はじめに
知花は、コザ市(現沖縄市)から石川市に通じる道に嘉手納町から具志川市方面への道が交差し、地理的な要衝の地として、また知花焼の古窯跡として、さらにその昔は鬼大城(大城賢雄)の終焉の地として知られている。
この部落で、数年前ノロ継承をめぐって一悶着があったとはいえ、それとはうらはらに神事は衰微する一方である。それは各門中から出るクディングヮ(単にクデ・オクデとちいう)の後継者が出なくなっている事実を見てもうなずけることである。
1965年から4年間、この部落の旧5月、6月のウマチ-(稲穂祭と稲大祭)を見学したが、その開に神人をやめた者、死亡した者、登川のように二人のウムイシンカを出さないばかりか、一行を部落へ招待することさえ取りやめた例などがあった。
ここでは考察ではなく、わずかばかりの見聞をもとにした記録にとどめる。
古い家系
部落には数軒の古い家がある。門中の宗家でムートヤー(元家)と呼ばれるものである。たとえば、屋号オホンダカリ(大村渠。シマチクドンともいう)、シマブク(島袋)、チハナク(津波古)、仲大屋、東ナーカントー、メンナーカなどである。これらの家には、仏壇以外に神御楯があり、そこには二個ないし三個の香炉かおる。
この神御楯は大ムート、中ムートと呼ばれる特定の家にのみあるもので、一つの香炉には二人のクデがいて、これを通して祖神をまつるのである(一つの香炉に一人のクディングワの場合もある)。クデはすべて女性であるが、二人ののち一人は兄弟役のウミキイ神、一方ぱ姉妹役でウミナイ神といい、これを一組の夫婦に見立ててミートゥンダ神と呼ぶ。それは、「33年忌をすませた祖先が、男女のおのおのの二柱の神となり、それぞれを門柱のウナイオクデの二人がまつる」とする説明に合致している。
クデはほとんど何らかの起縁でなった者である。若い頃頭痛持ちだったとか、産後病気がちだったとかで軽重の差はあれ「神ダーリ」があったようである。あるいは夢に知らせがあったりなどで元家の香炉を拝むようになった例は多い。
クデが拝むべき対象は祖先神であろうが、比嘉政夫氏のいう「ほとんどの場合、それは〈アジシー〉と呼ばれる古い墓であり、各(クディングヮ)は自己の対象の墓の位置をわきまえ、通常本家の神棚にある香炉を通して拝むのである。いいかえれば、ある<ハラ>において、その祖先の墓の数に応じて、神棚に香炉がおかれ、その香炉の数は<ハラ>の<クディングヮ>の数を反映していると考えられる」(「村落の祭祀組織と<ハラ>の祭祀組織-沖縄南部における事例から-」)『日本民俗学会報』三十九号)。というのは中部以北は首里那覇、島尻一帯に比べ「門中」の組織が稀薄であるということ。それはまた幕制とも関連があって、知花部落には門中幕なるものがあるにはあるが、実際には[袖幕」的存在であること。したがって各元家の香炉の数は、必ずしもその祖先の幕の数に一致していないだろうし、図示できるものではない。
元家を中心に各門中で行う行事としては、3年越し、7年越しと定期的な島尻の東御廻り、首里上り、今帰仁上りや遠くは辺土名へ拝みに行く家もあれば、石川伊波の旧家を拝みに行く家もある。それに5月、6月のウマチー、8、9月のカーメー(古井泉詣)もまた大きな行事に数えられる。
知花は昔北方の山中、福地原という所に部落があったと言われている。それについて次のような言い伝えがある。大村渠、仲大屋、メンナーカの3家の先祖が知花へ来て炭を焼いていた。雨が降り、ワタンジャーを渡れなかったので、この地に家を建てたのが移動の始まりだと。
現在のノロ殿内の周辺に住んでいたが、松本が南の方へ移動し、その後へ移ったのが現在地であるとの説もある。また、鬼大城の最期を遂げた時の話に、知花城の前には7軒の家があって、その家の芽で鬼大城をいぶした話がある。その七軒というのが大村渠であったといい、屋号大村渠はその頃からの屋敷だとしている。
しかし、「南島風土記」によると、美里間切りが知花等15村を越来間切りから割いてできたのが、寛文六(1966)年であるが、その中に大村渠の名は出てこない。後になって「大村渠、満喜世、渡口古謝、桃原の5村を新設し、その後、大村渠、満喜世、2村を廃して松本を置き」とあるからして、前記の7軒の大村渠云々は、時代に大きなずれがあり疑わしい。
二、三の元家は読谷村長浜あたりに子孫を持ち、ウマチーにはクデがやって来た。池原、登川、松本からもクデが出、共通の祖先を拝むのである。大村渠は元家の中でも一番古いとむいわれ、知花、池原、登川、松本に300人ばかり、読谷にまたそれくらいの氏子を有しているといわれる。クデは直接大モトから出ることもあれば、中モトを介してやって来ることもある。読谷や池原に知花屋と呼ばれる中モトがあるなど、この部落との関係を物語るものであろう。クデの中には、遠く伊計島に嫁いだ者がやって来ることもあった。ふつう朔日、十五日も香炉を拝むべきだとしているが、遠い関係で家の者が代行した。クデが元家の各自の香炉を拝む前に火の神をまず先に拝むべきだとしている点も興味深いことである。
先程、知花の古島、福す原のことを述べたが、カーメーの時いにしえの二つのンブガー(産井)を拝みに行く。もっとも現在は米軍施設内にあるため、ある門中はトゥヌで、ある門中は池原の井戸からそれぞれお通している。仲松弥秀氏の調査によれば、祭のたびにトゥヌで遥拝があった。これによって大昔の村位置を知ることができるという(『神と村』139頁)。
クデについてすま少し述べることにする。後継ぎのクデの出ることを「生れる」といい、その年を基準に誕生祝、三年七年と三三年までの祝いがある。その祝いは元家の神郷棚の前で門中の人々がやる。クデ死亡の時は、葬式を出す前に使いが来てこの家の火の神を拝み、クデの拝んでいた香炉を拝んで魂がのこらないようにまつる。これを「ヌジファ」という。拝む人は酒と花米を持参し、来る時は門から入るが、帰りはこっそり裏口から出ることになっている。そしてよい年を選んでこのクデの年忌祭を門中で行ない、後継者の出るのを待つのである。
クデはまつりの時の神衣裳を各自の元家にあずける。そしてウミナイ神はまつりに参加するという家が大方である。ところが、大村渠では違う。三個の香炉のうち、右側を拝むウミキイ、ウミナイニ人は家に残り、あとの四人はまつりに出ることになっている。四人のうち二人はウミキイなのである。
家に残る二人のことをウヤガニーと呼び、これは「神拝み」に来る氏子と祖神との仲介をする役目である。
【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年