露天大仏の西側、第21~53窟(及び編号の無い窟)を西部窟群という。
雲岡石窟の晩期、洛陽遷都の北魏太和18(494)年以降に造られた。
▼西部窟群の一部(露天大仏の西隣)は工事中
中小の石窟と小さな仏龕(ぶつがん)が大部分を占める。
仏龕というのは、壁面に掘った仏や経典を安置する小部屋。
▼仏龕と仏
▼仏龕と仏その②…頭部が無くなってしまったお気の毒な仏
太和18(494)年に北魏王朝が洛陽に遷都して、皇家が雲岡での
石窟造営を止めた後、ということは…
裕福といえど、庶民による造営なので小ぶりの仏龕が主流なのか。
▼この仏(?)は仕女図のように女性的…施主一族の女性かな?
雲岡晩期は仏教芸術が中国化していく時期で、
仏像の多くは細っそりとして、龍門石窟の様式に近いと
中国名勝辞典にある。
この辺はまさしく龍門の北魏時代の仏像を彷彿とさせる。