よろしくお願いします。
今回は平城京をお地蔵様を通して巡って行ってみようと思います。まずは三条大路をJR奈良駅から西へ進んで行った所にある写真1枚目にある出屋敷地蔵尊、そのお堂の横には由緒が書かれた看板が立っているがその文面は昔の文体で書かれていてイマイチ内容が分かりにくい。分かるのはこのお地蔵様が安産を祈願された子安地蔵だと言うことと、文面には後醍醐天皇と言う文字が見えるので南北朝時代・・・この時代ってイマイチよく分からない時代なんですよね、まあ歴史を大河ドラマで知るようになってしまってからはこの時代のことはほとんど取り上げられていないですから・・・からあったと言うことくらいです。ここは明石家さんま氏の実家がすぐ近くにあった所、そこから更に西へと近鉄尼ヶ辻駅を通り越して進んで行くと次に出会ったのが歯痛地蔵尊と彫られた碑がある地蔵堂。そこにはその由緒が書かれた看板などは立っていない、お堂の中のお地蔵様を除いてみると、あれれ、お口を閉じてらっしゃいますねえ、歯が痛くて口を開けることができないのでしょうか。さて、ここからは方向を北へと変えて住宅街の中の細い道を進んで行く、そこは西三坊大路が通っていたとされる所、一番下の写真にある、見過ごしてしまいそうな小さなお地蔵様の前を通り過ぎてたどり着いたのは・・・
ズラリと並べた写真は西大寺の風景です、一番上の写真にあるジオラマでは手前側に小さく五重塔が2つ並んで見えている、そこが西大寺に当たります。まあ西大寺と言うと一般的によく知られているのが近鉄大和西大寺駅、もちろんその駅名の由来となっているのはこの寺院、名前から分かるように平城京の東にある東大寺に対して西の西大寺と言うことになります。まるで空気を読まないような季節感が漂う写真が並んでいますが、ここを訪れたのは真夏の暑い頃、この時期は毎年西大寺から西ノ京エリアでロータスロードが開催されているのですが、喜光寺、唐招提寺、薬師寺は境内に入るのには拝観料を払わなければならない、西大寺もそうだろうと思っていたのでこれまでは敬遠していたのだが、境内は自由に入ることができた。ハスの花の植木鉢がズラリと並べられているのは東塔跡、写真の並びの中央には西塔跡の碑もあるから、それがジオラマにある2つの五重塔に当たるのだろう。都の東の外れの山に広がってある東大寺に比べると町中にあった西大寺はその規模が小さく見えてしまうが、それでも平城京の南都七大寺の一つに数えられている、ただ寺院は平安時代に入って衰退し、更に火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入ったとのことでした。
西大寺からは二条大路に当たる大宮通りを近鉄奈良線を沿うように進んで平城宮跡前、国道24号線の高架橋を通り過ぎるとミ・ナーラと言う大きなショッピングセンターが見えてくる、元はそごう、イトーヨーカドーがあった所、その入口の前にはここが長屋王の邸宅だったというモニュメントが立っている。長屋王と言うと奈良時代の政治の重鎮であった人物だったが、いわゆる当時のクーデターとなった長屋王の変での方で名前が知られています。政治の中枢で権力を持った人は上から下からと標的にされるのでしょう。藤原不比等の4人の子が長屋王家を抹殺し、聖武天皇の許しを得て長屋王邸を包囲したとのこと、ここがその場所だったのでしょうか、結局長屋王は自殺してしまいます。藤原不比等は長屋王とはいわば子弟の関係となり共に政治を動かしていたわけだが、代が変わるとどうしてこんな血生臭いことになってしまうのでしょうか、やはりそこには聖武天皇の意向があったからでしょうが、しかしその後藤原の4人の息子は皆疫病で亡くなってしまったとのこと、長屋王の祟りだとも言われていました。
その4兄弟の一人の子であった藤原仲麻呂がその後聖武天皇の後の天皇のもとで政治の中心へと名乗りを上げていきます。その藤原仲麻呂の邸宅があったのが長屋王邸から少し離れた所、写真4枚目にある住宅地の中の何気ない公園、そこに邸宅があったと言う看板が立っています。その看板には政治の中枢にあった藤原仲麻呂も結局は方向性の違いから孝謙上皇に滅ばされてしまうと書かれている、長屋王の死後、平城京の立て直しを図った人物がまたもいなくなってしまった、もしこの2人が生きていたら平城京も違った道をたどったかも知れない・・・まあ歴史には「かも」は禁句ですからね、だから今があるわけです。歴史を捻じ曲げてはいけない、主人公が父親の犯罪を止めるためにタイムスリップしてしまうドラマがありますが、あんなの以ての外です、樹里チャン第1話で死なせてしまいやがって・・・今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち
今回は平城京をお地蔵様を通して巡って行ってみようと思います。まずは三条大路をJR奈良駅から西へ進んで行った所にある写真1枚目にある出屋敷地蔵尊、そのお堂の横には由緒が書かれた看板が立っているがその文面は昔の文体で書かれていてイマイチ内容が分かりにくい。分かるのはこのお地蔵様が安産を祈願された子安地蔵だと言うことと、文面には後醍醐天皇と言う文字が見えるので南北朝時代・・・この時代ってイマイチよく分からない時代なんですよね、まあ歴史を大河ドラマで知るようになってしまってからはこの時代のことはほとんど取り上げられていないですから・・・からあったと言うことくらいです。ここは明石家さんま氏の実家がすぐ近くにあった所、そこから更に西へと近鉄尼ヶ辻駅を通り越して進んで行くと次に出会ったのが歯痛地蔵尊と彫られた碑がある地蔵堂。そこにはその由緒が書かれた看板などは立っていない、お堂の中のお地蔵様を除いてみると、あれれ、お口を閉じてらっしゃいますねえ、歯が痛くて口を開けることができないのでしょうか。さて、ここからは方向を北へと変えて住宅街の中の細い道を進んで行く、そこは西三坊大路が通っていたとされる所、一番下の写真にある、見過ごしてしまいそうな小さなお地蔵様の前を通り過ぎてたどり着いたのは・・・
ズラリと並べた写真は西大寺の風景です、一番上の写真にあるジオラマでは手前側に小さく五重塔が2つ並んで見えている、そこが西大寺に当たります。まあ西大寺と言うと一般的によく知られているのが近鉄大和西大寺駅、もちろんその駅名の由来となっているのはこの寺院、名前から分かるように平城京の東にある東大寺に対して西の西大寺と言うことになります。まるで空気を読まないような季節感が漂う写真が並んでいますが、ここを訪れたのは真夏の暑い頃、この時期は毎年西大寺から西ノ京エリアでロータスロードが開催されているのですが、喜光寺、唐招提寺、薬師寺は境内に入るのには拝観料を払わなければならない、西大寺もそうだろうと思っていたのでこれまでは敬遠していたのだが、境内は自由に入ることができた。ハスの花の植木鉢がズラリと並べられているのは東塔跡、写真の並びの中央には西塔跡の碑もあるから、それがジオラマにある2つの五重塔に当たるのだろう。都の東の外れの山に広がってある東大寺に比べると町中にあった西大寺はその規模が小さく見えてしまうが、それでも平城京の南都七大寺の一つに数えられている、ただ寺院は平安時代に入って衰退し、更に火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入ったとのことでした。
西大寺からは二条大路に当たる大宮通りを近鉄奈良線を沿うように進んで平城宮跡前、国道24号線の高架橋を通り過ぎるとミ・ナーラと言う大きなショッピングセンターが見えてくる、元はそごう、イトーヨーカドーがあった所、その入口の前にはここが長屋王の邸宅だったというモニュメントが立っている。長屋王と言うと奈良時代の政治の重鎮であった人物だったが、いわゆる当時のクーデターとなった長屋王の変での方で名前が知られています。政治の中枢で権力を持った人は上から下からと標的にされるのでしょう。藤原不比等の4人の子が長屋王家を抹殺し、聖武天皇の許しを得て長屋王邸を包囲したとのこと、ここがその場所だったのでしょうか、結局長屋王は自殺してしまいます。藤原不比等は長屋王とはいわば子弟の関係となり共に政治を動かしていたわけだが、代が変わるとどうしてこんな血生臭いことになってしまうのでしょうか、やはりそこには聖武天皇の意向があったからでしょうが、しかしその後藤原の4人の息子は皆疫病で亡くなってしまったとのこと、長屋王の祟りだとも言われていました。
その4兄弟の一人の子であった藤原仲麻呂がその後聖武天皇の後の天皇のもとで政治の中心へと名乗りを上げていきます。その藤原仲麻呂の邸宅があったのが長屋王邸から少し離れた所、写真4枚目にある住宅地の中の何気ない公園、そこに邸宅があったと言う看板が立っています。その看板には政治の中枢にあった藤原仲麻呂も結局は方向性の違いから孝謙上皇に滅ばされてしまうと書かれている、長屋王の死後、平城京の立て直しを図った人物がまたもいなくなってしまった、もしこの2人が生きていたら平城京も違った道をたどったかも知れない・・・まあ歴史には「かも」は禁句ですからね、だから今があるわけです。歴史を捻じ曲げてはいけない、主人公が父親の犯罪を止めるためにタイムスリップしてしまうドラマがありますが、あんなの以ての外です、樹里チャン第1話で死なせてしまいやがって・・・今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち