会話の途中で母が急に眉根を寄せて、何かに耳をすませているような表情になりました。
――『ヒデノリ』か、また……。
私はため息をつきました。
ヒデノリというのは、母にしきりと電波を送って寄越すという相手です。
もちろん実在はしないと思いますが、この名前は私の従弟の名前と同じです。
遠くに住んでいるのでめったに会いませんが、小学校低学年の時に会った彼は、
普通に小学校に通う妖精のように美しい少年で、ほのかな恋心を抱いたのを覚えています。
何年か後、中学くらいの時に祖母の家で会った彼は、もう会話が通じず、
焦点の合わない目をして小脇に抱えたクリープの大きなビンに直接スプーンを突っ込み、
ひっきりなしに舐めている小太りの男に変貌していました。
「お医者様が、『精神遅滞』だって……」
夜中に祖母の部屋でひそひそと叔母が話すのを聞いた記憶があります。
その『ヒデノリ』が、なぜ電波を送ってよこすのか分かりません。
母の中ではそれが私の従弟と同一人物だという認識はないようです。
私はあきらめて、後ろに置いてあるダンボール箱に寄りかかりました。
こういうときの母は、何を話しかけても上の空なのです。
ちなみにこの段ボール箱の山には、母がこの部屋で暮らし始めてから届いた新聞紙が、
捨てずにぎっしりと溜め込んであります。
5分ばかり、うつむいてぶつぶつヒデノリと話していた母は、
「……ハクハンをケイヤクすると、子供が変になることがあるって、ヒデノリが言ってるよ」
と言いました。
「へ? ハクハンをケイヤクするって、何?」
母は、自分で言っているのに、『おかしなことを言うでしょ』とでも言いたげにフフッと笑い、
「ハクハンを、ケイヤクすると、子供が変になるから注意しろってさ」
とくり返しました。
(また何か、わけのわからんことを……)
と、思いますが、
「何のこと?」
と辛抱強く聞きました。
「ハクハンてのは、白いご飯のことでしょ。白いご飯ばかり、食べてると、脳に栄養が行かなくなって……」
痰がからむのか、声が急にかすれて、ぐほっ、と苦しげな咳をします。
「おかずもちゃんと食べろってこと?」
補足してやると、母は『そう、そう』と言うようにうなずきながら、けっ、けっ、と何度も咳をしました。
「ママこそ、ちゃんとご飯作ってんの?」
「作ってるよ」
「ゆうべ、何作った」
「ゆうべー、はー、えーとお」
思い出すのに時間がかかります。
「ああ。シャケ」
「シャケ。と?」
「ご飯」
「だけ?」
「ウン」
母はヘヘッとバツが悪そうに笑いました。
どうやら、『ハクハンをケイヤク』しているのは自分のようです。
ちゃんと料理をしていないという罪悪感が、こんな幻聴を聞かせるのでしょうか……。
――『ヒデノリ』か、また……。
私はため息をつきました。
ヒデノリというのは、母にしきりと電波を送って寄越すという相手です。
もちろん実在はしないと思いますが、この名前は私の従弟の名前と同じです。
遠くに住んでいるのでめったに会いませんが、小学校低学年の時に会った彼は、
普通に小学校に通う妖精のように美しい少年で、ほのかな恋心を抱いたのを覚えています。
何年か後、中学くらいの時に祖母の家で会った彼は、もう会話が通じず、
焦点の合わない目をして小脇に抱えたクリープの大きなビンに直接スプーンを突っ込み、
ひっきりなしに舐めている小太りの男に変貌していました。
「お医者様が、『精神遅滞』だって……」
夜中に祖母の部屋でひそひそと叔母が話すのを聞いた記憶があります。
その『ヒデノリ』が、なぜ電波を送ってよこすのか分かりません。
母の中ではそれが私の従弟と同一人物だという認識はないようです。
私はあきらめて、後ろに置いてあるダンボール箱に寄りかかりました。
こういうときの母は、何を話しかけても上の空なのです。
ちなみにこの段ボール箱の山には、母がこの部屋で暮らし始めてから届いた新聞紙が、
捨てずにぎっしりと溜め込んであります。
5分ばかり、うつむいてぶつぶつヒデノリと話していた母は、
「……ハクハンをケイヤクすると、子供が変になることがあるって、ヒデノリが言ってるよ」
と言いました。
「へ? ハクハンをケイヤクするって、何?」
母は、自分で言っているのに、『おかしなことを言うでしょ』とでも言いたげにフフッと笑い、
「ハクハンを、ケイヤクすると、子供が変になるから注意しろってさ」
とくり返しました。
(また何か、わけのわからんことを……)
と、思いますが、
「何のこと?」
と辛抱強く聞きました。
「ハクハンてのは、白いご飯のことでしょ。白いご飯ばかり、食べてると、脳に栄養が行かなくなって……」
痰がからむのか、声が急にかすれて、ぐほっ、と苦しげな咳をします。
「おかずもちゃんと食べろってこと?」
補足してやると、母は『そう、そう』と言うようにうなずきながら、けっ、けっ、と何度も咳をしました。
「ママこそ、ちゃんとご飯作ってんの?」
「作ってるよ」
「ゆうべ、何作った」
「ゆうべー、はー、えーとお」
思い出すのに時間がかかります。
「ああ。シャケ」
「シャケ。と?」
「ご飯」
「だけ?」
「ウン」
母はヘヘッとバツが悪そうに笑いました。
どうやら、『ハクハンをケイヤク』しているのは自分のようです。
ちゃんと料理をしていないという罪悪感が、こんな幻聴を聞かせるのでしょうか……。