言ふならば馬鈴薯のやうな妻である 宙
金子兜太・選のこの句はどうも評判がよくない。
まずは、弟とそのパートナーからクレームがついた。「姉さんをじゃがいもとはひどいんじゃないの。」
妻もまたあまりこの入選を喜んでいないようであり、秘かに、弟のクレームに同意しているようにも思える。
私は「じゃがいも」とは言っていない。「馬鈴薯」と詠んでいるのだ。「馬鈴薯」に「じゃがいも」とルビも振っていない。
「じゃがいも」の窪みはえくぼなどに例えられ愛らしい面はあるが、大方のイメージは「やぼったい」「武骨」「ありふれた」と言うところだろうか。
私は妻をそのように比喩していない。「馬鈴薯」と漢字書きにし格調高いイメージを描き出したつもりである。学術用語とは言わないが、統計資料などでも「じゃがいも」ではなく「馬鈴薯」が使われている(と思う)。
妻は、ごつごつとしセンスが悪く、その辺に転がっているような妻ではないのである。格安日帰りバスツアーで立寄る「道の駅」の詰め放題300円のそれではない。軽乗用車購入の成約のお礼「ホクレンセレクトカタログ」の「男爵」くらいのステータスはあろう。(カタログにもじゃがいもとは書いていない。男爵なのである。できればカタログにメイクイーンを載せてほしいと希望しているくらいである。メイクイーンと言っても、新幹線の先頭車両のような流線型をイメージされても困るが。)
声に出して読んでみてほしい。「ば・れ・い・しょ」・・・いかがだろうか。ほくほくと温かく、丸い形の姿が浮かんでこないだろうか。
それが私の妻なのである。
なぜ「新じゃが」でないのかって?私は、見たままを詠んでいるのであって、希望を詠んでいるのではないと言っておこう。