1970年代。
広島県東部にある 人口8万の田舎町 三原市。
小学生のちっぷくんは、 家庭科のじゅぎょうで必要になった
さいほうセットを買わなければならなくなりました。
おかあさんがお家にいれば、 おかあさんにたのんで買ってきてもらうのですが、
あいにくおかあさんは、 たんしんふにんちゅうのおとうさんの所へ行っていたのです。
しかたなく、 その日の下校とちゅう、
ふだん、自転車つうがくでとおっている道から離れたばしょにある、
「さいほう小物」というかんばんが出ているざっか店へ行くことにしました。
「すみませーん」
初めて入るお店に、 きんちょうするちっぷくん。
店のおくから出てきたのは、 やさしそうなおばあさんでした。
「あのー さいほうどうぐを買いたいんですけどー」
おばあさんは、 がっこうで使うことを、ちっぷくんから聞くと、
奥のほうから 青いさいほう箱と、 針や糸をえらんで出してきてくれました。
「じゃあ、 ぜんぶで 1,120円ね。」
おばあさんがそう言ったとき、 ちっぷくんは ドキっとしました。
なぜなら ちっぷくんのポケットには、 千円札1枚しか入っていなかったからです。
「あのー、 ぼく1,000円しか持ってないんで、 おかあさんがかえってきたら
お金をもらって もう1回きます。」
すると、 おばあさんは やさしいほほえみをうかべながら、
「ええんよ、ええんよ、 お金はいつでもええけえ、 さいほうセットはもって帰りんさい。」
と、言って さいほうセットをふくろにいれてくれたのです。
ちっぷくんは、もっていた千円札をおばあさんに渡し、 お礼を言ってお家に帰りました。
ありがとう おばあさん
おかあさんが帰ってきたら すぐに120円持ってくるね
毎日、気になっていた 不足分の120円。
しかし、 それはいつしか、
「いつでもええ」って言うとったし、 「いつか、 ついでの時に持って行こう」
という気持ちに変わっていった。
断じて、 「このまま、ごまかしてしまえ」 という気持ちはなかったのだが。
そして、 私は、その後 三原から引っ越してしまい、 返金に行く機会を逃してしまった。
さらに、広島を離れ、 他県に就職した私は いつしか120円のことを忘れてしまっていた。
いや、 正確に言えば、 決して忘れ去ったわけではなかった。
年に数回程度、 ふと思い出しては、 「120円のためだけに三原までは行けない」
と、 その都度 記憶の壺に封印をしていたのだ。
40歳を超えて、 長く勤めた横浜の会社を辞め、広島に舞い戻ってきた時、
改めて 120円のことを強く意識した。
私は、 「小学生だった私」が残してきたモノを 清算することを決め、 あの店へと向かった。
国道2号線から、 脇道に少し入った所に、 あの店は残っていた。
あの時のままの店構えだった。
まるで、 優しいおばあさんと、小学生ちっぷが 店の中で
青い裁縫箱を眺めているのではないかと思われるほど、 何も変わっていなかった。
広島からここまで運転して来る間、 頭の中でずっと計算していたのだが、
あの時のおばあさんが生きているとしても、 もう90歳くらいのご高齢。
まったく話が通じないかもしれない・・・。
「ごめんください。」
あの時と同じように、 店の扉を少しだけ開けて、中に向かって声を掛けた。
奥から出て来たのは、 おばあさんだった。
あの時のおばあさん・・ ?
残念ながら、 そうではなかった。
奥から出て来たおばあさんに あの日からの経緯を話し、 深く詫びた。
そして、 長い年月の利息分と、謝罪を込めた千円札を彼女に渡そうとしたところ、
「こうして来てくれただけで、きっとお義母さんも喜んでくれとるけえ、お金はいらんよ」
聞けば、 あの時のおばあさんは、 目の前にいる女性の義母にあたるそうだ。
そして 2年前に、 老衰のため 安らかに亡くなった と。
2年前・・。
30年近い歳月の流れの中では、 本当に ごく最近の話・・。
それがとても残念だったが、 ようやくこの店にお金を返しに来ることができた。
「それでは、 せめて120円だけでも受け取ってください。
そして、 親戚や近所の子どもの中で 良い事をした子がいたら、
この120円で ご褒美の缶ジュースでも買い与えてもらえませんか。」
こうして、 借金をきれいにできた私は、 30年近く心の片隅に残っていたわだかまりを
なんとか払拭できたような気持ちで 家路に着いた。
しかし、
もう少し早く来ていれば
あの時のおばあさんに直接詫びを入れて、
120円を 手渡すことができたのに・・
その自責の念は、 あれからさらに数年を経た今でも 消えることはないのだ。
そして それは きっと、
これから先も ずっと・・・