まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.1226 万葉歌碑巡り・真土の山を飛び越えて編

2019-11-19 01:39:01 | 万葉
おはようございます。












今回は万葉歌碑巡り、葛城市から葛城古道、五條を経て一気に和歌山県まで入っていきたいと思います。まずは国道24号線、葛城市に入ってすぐにあるのが柿本交差点、これまでは何気なく見過ごしていた地名も歌碑巡りとなると何か響くものが、と思い検索してみると近鉄新庄駅付近にはいくつか万葉歌碑があるとのこと、早速行ってみることにしましょう。まずは写真2枚目、近鉄新庄駅の真ん前にひとつ、駅前に架かっている橋・・・「ひとまろはし」とあるからやはりこの地は柿本人麻呂に由縁のある地なのか・・・の欄干にも歌が刻まれている。踏切を渡ると駅のすぐ真裏にあるのが柿本神社↓↓↓

「春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ」(柿本人麻呂・巻11-2453)

この歌はさっきの橋の欄干にあったのと同じもの、まあ文脈を見ても分かるとおり、いてもたってもいられずあなたを思っていると言う、内容は単純なものです。ちなみにもうお分かりだと思いますが「妹」と言うのは血縁のある妹のことではないですよ、もしそうなら危ない内容になってしまいかねないもんね・・・。










御所市から葛城古道を進んで行くとたどり着いたのが九品寺、この寺院については前にここで紹介したことがありました。その寺院の駐車場にひとつ歌碑があったのですが、字がちょっとわかりにくくこの歌についてもデータがなかったのでここはスルーしておきます。そのまま古道を道標に沿って進んで行って葛城一言主神社へとたどり着く、石段を上って行くと境内に万葉歌碑が立っている↓↓↓

「葛城の 襲津彦真弓 新木にも 頼めや君が 我が名告りけむ」(作者不詳・11-2639)

内容は「葛城の襲津彦が使う新木の強弓のように、私を妻として頼りにしておいでなので、それで私の名を口に出されたのでしょう」(wikiより)、作者は女性で「私の名を口に出された」と言うのは男性が女性に求婚していると言うことに当たる、「葛城の襲津彦」と言うのは大陸に渡って戦った勇猛な人物、その名を例えに出す辺りはこの女性もかなり自意識が高い人だったのでしょうか・・・。



















五條市を通り過ぎて和歌山県橋本市へと入りました、五條にもいくつか万葉歌碑があったのですがほとんどスルーしてしまうことになりました、今回は1回で橋本まで行く予定なので本当に申し訳ないことです。まずは真土峠を越えて和歌山県に入ってすぐの所にある観光名所が飛び越え石、昔の人はここを流れる川にあるいくつかの石を飛び越えて国境を行き来していたとのこと、この辺りにはいくつかの万葉歌碑を見ることができる。

「橡の 衣解き洗ひ 真土山 本つ人には なほしかずけり」(作者不詳・12-3009)

写真2枚目にある歌碑にある歌には「真土山」と詠われているのですが、その前の「橡の衣解き洗ひ」とどう言った関係があるのかはよく分かりません。下の句に当たる部分は「うちの奥さんにはかなわないねえ~」と上の句の行為を自慢でもしているかのよう、真土山は何か語呂がいいからとりあえず入れてみたと言った感じですかねえ、サザンオールスターズの曲によく湘南のの地名が出てくるのと同じ感じ・・・って言ったら怒られるかも。

「あさもよし 紀伊人羨しも 真土山 行き来と見らむ 紀伊人羨しも」(調首淡海・1-55)

文武天皇(42代)が祖母の持統天皇(41代)と紀伊の国に行幸に訪れた時に、それに従った調首淡海が詠った歌とのこと。真土山を越えて紀伊の国に入った時の感想を、羨ましいと言う言葉を使って正直な気持ちを詠ったものだと思われます、こう言われると和歌山の人も悪い気はしないもんでしょう。奈良の者としては和歌山を羨ましいと思うことはあまりありませんが、高校野球の強さだけは羨ましいですねえ、智辯和歌山の強さは同じユニホームの奈良にあるチームと比べるとそりゃあ羨ましいもんですわ。でも智辯和歌山、来年のセンバツはどうですかねえ~、微妙なところですかね~、天理が神宮で負けたから余計に微妙な立ち位置になってしまいました、まあ来年の選考会を楽しみに待ちましょう。

「白栲に にほふ真土の 山川に 我が馬なづむ 家恋ふらしも」(作者不詳・7-1192)

もうひとつだけ、一番下の写真にあるJR、南海橋本駅前にある万葉歌碑の歌です、ちなみに歌碑の右側にチラリと写っているのはある漫画のキャラクターですがお分かりでしょうか。ここにも真土と言う地名が出てきますが、山川に「我が馬なづむ」とあるのは馬が川を越えるのを行き悩んでいると言うこと、写真にある飛び越えの石を馬が怖がっていると言うことでしょう。それを自分の家族が旅をしている自分のことを案じていると、まるで自分の都合のいいように詠っている感じです、馬の気持ちも知らないで~とでも言ったところでしょうか。さて、ちょっと駆足で橋本までやって来たのですが、真土峠付近にはまだまだ取りこぼした歌碑もありました、相棒君と行くにはちょっと厳しいところです、まあ機会があればまた再訪して「紀伊人羨しも」な気分になってみようとしましょうか・・・、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち


No.1225 奈良の古墳巡り(4)・・・まだまだ奈良市北部編

2019-11-17 18:38:16 | 文化財
おはようございます。
















奈良の古墳巡りシリーズ、今回は一番最初にお送りした佐紀盾列古墳群の続編と言う感じで奈良市の北部にある古墳についてお送りしていきましょう。
まずは写真1枚目~5枚目にある石のカラト古墳、イオンモール高の原から西へ上り坂を進んだ所にある神功1丁目緑地内にあるのですが、その場所がちょうど京都府と奈良県の境界線が通っている上になってしまっている。奈良県民としては古墳は奈良にあってほしいと思うところなのですが、地図をよ~く見てみると緑地は半分以上が京都府だが古墳の印は奈良県側についている、しかし木津川市のページでもこの古墳を紹介しているのだから所在地ははっきりさせていない感じです。
近鉄高の原駅からはバス停巡りをしながらならやま大通りを経て奈良市内の北部を通る県道44号線へ、その交差点を入ってすぐにあるのが奈保山御陵バス停、御陵と言うからには古墳があるわけだがこの辺りは丘陵地でどれが山でどれが古墳か分からない。地図サイトで確認するとバス停を挟むようにして元明天皇陵と元正天皇陵が向かい合うようにある、ぽっかりとした丘が緑色の風景の中にあまりの馴染みようで溶け込んでいる。元明天皇も元正天皇も共に女性天皇、元明天皇は元正天皇の母親に当たると言うことで、親子で並んでこの地に眠っていることになっている。現在は時代が令和になってこの後の皇位継承で女性天皇、女系天皇についていろいろと議論されているが、過去には多くの女性天皇がいたわけだから今更それを気にすることもないと思うのですが・・・女性じゃダメなんですかねえ、まあは絶対ダメと言いそうな感じだから、政権が変わればまた考えも変わるかも知れないけど、まあ政権が変わることはあり得ないか・・・。












近鉄奈良駅の東側にあるのがきたまち、このエリアはこの前お地蔵様巡りで訪れましたが、この町並の一番北の方には山と見間違えてしまいそうなほどの大きな古墳がそびえている。写真1枚目にあるのがその古墳だがここには2つの古墳が並んでいて、南側から見て右手側が光明皇后陵、左手側が聖武天皇陵となっている。写真2枚目にあるのはきたまちを東西に貫く一条南大路にある道標、さっき訪れた奈保山御陵の2つの古墳名が刻まれている。この道標が立つ道を北へと進んで行くと緩やかな上り坂となって聖武天皇陵の横へとたどり着く、その上り詰めた所には「眉間寺」と刻まれた碑が立っている、聞いたことがない寺院名だが江戸時代まであった聖武天皇の創建による東大寺の末寺と言うことらしいです。
















このゾーンでは前にお伝えした佐紀盾列古墳群の残りの古墳を巡って行くこととしましょう。平城宮跡の北側、歌姫街道に近い所の民家の中にポカリとあるのが平城天皇陵、「平城」とは名前は奈良にちなんでいるが天皇名としてはあまり馴染みがない、調べてみると平安時代で桓武天皇の子、次代の天皇に当たっている。平安時代なのになぜ「平城」?wikiによると親に背くかのように平城京への遷都を計画したが兄弟に阻まれて断念、そのまま平城京に滞在したとある。もし天皇が頑張って奈良に再遷都していたら奈良ももっと栄えていたのかも知れない、ってその前に歴史そのものが変わってしまっているか、もう1000年以上も前の話ですからね。その後は歌姫付近をいろいろと巡って回る、歌姫峠付近は結構まっ平らで緑の田園風景が広がる所、グーグルマップで古墳の場所を検索しながらあちらこちらへと進んで行く。近鉄京都線の近くで山を下って行くと民家の真ん中に見えるモワーッとした森が瓢箪山古墳、特に誰の墳墓とは指定されていないが古墳は史跡とされて柵が張られている、形が前方後円墳だから瓢箪山なんでしょうかねえ・・・。さて、この地域には巡り切れていない陪塚がまだまだあるようです、また機会を見つけて行ってみようと思っています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち



No.1224 気ままに御所市の町並巡り

2019-11-13 11:30:26 | まち
おはようございます。












今回は御所市の町並をお地蔵様、古墳などに限らず・・・と言うか限ったテーマに関してはまた別枠でのお送りとして、気ままに巡って行こうと思います。巡ったのは9月に入っても真夏のような暑い日、今年の週末は結構天気に悩まされることが多かったのですがこの日は写真を見ても分かるように快晴、ここぞと言う感じで走って来ました。
奈良から高野山へと至る最短ルートとなるのが通称下街道、大和高田市から葛城市へと入りJR和歌山線沿いを進んで行くと橋の袂に忍海村の道路元標を見かける。これまでこの道は何度も通っているのだがここに元標があるのを初めて知った、それもグーグルマップに印が付いていたからでサイトを見なければまたスルーしているところだった。道路元標は町の中心地にあるので町並巡りのいい参考になるのだがまだまだ探しきれない所も多いはず、グーグルマップで印が付いているところはもうほとんど回っているので、またいろいろと巡りながら探してみることとしよう。その場所から更に南へと進んで行くと御所市の中心部、JR御所駅は市の玄関口となっている駅だがその周辺は古い町並が碁盤の目状に繰り広げられていて、狭い道を右へ左へと縫うように進んで行きながらその町並を通り抜けて行く。走りの目的は古墳、都、お地蔵様といろいろあるのだが、テーマにこだわらず何気なく町並を巡るだけでも1枠費やせそう、ここは気ままに気になった風景を四角い枠に収めていくこととしよう。














御所市の中心部を抜けて東へと進んで行くと旧街道の雰囲気が漂う町並を抜けて吉祥草寺へとたどり着く、山門をくぐって境内へ・・・ん?何か張り紙が、何だと・・・近くにある高校の生徒さんが境内で喫煙をしていただと、あ、あそこか、あかんなア~、高校ラグビーでは花園で準優勝3回の名門校、しょ~もないことで名を汚さないでほしいところであります。さて、寺院は広々としていて静かな雰囲気、むやみに観光客を呼び込もうともせず町並に溶け込むように穏やかに佇んでいる。その後はJR玉手駅前を通り過ぎて「條」と言う変わった地名の町並へ、この辺りには古墳群がありここもグーグルマップを頼りにしてお目当ての古墳を巡る。この辺りは国道309号線と京奈和道が交差していて交通の要所となっているところ、決して広くない国道だが車の行き来が多く田園風景も排気ガスに煙っているような感じ、その国道から離れた所には雰囲気が一変したかのように静かな町並が佇んでいて気持ちを落ち着かせてくれる。再び国道へと戻ってきて吉野口への分岐点となる交差点の場所にあるコンビニで昼食休憩、京奈和道の向こうには二上山、正面から見る凛々しさに比べるとこちらから見る姿はだらーんとした感じでちょっとだらしなさそう、されどこれもまた乙哉・・・
















JR和歌山線に沿うように進んで掖上駅へ、最近はどこもかしこも橋上駅化されてしまっているがこの辺りの和歌山線の駅どこも手がかけられていない、ここも昔ながらの駅舎が残っている、ずっと残していってほしいところです。さて、ここから高取、明日香方面へと向かいたい、と言うことで駅構内にある地図で道筋を確認してみる、JR線沿いには道があって吉野口駅に着くまでの所で線路を離れると近鉄吉野線の市尾駅付近へと行くことができる、とりあえずその道筋を頭に叩き込んで走り始める。しばらく進んで行くと奈良テレビのCM「さんこうまるでござる」↓↓↓



でお馴染みの三光丸の会社の前を通り過ぎる。今まで走ったことのない道には趣のある旧街道風の町並が続いていていい雰囲気、このままだと調子に乗って近鉄葛駅付近まで行ってしまいそうなので途中で折れて線路の向こう側へと至る。すぐに川があり石橋を渡って田園風景の中を進んで行くと目的の近鉄市尾駅付近へとたどり着くことができた、さて、ここからは進路を東へと変えて近鉄吉野線沿いを進んで高取町方面へと向かうわけですが、今回は御所市の町並巡りと言うことでこの辺りでお開きとしておきましょう、本来の目的である都巡り、古墳巡りについてはまた別枠を設けてのお伝えとさせてください、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。             まちみち



No.1223 お地蔵様で町巡り・大津市内編(後編)

2019-11-12 08:08:15 | まち
おはようございます。














この間の3連休は滋賀方面を走って来ました、と言うことでその記録についてのお話と行きたいところなのですが、夏に走った時の話がまだ終わってないので先にそちらの方をお伝えしていきたいと思います。今年はその夏に走ったまでに2回、正月とGWに大津まで走ってその後京都へと折り返しているのですが、この時の走りも大津市内をチョイとかじっただけで京都へと折り返しました、まあ相変わらず交通費をケチっているからなんですが・・・。この時の旅のメインはお地蔵様巡り、山科から追分へと上り国道1号線へと入り、逢坂関から大津市内へと下ってきた大津編前編はこの前お送りしました、今回はその後編となります。1号線を左へと逸れて三井寺方面界隈を少し回ってから浜大津へと至る、大津の中心地には古い町並が広い範囲で展開していて趣深い建物も多い、写真1枚目の料亭、下2枚の写真にある医院は登録有形文化財巡りで取り上げたことがありました。ありゃりゃ、写真が白飛びしてしまってますねえ、この時はカメラが調子悪い頃の真っ最中、それでも何とかなると思って使っていたのですが、結局新しく買い替える羽目になってしまいました。















国道1号線の京阪電車が道路上を走る所から旧東海道へと入るとすぐの所にも登録有形文化財の建物がいくつか見ることができる、まあそれについても前に巡り済みなので今回はスルーして先へと進んで行くと、沿道ではいくつかの地蔵堂を見かけることができる。往時から多くの旅人が山の向こうに控える京に、もしくははるか遠くの旅路の向こうにある江戸に向かって行き来した道にあるお地蔵様、その時代からあったかどうかは分からないがもしあったとしたら旅人の安全を見守ってくれていたことだろう、旅人もそれに感謝の意を示していたのだろう。旧街道の雰囲気が漂う町並を走り抜けて京阪石山坂本線の踏切を渡るとすぐに義仲寺へとたどり着く、寺院名から分かるようにここは・・・「平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(1154-84)をここに葬ったことに由来しています」・・・と言うことです。この時は中へは入らず山門横の地蔵堂をチョイとのぞいただけ、中に入るには拝観料がいるみたいなので、いや、チョイと立ち入って境内を写すくらいだったら大丈夫かな、また近いうちに行ってみることにしようか。















旧東海道は湖岸道路の渋滞を嫌ってたくさんの車が入ってきて、しかもJR膳所駅付近は人通りも多く案外走りにくい、湖岸道路沿いにはたくさんの商業施設が集まっているからそれも仕方ないところか。旧街道の雰囲気もこの辺りはちょっとお預け、しかしここを抜けると道は鍵型に右折左折や緩やかなカーブを繰り返してこれぞ旧街道と言った感じで進んで行く。京阪膳所本町駅付近はいい雰囲気の町並、この辺りでは由緒ある寺院やお地蔵様を多く見かけることができた、おやおや、ここにもお顔を化粧されたお地蔵様がいらっしゃいます、こんな事して罰が当たらないんでしょうかね~、って人の心配するよりもお地蔵様の了承も得ずに無礼に写真を撮っている自分(一人称)に罰が当たりそう。そう言えばお地蔵様巡りを始めてからなんですよね、写真が白飛びするようになったのは・・・と言うことはやっぱり罰が当たったのか?いやいや、自分(一人称)はそんな非科学的なことは信じない質なので。さて、走りの方はそろそろ京都へと戻らなければと言うことでこの辺りで折り返し、大津市内の町巡り、お地蔵様巡りはまた次の機会への宿題として、また逢坂の関を越えることとしよう、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。            まちみち


No.1222 藤原京廃寺巡り(2)

2019-11-11 10:21:04 | 
おはようございます。








今回は藤原京廃寺巡り、エリアは上の1枚目にある地図の黒枠の部分、ジオラマでは7つの色付きの〇で印をつけましたが、その中には地図の枠の中から外れた寺院もあります、まあその辺りは気にしないで早速行ってみることとしましょう。















まずは小山廃寺、ジオラマでは藤原宮跡のすぐ南にある薄い青色の〇で囲っている所、現地には紀寺跡の看板が立っている。その場所にはまるで廃寺の雰囲気を壊すかのようにたくさんの自転車が止められているが、これはその向かい側にテニスのグラウンドとクラブハウスがあるからで、前にお目当ての万葉歌碑をこのクラブハウスに阻まれて見られなかったことがあった、せっかくの歴史を感じる観光施設も台無しと言ったところです。次に巡ったのは雷丘付近、ジオラマでは黄色い〇印で囲んでいる所、ここは明日香村の入口となる場所で南側には甘樫丘が控えているが、この丘が藤原京の一番南の端となっている。その甘樫丘のすぐそばにあるのがピンク色の〇にある豊浦寺跡、その場所は今は向原寺となっている。この寺院の北側を通る道の向こう側には写真下3枚にある古宮遺跡、案内の看板にはカッコで小墾田宮と記されている、ここを都としたのが聖徳太子の叔母さんである推古天皇なのですが・・・さて、この辺りの話は都巡りを考えているのでまた別の機会でのお送りとしておきましょう。













豊浦寺から西へ少しだけ行った所にあるのが和田廃寺、ジオラマでは紫色の〇で示したがはっきりとその場所は分からない、ジオラマで寺院のあった場所へと行ってみるとそこは田んぼが広がる所、写真では水田にポカリと小さな丘があるがこれがその痕跡なのか古墳なのかは分からない。この辺りは近鉄橿原神宮前からは近いが民家が密集した辺りからは離れた田園風景が広がる所、その畑が広がる所を進んで行って小さな集落の中に入ると町中の小さなお寺の前にたどり着く。法満寺と掲げられた寺院の前には看板が立っていて、そこにはこの寺院の前身がジオラマでは赤色の〇にある田中寺であることが記されている。更にその看板の説明にもある通り、この寺院があった辺りが都であったことも記されているが、これについては先程と同じ、また別の機会でのお送りとしておきましょう。











近鉄橿原神宮前駅から東へ、明日香村へと至るのは県道124号線、地元の人の生活に密着している道路だが明日香村への最短ルートにもなるのでバスや車の通りも多い。その道の沿いに池がありその向こう側には古墳も見えている、この池の付近にあったのがウラン坊廃寺、ジオラマで寺院がある場所も現在では寺院跡の痕跡はなくはっきり特定はできない、目印になるのは池だけと言う感じ。この近くには舒明天皇の都があったから・・・先の田中宮、橿原神宮駅の東側にあったとされる厩坂宮のことだがどちらも飛鳥にあった都が消失したことによる仮の宮だったらしい・・・それに該当していたのかも知れないが、やっぱりよく分からない、名前もよく分からないですもんね、「ウラン」って、当時はどんな字を当てていたんでしょうか?ジオラマではそのウラン坊廃寺から南へ進んだ所、もう藤原京からは範囲が外れた所に緑色の〇で囲んだ軽寺と言う寺院がある。その場所に行ってみると、あ、この辺りは前に万葉歌碑巡りでも来た所だったなあ、その時訪れたのは神社だったがその神社を取り巻くようにあるのが上の写真にある法輪寺。寺院の前には看板があってそこにはこの寺院が軽寺跡だったと記されている、そしてこの寺院もまた都巡りの一環としてお送りすることになると思います。飛鳥、藤原の天皇や都がコロコロと変わっていた時代、今回は都巡りとダブってしまった所が多くちょっとややこしくて仕方ないところでしたが、また勉強し直して何とか形にしてここでお送りしたいと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち