美里村史(1952年発行)によると、知花の始祖は、今から約550年前、北山(今帰仁城)が滅びた時、宇久田(奥田)、大工廻(柵柵)、古謝の始祖と一緒に、戦乱を逃れて国頭から福地原(石川市楚南区の西南方)に移動してきた。福地原には泉があるが、知花区民は現在でもここを知花古島と称して毎年旧8月14日にクボー御拝(川願)をしている。福地原は土地の起伏が多い上にやせていて、水にも多少不便であったので後世のハナ(ハナはグーフのハナ、水のハナ、人の鼻のように高くつきでている所の意)であったので、地鼻(知花は当字だろう)と称せられた。
ところが高い所では風当りが強く、水にも不便であったので、風当たりの弱い、水の便利な現在の所に移住すると、水が豊富な東泉が発見されると、全部が現在地に移るようになって人口が増え、前村渠、仲村渠などの聚落を成すに至った。故伊波普猷氏の説によると、村渠(だかれ)というのは村別れという意味で、今日で言う、前近所、中近所、隣組というのと同意味だとされている。
知花は昔、越来按司大城親方の出身地で、その墓所も知花城跡に現存し、また、沖縄の古代文化を代表する知花焼、知花ムンダー(手軽な芭蕉織)の産地でもあり、また、昔の原始的神職である祝女のいた所でもあり、知花に関するおもろも四つ残っていて、旧所、名跡、伝説に富み、歴史的に由緒ある部落である。知花の元家は仲大屋で、毎年旧6月25日には部落民によって盛大なお祭りがある。
【池 原 秀 光】
ニーガンウカー(根神御泉)の伝説
知花村以前にあった「オホンダカリ村」のウブガーと言われている。昔(現在60歳代の人たちの祖父の時代の話)御泉が洪水で埋没し、人々にその名が忘れ去られた頃、知花の若者たかが相次いで死去した。それは「御泉の埋没したことに因るものだ」。とユタによって明かされ、村ではさっそく御泉の発掘にかかったが、その所在がどうしてもつかめず、村人たちは困りはてていた。そんな或る日のこと、奥間ミックワー(盲人)という人が真夜中にある家(仲ヌ前ん当)の門まで来ると「前にも後にも行けなくなった」。と言ってその家に、タバコをつけさせてくれと入って来た。
彼の盲人が言うには「どこ、そこの方向に御泉が見えるがどうしたことか、そのために私は行く道進めないんだ」。と、そのことをきいた村人たちは、その晩のうちに彼の案内、彼の指示する場所を掘ったところ、御泉の縁枠が出現し、村の難問題が、無事解決されたという。開発がすすむ中で、問題のユナガーを含め、その原形が消失し、痕跡をとどめるだけのものや完失が予想されるものなどがあり、さりとて、歴史的には、精神文化的所在としての位置づけはあるもののその一部は自然崩壊にも何ら手を打たないままにしている状態である。 (知花区有志)
【参考文献】美里小学校創立100周年記念誌より