太平洋戦争前に生れたのでもなく、戦後に生れたのでもなく、終戦の2年前に生れた私にとって、政治的に高揚した時期はいつだったのでしょうか。時代がファナティックに動くとき、私はいつもそれより少し「遅れた」年齢だったような気がします。60年安保のときは高校1年、まだ政治に目覚める年代ではなかったように思います。70年安保、すでに就職して数年、社会生活の中で私の政治的関心は薄れていました。
次第に「無関心」になっていく私に、痛烈に突きつけられた言葉があります。東大・安田講堂に立てこもった学生たちの書いた「落首」の中の一文。「一月はこんなにも寒いけれど、唯一の無関心で通り過ぎるものを俺が許しておくものか」。すでに「戦えなくなっている」自分に気付き、学生の言葉に撃たれ、「無関心」になって現実から逃避することを厳しく諌めた記憶が鮮明に残っています。
コロナ禍の中にあって、人と人との関係性が薄れているためでしょうか、人々には「無関心」の様相が顕著であるように思われます。緊急事態宣言が発出されても「べつに私には、特に」「えー、政治の責任でしょう」「自粛なんてしたくない」「関係ない」。短い言葉で、人やもの・こととの関係性を切断してしまいます。無関心を装うことによって、義務を果たすことも責任を取ることも回避してしまうのです。何て楽な生き方なのでしょう。
「研究は勝つまで負ける」といったのは生物学者の長沼毅です。ここには一切の無関心が入り込む余地はありません。強烈な関心をもって突き進む情熱が感じられます。
私たちは、いつでも情熱を強く持ち、高揚するべきなのかもしれません。「べつに」「えー」「やりたくない」「関係ない」と逃げるわけにはいかないのです。「できない理由、変えない理由を並べ立てること」はやめなければなりません。さも訳知り顔で、できない理由、変えない理由はいくらでも挙げたてられるのです。長沼は「思い込みを捨てて、思い付きを拾え」ともいいます。どうすれば改革が可能かと考え続けるところに道は開けます。
現在の学びをどのように継続するのか、所属する組織や活動をどう見直すか・・・ここにも改革しなければならない課題は山積しています。長く困難な道が続くでしょう。困難の後にこそ出口が開けるのです。「無関心」でいることが、入口も出口も閉じてしまうと知るべきなのです。これなら出来るという小さな目標を立てて実行したいと思います。自戒を込めて。