湖のほとりから。

花と空と心模様を写真と詩と文に託して。

私の和歌山、友人たちの和歌山

2021-04-26 09:25:00 | 旅行
もう、20年以上の付き合いになるのかな。

大人になってから親友と呼べる心地よい、小気味良い友人がいる。

彼女とは、
ある一定の距離を保ちながら
互いに干渉せず、
かといって誰にも打ち明けられないことも理解しながら
2人で違う方向を見ながらでも
横に居て、思いあいながら
ただ一緒に風を見ているだけでも良いような、、、そんな楽な間柄


確かに、
幼稚園からとか
小学校から一緒だとか
幼馴染などと言う間柄の友人も
とても憧れたけれど、
私にとっては望むことはできない生活で。
幾度も生活が変わり続けていく上で
大人になってからの友人と言う人が数人いる。


彼女はその中の1人。


変わった趣味や
私には無いところが沢山あって
比べることもしないし
互いにリスペクトしているためか
相手を尊重しながら
言いたいことが言えて
言葉はおかしいけれど
彼女本人を個体として
受け入れられている。


違う人格を認めながら
基本の核心的な心根の部分が似ているせいかもしれない。

(大人になって親友となった人、全てに共通なのだと思う)


その彼女が
少し前に
私の生まれ故郷である和歌山市に行ってきたと数枚の写真をよこしてきた。






まさに
私が生まれ育った街の風景

私が生活していた窓から見ていた風景をそのまま切り取ったような

懐かしさにLINEを打つ手が止まらない(笑)

あそこは青春の場所だった。

あれは、よく通っていた道だった。

それは、まさしく私が見た風景だった。


良きも悪くも
大切な時間を過ごした街であり
若い頃の自分と両親がいた時間に
ビューンと戻って、濃ゆい時間を思い出させてくれる写真の数々。


彼女自身は
私の生まれ故郷だからと言う目的ではなく、自分の趣味のために訪れた街の一つの場所だった。


しかし、私の長々としたLINEに呟く文章を彼女が読むうちに
私を通して、その街を彼女が見る形となり、
大層、その街が気に入った様子を知らせてきてくれた。


虎が伏した形に似ているからと
和歌山城は、別名を『虎伏城』と呼ぶ

城下町の佇まいはもうないが
市内の一角に
そびえたつお城は街のシンボル






生活をしている人間には
いつもの何気ない風景だが、

一度、その地を離れた者にとっては懐かしい場所となる。


私が今の地に移り住んで
あそこが良い、ここが綺麗だと言って
わーわー彼女に言っても
彼女が普段見慣れた場所だからか、
平然と

『そう?生まれた時から見てるから』

感動もなんにもないと言っていたけれど
私があまりに言うものだから
あらためて、自分の街を見て
『そうなのか』と思い直したふうで
今は、その風景をしっかりカメラに収めるようになった。


そんなものなのよね


自分の育った原風景は
普段の生活に埋もれていて
離れたり
誰かから聞いて
なるほどと思わない限り
大切なものだと忘れてしまっている。

誰にでも
大事な風景があって
そこに思い出が宿っている


ふと思い出したとき
自分の歩んできた道を振り返ってみて
苦かったり
酸っぱかったりしても
懐かしさに包まれて
全てが嬉しくなっていく、、、、。


月日と言うものは
不思議なチカラがあるものだ。


語ることによって
誰かの風景とリンクして
自分だけの場所ではなくなっていく。


大切な人が居た場所が
自分にとって特別な場所に変わる瞬間


私が彼女から受け取って
思いを言葉で返して
それが彼女の心に沁みて


その場所は彼女にとって
単なる旅行先ではなくなる。


その場所は私にとって
単なる生まれ故郷だけではなくて
私を知る友人が
私の思い出も一緒に旅してくれた場所となる。


実は
もう一人
京都の友人が和歌山を訪れていて
私の家族の思い出とリンクする場所に立っていることを知らせてくれた。






彼女も
彼女自身のために訪れた和歌山の地だけれど、
私とリンクしたことで
彼女の思い出にも私が乗っかってしまった。


立て続けに
和歌山の地を旅した友人が2人


彼女達に
とても素敵な体験をさせてもらった私は幸せ者だ!


その友人たちに
私が様々なことを
思い巡らされていくことに
きっと意味があるのだろうと。


兄のことも
両親のことも
その時の私自身のことも
泣きながら
思い出しながら
色々なことがあっても
現に存在してる自分の身を
有り難く、愛おしく、、、。


そして、
そんな友人達がいることを
あらためて有難いと思う。
私からも大切にしていきたい。




最近で一番嬉しい出来事。

感謝です。