まつりの経過
まつりは13日の午後ウンサク(神酒)の米を浸す時から始まる。その時から堆廏肥のあつかい、針仕事などは忌まれている。
5月、6月のウマチーは互いにまつりの方法は似ている。ただ異なるのは、5月には神に供えるシロマシが出る点である。これはノロ地から採集した稲穂(未熟米)をつついた汁である。この田のことをシロマシ田とも呼んだそうである。5月のウマチーには、各家庭とも稲穂2本、粟穂1本の計3本トゥヌへ出し、後で持ち帰って台所の火の神に供えた。5月ウマチーは稲穂の豊饒祈願であり、物忌みの要素がより濃い。まつりの時、チヂン(小太鼓)もこの時は飾るだけて叩かない。6月はにぎやかに叩き、そのへんが大きな相違点になっている。
ウンサクをつくるため浸した米は、翌14日石臼でひき、一晩おいて15日に手を加えて仕上げた。現在は13日にご飯を炊き、容器に入れて密閉し、15日に製粉機にかけてつくる。
14日の晩は各家庭でウユミ(祖先をまつる)がある。クデは各自の元家へ豆腐もしくはソーメン等を持参し、その家族と夕飯を共にする。
これより先、午後まだ明るいうちにクデたちは各自の元家で火の神、神御棚の香炉を拝み、ヌンドンチの後のニシムイヘ行き、まつりに頭に披るカーブヤー(三昧線づるでつくる)を取る。さらにススキとアザカ(琉球青木)の葉など三種の草木を取る。その時お嶽の入口でうたうウムイ。
たきがくまむとに (お嶽のふもとに)
くばの木や植えとて (ビロウの木を植えて)
しみじみの御めえに (隅々の神様に)
みおうじ取てええしら (御扇を作ってさし上げましよう)
たきがくまむとに (御嶽のふもとに)
松の木や植えとて (松の木を植えて)
しみじみの御前に (隅々の神様に)
あかし取てええしら (灯をつくってあげましよう)
儀式がすんで帰ると2度と入れない。
15日の午後、神人は元家へ行き、各自の衣裳を受け取り、ヌンドンチで待機する。ヌンドンチの屋敷外にユナガーという古泉があり、ここで神人は手足をそそぎ、林の中をヌンドンチヘ行った。ウッチヌアンシー、サンナーアーシーは白衣裳は着ず、紺地の着物でカーブヤーも被らない。ニッチュも紺地である。ヌンドンチは一番座の正面にノロ仏壇かあり、その東側に神御棚がある。神人たちはこの座敷で神衣裳に着がえる。
下のトゥヌ(知花トゥヌ)には神サギ屋が出来ている。三方の壁と屋根をマーニ(黒つぐ)で葺かれている。この小屋の前で神人たちがアザカ等三種の草木の葉を2枚表合わせに7組ずつまとめ、葉のもとをそろえて結ぶ(名称不詳)。神サギ屋の前やや斜めにニッチュを頭にウムイシンカが坐る。知花、登川、池原、松本の順序である。末席の二人(松本と池原からの2人)はチヂン打ちである。
儀式のはじめは、知花の区長が酒と花米を神人にささげることから始まる。本来ノロがいて取納すべきものだが、ノロ不参加のためウ。チヌアンシーが代行する。ノロのカーブヤーを置き、先程の3種の草木の葉を束ねたものをその前に置いている。知花区長に続き、松本の区長が同様のことをする。その後さらに知花、松本の順でウンサク(神酒)を神人にあげる。ノロ代行のウッチヌアンシーはノロのカーブヤーに竹の葉で2、3滴したたらせ、おはつをあげる。ウムイシンカにもウンサクが配られる。2人のチヂン打ちがウッチヌアンシー(本来はノロ)の前へ進み、チヂンをささげる。ウッチヌアンシーはそれを受け取り、3回廻し、3回叩いて渡す。
神サギ屋の中で正面向きに坐っていた神人はここで円く坐り、合掌してウムイをうたう。
ヘーヘーイー、ヘーヘーイー
とのうちんちゅらさ (殿の内も美しい)
ましうちんちゅらさ (屋敷内も美しい)
神が道あきり (神の道を開けたまえ)
ヌルが道あきり (ノロの道を開けたまえ)
曲は前日の曲と同じである。5月も6月もこの2回だけである。これがすんでウムイシンカのウムイがはじまる。その開神女は正面へ向いて合掌する。
①イーン イーン イーむーウーキーかー アーンしーヰーン イーン ヰーン。
②イーン イーン イーン はーン アーン アーン アーン。
③アーン アーン アーンじー フィーン イーン イーン イーン イン
ヰーン イーン イーン。
④まーン アーン アーインりーン ヰーン ヒーン イーン
⑤イーン イーン てンイン らイこ ヲーン オーン ヲーン オン オン
(以下略)
これを済ませて、女神職は神衣裳をふだん着に着替える。松本トゥヌヘ上り右にウムイシンカが坐り、左は女神職の座席である。女神職はふだん着のままである。松本からウンサクが出され、ウムイシンカのウムイだけがうたわれる。ここでオクデは各自の元家へ帰り、香炉を拝む。(ノロ)ウッチヌアンシー、ニッチュ、ウムイシンカ全員は登川、池原へ行く。昔は馬に乗ったが、その後は駕籠に乗ったとも言われ、その際の馬や駕籠かきはこれらのから出した。
登川や池原のトゥヌでの儀礼は、酒、ウンサクを三種の草木の葉とノロのカーブヤーに捧げることにはじまるなど、先の知花、松本の行事とほぼ同じなのでここでは省略する。知花以外のにも古い家(門中の大兄)かおり、したがってクデもおり、それぞれのトゥヌヘ出るならわしである。
終りに
まつりの経過は、大方現在行なわれている通りであるが、音は朝神、夕神があり、知花トゥヌを朝行ない、登用、池原を済ませ、夕神に松本トゥヌであったが、いつの頃か改正されたらようてある。神道もヌンドンチの後方から登川へ通じた道があったが、自動車で神行列する現在では誰も通る者はいない。雨天の時は、ヌンドンチで行なう。登川、池原はウンサク等をここへ持参する。
知花のウムイシンカ(男声)による「ウムイ」は特異なものらしく、山内盛彬氏はこれを「南洋楽ではないか」と次のように述べておられる(「知花ウムイに南洋楽」1967年9月沖縄タイムス所載)。
①音階は現にニューギニヤ、高砂族に見られる三声和音音階。
②拍子は東洋民俗にはあまり見られない3拍子。
③ウムイは女性に定まっているが、これは男声である。
④詞は南洋語らしい。(目下解釈研究中)。
これについてさらにある人は中国系の歌だろうといい、ある人は「イーン」は稲、「アーン」は粟、「マーン」は黍だろうと想像をたくましくする。謡う者も傍で聞く者も意味のわからぬままである。
ところが、世礼国男氏によると、これは<おもろさうし巻二に-二二>「知念久高行幸之御時おもろ-首里御城打立之御時」のおもろであるという(「久米島おもろに就いて」、『南島』第二輯昭和17年)。
前記歌詞カタカナ中ひら仮名の部分だけを読むと「むかしはじまり(や)てら(だ)こ……」となる。つまり、
むかし、はちまりや、てたこ、大ぬしや きよらや、てり、よわれ せのみ、
はちまりや(巻二十二-22)
ということになる。したがってこれは南洋語でも中国語でもなかったわけである。以上のことを付記して稿を閉じる。 (1969年)
【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年
まつりは13日の午後ウンサク(神酒)の米を浸す時から始まる。その時から堆廏肥のあつかい、針仕事などは忌まれている。
5月、6月のウマチーは互いにまつりの方法は似ている。ただ異なるのは、5月には神に供えるシロマシが出る点である。これはノロ地から採集した稲穂(未熟米)をつついた汁である。この田のことをシロマシ田とも呼んだそうである。5月のウマチーには、各家庭とも稲穂2本、粟穂1本の計3本トゥヌへ出し、後で持ち帰って台所の火の神に供えた。5月ウマチーは稲穂の豊饒祈願であり、物忌みの要素がより濃い。まつりの時、チヂン(小太鼓)もこの時は飾るだけて叩かない。6月はにぎやかに叩き、そのへんが大きな相違点になっている。
ウンサクをつくるため浸した米は、翌14日石臼でひき、一晩おいて15日に手を加えて仕上げた。現在は13日にご飯を炊き、容器に入れて密閉し、15日に製粉機にかけてつくる。
14日の晩は各家庭でウユミ(祖先をまつる)がある。クデは各自の元家へ豆腐もしくはソーメン等を持参し、その家族と夕飯を共にする。
これより先、午後まだ明るいうちにクデたちは各自の元家で火の神、神御棚の香炉を拝み、ヌンドンチの後のニシムイヘ行き、まつりに頭に披るカーブヤー(三昧線づるでつくる)を取る。さらにススキとアザカ(琉球青木)の葉など三種の草木を取る。その時お嶽の入口でうたうウムイ。
たきがくまむとに (お嶽のふもとに)
くばの木や植えとて (ビロウの木を植えて)
しみじみの御めえに (隅々の神様に)
みおうじ取てええしら (御扇を作ってさし上げましよう)
たきがくまむとに (御嶽のふもとに)
松の木や植えとて (松の木を植えて)
しみじみの御前に (隅々の神様に)
あかし取てええしら (灯をつくってあげましよう)
儀式がすんで帰ると2度と入れない。
15日の午後、神人は元家へ行き、各自の衣裳を受け取り、ヌンドンチで待機する。ヌンドンチの屋敷外にユナガーという古泉があり、ここで神人は手足をそそぎ、林の中をヌンドンチヘ行った。ウッチヌアンシー、サンナーアーシーは白衣裳は着ず、紺地の着物でカーブヤーも被らない。ニッチュも紺地である。ヌンドンチは一番座の正面にノロ仏壇かあり、その東側に神御棚がある。神人たちはこの座敷で神衣裳に着がえる。
下のトゥヌ(知花トゥヌ)には神サギ屋が出来ている。三方の壁と屋根をマーニ(黒つぐ)で葺かれている。この小屋の前で神人たちがアザカ等三種の草木の葉を2枚表合わせに7組ずつまとめ、葉のもとをそろえて結ぶ(名称不詳)。神サギ屋の前やや斜めにニッチュを頭にウムイシンカが坐る。知花、登川、池原、松本の順序である。末席の二人(松本と池原からの2人)はチヂン打ちである。
儀式のはじめは、知花の区長が酒と花米を神人にささげることから始まる。本来ノロがいて取納すべきものだが、ノロ不参加のためウ。チヌアンシーが代行する。ノロのカーブヤーを置き、先程の3種の草木の葉を束ねたものをその前に置いている。知花区長に続き、松本の区長が同様のことをする。その後さらに知花、松本の順でウンサク(神酒)を神人にあげる。ノロ代行のウッチヌアンシーはノロのカーブヤーに竹の葉で2、3滴したたらせ、おはつをあげる。ウムイシンカにもウンサクが配られる。2人のチヂン打ちがウッチヌアンシー(本来はノロ)の前へ進み、チヂンをささげる。ウッチヌアンシーはそれを受け取り、3回廻し、3回叩いて渡す。
神サギ屋の中で正面向きに坐っていた神人はここで円く坐り、合掌してウムイをうたう。
ヘーヘーイー、ヘーヘーイー
とのうちんちゅらさ (殿の内も美しい)
ましうちんちゅらさ (屋敷内も美しい)
神が道あきり (神の道を開けたまえ)
ヌルが道あきり (ノロの道を開けたまえ)
曲は前日の曲と同じである。5月も6月もこの2回だけである。これがすんでウムイシンカのウムイがはじまる。その開神女は正面へ向いて合掌する。
①イーン イーン イーむーウーキーかー アーンしーヰーン イーン ヰーン。
②イーン イーン イーン はーン アーン アーン アーン。
③アーン アーン アーンじー フィーン イーン イーン イーン イン
ヰーン イーン イーン。
④まーン アーン アーインりーン ヰーン ヒーン イーン
⑤イーン イーン てンイン らイこ ヲーン オーン ヲーン オン オン
(以下略)
これを済ませて、女神職は神衣裳をふだん着に着替える。松本トゥヌヘ上り右にウムイシンカが坐り、左は女神職の座席である。女神職はふだん着のままである。松本からウンサクが出され、ウムイシンカのウムイだけがうたわれる。ここでオクデは各自の元家へ帰り、香炉を拝む。(ノロ)ウッチヌアンシー、ニッチュ、ウムイシンカ全員は登川、池原へ行く。昔は馬に乗ったが、その後は駕籠に乗ったとも言われ、その際の馬や駕籠かきはこれらのから出した。
登川や池原のトゥヌでの儀礼は、酒、ウンサクを三種の草木の葉とノロのカーブヤーに捧げることにはじまるなど、先の知花、松本の行事とほぼ同じなのでここでは省略する。知花以外のにも古い家(門中の大兄)かおり、したがってクデもおり、それぞれのトゥヌヘ出るならわしである。
終りに
まつりの経過は、大方現在行なわれている通りであるが、音は朝神、夕神があり、知花トゥヌを朝行ない、登用、池原を済ませ、夕神に松本トゥヌであったが、いつの頃か改正されたらようてある。神道もヌンドンチの後方から登川へ通じた道があったが、自動車で神行列する現在では誰も通る者はいない。雨天の時は、ヌンドンチで行なう。登川、池原はウンサク等をここへ持参する。
知花のウムイシンカ(男声)による「ウムイ」は特異なものらしく、山内盛彬氏はこれを「南洋楽ではないか」と次のように述べておられる(「知花ウムイに南洋楽」1967年9月沖縄タイムス所載)。
①音階は現にニューギニヤ、高砂族に見られる三声和音音階。
②拍子は東洋民俗にはあまり見られない3拍子。
③ウムイは女性に定まっているが、これは男声である。
④詞は南洋語らしい。(目下解釈研究中)。
これについてさらにある人は中国系の歌だろうといい、ある人は「イーン」は稲、「アーン」は粟、「マーン」は黍だろうと想像をたくましくする。謡う者も傍で聞く者も意味のわからぬままである。
ところが、世礼国男氏によると、これは<おもろさうし巻二に-二二>「知念久高行幸之御時おもろ-首里御城打立之御時」のおもろであるという(「久米島おもろに就いて」、『南島』第二輯昭和17年)。
前記歌詞カタカナ中ひら仮名の部分だけを読むと「むかしはじまり(や)てら(だ)こ……」となる。つまり、
むかし、はちまりや、てたこ、大ぬしや きよらや、てり、よわれ せのみ、
はちまりや(巻二十二-22)
ということになる。したがってこれは南洋語でも中国語でもなかったわけである。以上のことを付記して稿を閉じる。 (1969年)
【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年