祭場と神職
「琉球国由来記」を見ると、知花にはカナ森、森山嶽、カナヒヤンノ嶽の3つの御嶽があるが、仲松氏によれば、「森山」は単なる森ではなく、久高島のムーヤマと同様「喪山」、つまり古墳地帯を意味するらしく、知花グシクの西北方にある。ヌンドンチの後方の森の御嶽は、ふつう「ニシムイ」または、「ノロウタキ」といわれるが、由来記でいう「カナ森」にあたるか「カナヒヤンノ嶽」のいずれに当たるか詳かでない。
「おもろそうし巻二」中城越来のおもろに次のような「おもろ」がある。
ちばな、かなくすく (知花金城)
ちばな、いしくすく (知花石城)
ももしま、まじうんいしくすく (百々島共に石城)
又けおのゆかるひに (今日のよき日に)
けおのきやかるひに (今日の輝く日に)
ちばな、こしたけに (知花こし岳に)
あんは、かみ、てずら (我は、神をまつらん)
かみや、あんまぶれ (神は我を守りたまえ)
又ちばな、にしたけに (知花北岳に)
これからすると、「かなくすく、いしくすく」は知花城であり、「こしたけ、にしたけ」はヌンドンチ後方のニシムイてあろうとは想像がつく。由来記で神名を池原の「イ、森」も含めて4ケ所とも「イシの御イベ」で片づけているのがあいまいにした原因である。
この御嶽のほかに知花之殿、石城之殿、登川之殿、池原之殿が由来記に出ている。
「殿」はこのでは「トゥヌ」と発音し、知花グシクの北方ふもと下の方に知花のトゥヌ、上に松本のトゥヌがおる。これは俗に下のトゥヌ、上のトゥヌと呼ばれることもある。由来記の「知花之殿」が「知花地頭云々」が見えるのに対し、「石城之殿」が「大村渠地頭」「大村渠百姓中」とあるのからして、前者は知花トゥヌ、後者は松本ドゥヌであることが容易にうなずける。5、6月のウマチーの時に、この両トゥヌと登川・池原のトゥヌを拝むのである。松本ドゥヌは石の小祠かおるのに対し、知花ドゥヌは何もない。まつりの度にここに「神サギ屋」をにわかにしつらえる。これは「神アシアゲ」を意味する語であろう。
▲知花城下方にある「神アサギ」
美里間切には伊波、東恩納、知花、美里の4ノロがいた。そのうち知花ノロの管轄は知花、登川、池原、松本の4である。その下には各家元から出るクデがいるが、から出るウッチヌアンシー、サンナーアンシー(この方は登川)がおり、男神人としてはチハナクの当主が世襲するニッチュがおり、他に8人のウムイシンカがいる。これは男性だけのウムイを謡う人である。
『美里村史』には任期2年とあるが、現在は必ずしも一定していない。ウッチヌアンシー、サンナーアーシーの任期は4年である。そのほか、まつりの時だけから臨時に村アンシーというのが2人出る。これは接待係で、理由は知らぬが、結婚して間もない女性をえらぶことになっている。
ノロやミッチュ、ウッチヌアンシーが部落行事-たとえば虫あそびや12月24日の煤払い、タキメー(嶽詣で)等に関与するのに対し、クデはもっぱら門中の行事にのみ関与する。5、6のウマチーは的な規模で行なわれる行事であるが、同時に門中行事としての性格も濃厚である。クデの下で働くウメーイーやニーブ取りなども同様のことが云える。
【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年
「琉球国由来記」を見ると、知花にはカナ森、森山嶽、カナヒヤンノ嶽の3つの御嶽があるが、仲松氏によれば、「森山」は単なる森ではなく、久高島のムーヤマと同様「喪山」、つまり古墳地帯を意味するらしく、知花グシクの西北方にある。ヌンドンチの後方の森の御嶽は、ふつう「ニシムイ」または、「ノロウタキ」といわれるが、由来記でいう「カナ森」にあたるか「カナヒヤンノ嶽」のいずれに当たるか詳かでない。
「おもろそうし巻二」中城越来のおもろに次のような「おもろ」がある。
ちばな、かなくすく (知花金城)
ちばな、いしくすく (知花石城)
ももしま、まじうんいしくすく (百々島共に石城)
又けおのゆかるひに (今日のよき日に)
けおのきやかるひに (今日の輝く日に)
ちばな、こしたけに (知花こし岳に)
あんは、かみ、てずら (我は、神をまつらん)
かみや、あんまぶれ (神は我を守りたまえ)
又ちばな、にしたけに (知花北岳に)
これからすると、「かなくすく、いしくすく」は知花城であり、「こしたけ、にしたけ」はヌンドンチ後方のニシムイてあろうとは想像がつく。由来記で神名を池原の「イ、森」も含めて4ケ所とも「イシの御イベ」で片づけているのがあいまいにした原因である。
この御嶽のほかに知花之殿、石城之殿、登川之殿、池原之殿が由来記に出ている。
「殿」はこのでは「トゥヌ」と発音し、知花グシクの北方ふもと下の方に知花のトゥヌ、上に松本のトゥヌがおる。これは俗に下のトゥヌ、上のトゥヌと呼ばれることもある。由来記の「知花之殿」が「知花地頭云々」が見えるのに対し、「石城之殿」が「大村渠地頭」「大村渠百姓中」とあるのからして、前者は知花トゥヌ、後者は松本ドゥヌであることが容易にうなずける。5、6月のウマチーの時に、この両トゥヌと登川・池原のトゥヌを拝むのである。松本ドゥヌは石の小祠かおるのに対し、知花ドゥヌは何もない。まつりの度にここに「神サギ屋」をにわかにしつらえる。これは「神アシアゲ」を意味する語であろう。
▲知花城下方にある「神アサギ」
美里間切には伊波、東恩納、知花、美里の4ノロがいた。そのうち知花ノロの管轄は知花、登川、池原、松本の4である。その下には各家元から出るクデがいるが、から出るウッチヌアンシー、サンナーアンシー(この方は登川)がおり、男神人としてはチハナクの当主が世襲するニッチュがおり、他に8人のウムイシンカがいる。これは男性だけのウムイを謡う人である。
『美里村史』には任期2年とあるが、現在は必ずしも一定していない。ウッチヌアンシー、サンナーアーシーの任期は4年である。そのほか、まつりの時だけから臨時に村アンシーというのが2人出る。これは接待係で、理由は知らぬが、結婚して間もない女性をえらぶことになっている。
ノロやミッチュ、ウッチヌアンシーが部落行事-たとえば虫あそびや12月24日の煤払い、タキメー(嶽詣で)等に関与するのに対し、クデはもっぱら門中の行事にのみ関与する。5、6のウマチーは的な規模で行なわれる行事であるが、同時に門中行事としての性格も濃厚である。クデの下で働くウメーイーやニーブ取りなども同様のことが云える。
【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 -生活・祭り・技術の風景- 1987年