇が頑張って奈良に再遷都していたら奈良ももっと栄えていたのかも知れない、ってその前に歴史そのものが変わってしまっているか、もう1000年以上も前の話ですからね。その後は歌姫付近をいろいろと巡って回る、歌姫峠付近は結構まっ平らで緑の田園風景が広がる所、グーグルマップで古墳の場所を検索しながらあちらこちらへと進んで行く。近鉄京都線の近くで山を下って行くと民家の真ん中に見えるモワーッとした森が瓢箪山古墳、特に誰の墳墓とは指定されていないが古墳は史跡とされて柵が張られている、形が前方後円墳だから瓢箪山なんでしょうかねえ・・・。さて、この地域には巡り切れていない陪塚がまだまだあるようです、また機会を見つけて行ってみようと思っています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち
奈良の古墳巡りシリーズ、今回は一番最初にお送りした佐紀盾列古墳群の続編と言う感じで奈良市の北部にある古墳についてお送りしていきましょう。
まずは写真1枚目~5枚目にある石のカラト古墳、イオンモール高の原から西へ上り坂を進んだ所にある神功1丁目緑地内にあるのですが、その場所がちょうど京都府と奈良県の境界線が通っている上になってしまっている。奈良県民としては古墳は奈良にあってほしいと思うところなのですが、地図をよ~く見てみると緑地は半分以上が京都府だが古墳の印は奈良県側についている、しかし木津川市のページでもこの古墳を紹介しているのだから所在地ははっきりさせていない感じです。
近鉄高の原駅からはバス停巡りをしながらならやま大通りを経て奈良市内の北部を通る県道44号線へ、その交差点を入ってすぐにあるのが奈保山御陵バス停、御陵と言うからには古墳があるわけだがこの辺りは丘陵地でどれが山でどれが古墳か分からない。地図サイトで確認するとバス停を挟むようにして元明天皇陵と元正天皇陵が向かい合うようにある、ぽっかりとした丘が緑色の風景の中にあまりの馴染みようで溶け込んでいる。元明天皇も元正天皇も共に女性天皇、元明天皇は元正天皇の母親に当たると言うことで、親子で並んでこの地に眠っていることになっている。現在は時代が令和になってこの後の皇位継承で女性天皇、女系天皇についていろいろと議論されているが、過去には多くの女性天皇がいたわけだから今更それを気にすることもないと思うのですが・・・女性じゃダメなんですかねえ、まあは絶対ダメと言いそうな感じだから、政権が変わればまた考えも変わるかも知れないけど、まあ政権が変わることはあり得ないか・・・。
近鉄奈良駅の東側にあるのがきたまち、このエリアはこの前お地蔵様巡りで訪れましたが、この町並の一番北の方には山と見間違えてしまいそうなほどの大きな古墳がそびえている。写真1枚目にあるのがその古墳だがここには2つの古墳が並んでいて、南側から見て右手側が光明皇后陵、左手側が聖武天皇陵となっている。写真2枚目にあるのはきたまちを東西に貫く一条南大路にある道標、さっき訪れた奈保山御陵の2つの古墳名が刻まれている。この道標が立つ道を北へと進んで行くと緩やかな上り坂となって聖武天皇陵の横へとたどり着く、その上り詰めた所には「眉間寺」と刻まれた碑が立っている、聞いたことがない寺院名だが江戸時代まであった聖武天皇の創建による東大寺の末寺と言うことらしいです。
このゾーンでは前にお伝えした佐紀盾列古墳群の残りの古墳を巡って行くこととしましょう。平城宮跡の北側、歌姫街道に近い所の民家の中にポカリとあるのが平城天皇陵、「平城」とは名前は奈良にちなんでいるが天皇名としてはあまり馴染みがない、調べてみると平安時代で桓武天皇の子、次代の天皇に当たっている。平安時代なのになぜ「平城」?wikiによると親に背くかのように平城京への遷都を計画したが兄弟に阻まれて断念、そのまま平城京に滞在したとある。もし天皇が頑張って奈良に再遷都していたら奈良ももっと栄えていたのかも知れない、ってその前に歴史そのものが変わってしまっているか、もう1000年以上も前の話ですからね。その後は歌姫付近をいろいろと巡って回る、歌姫峠付近は結構まっ平らで緑の田園風景が広がる所、グーグルマップで古墳の場所を検索しながらあちらこちらへと進んで行く。近鉄京都線の近くで山を下って行くと民家の真ん中に見えるモワーッとした森が瓢箪山古墳、特に誰の墳墓とは指定されていないが古墳は史跡とされて柵が張られている、形が前方後円墳だから瓢箪山なんでしょうかねえ・・・。さて、この地域には巡り切れていない陪塚がまだまだあるようです、また機会を見つけて行ってみようと思っています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち