湖のほとりから。

花と空と心模様を写真と詩と文に託して。

義母の訃報

2021-04-05 23:07:00 | コラム
自分の息子に手を握ってもらい
息子が声をかける

義母は、ぱぁーと目を見開いた

酸素マスクの中の唇が
聞き取れない音量で動いていく

何か分からずとも
テレパシーのように
互いが『うんうん』と頷く

突然、繋いだ息子の手を
振り解き
義母の髪を撫でている私の手を掴もうとする

食べられなくなってからの点滴で
指は膨らんで
プルプルと皮がぶら下がったまま
節々でかろうじて指を形成し
半透明かと思うほど透けていた


空をきる手をしっかりと掴んで
私の手のひらに包んでやると
義母は自分の胸元に引き寄せた。

 
まだ、これほどのチカラが残っているのかと思うほどの私の手を握りしめてきた。


また、酸素マスクの下の唇が動く


聞き取れないけれど
『キツかねー、しんどかねー
大丈夫よー、わかっとるよー
お義母さんのことは大事に思っとるよー、分かっとるー?』
と言うと
さらに、私の手を握りしめて
もう、涙も出てこないような目尻に
一粒の涙を滲ませながら
うんうんと、義母は何度も頷いた。


まだ、元気なこつあるね〜
もう少し大丈夫やね〜


そうして、
3/27日から3/29日までの日程を終えて
佐賀から帰宅した私達夫婦


帰宅した次の日の朝、
病院から危篤の電話があり


また荷物を作り直し
すぐに移動できるように
フライト予約、レンタカー、ホテル予約をしている最中に
旅立ってしまった義母


私はお昼にと
冷凍上海焼きそばを慌ててチンして
スマホ片手に予約に奔走していた時だった。

はぁ、、、。


私達が最後に会えた

それだけでも、感謝せねば。

病院側の感染者委員会にかけてもらい
許可が下りての面会だった。

『いつ危篤になってもおかしくない状況ではいます』

主治医の先生から最初に聞かされたことより、刻一刻と変わっていく容態だった。

病院から親族が帰宅した途端
訃報が伝えられるのは
世間的にみて
よくある、『あるある』なこと

あと1日居れば良かったと
後から思うけれど
危篤状況ではない時点で
決断をするのは、とてもとても難しい。 


結局、私達夫婦は、
3/27から3/29に佐賀に滞在してから、一旦帰宅し
訃報を受けて
再び次の日の3/30から、お通夜、葬儀、その他の手続きを経て4/5まで。


ソーシャルディスタンスに消毒とマスク

現在の三種の神器とも言える感染防止措置はあれど
ほとんど通常通りの葬儀、宴会に近い親族との食事を終えてからは、疲れとの戦い。


その中での今朝、早朝4時
義母が夢に現れた

にこやかな顔
呼び止めても、遠ざかる姿

ハッと気づくと、今日は初七日の日にあたる。
1時間ほどの嗚咽


法要は終わっているけれど
閻魔大王さまから、裁定されて
流れの緩い三途の川を渡ることを許されたかな。
どうだろう。


2年前に撮った私の写真の義母の遺影
義父のいる、御仏壇に添えた


そうして
9日間、茨城と福岡空港を経て佐賀の
2往復が終わった。


飛行機は、やっぱり苦手だけれど
大仕事が終わった疲労感と安堵感


2週間は自粛生活としょう


帰ってきたら、
春の日から冬に逆戻りしていた(笑)