「『花咲き山』に添えて」~作者の斎藤隆介さんが次のように書いています。
「(前略)日本の人民は、自分たちをおさえていたものをとりのぞかれて、自分を一杯に生きる自由の喜びの中から戦後の歴史を始めました。/しかしまた、戦後の歴史のもう一つの太い心棒は、われわれは一人ではなくてみんなの中の一人だ、という自覚を持ったことです。/みんなの中でこそ、みんなとのつながりを考えてこそ、自分が自分だと知ったことです。/そして更に、一杯に自分のために生きたい命を、みんなのためにささげることこそが、自分を更に最高に生かすことだ、と信じてその道を歩きはじめた人々がおおぜい出てきました。/『花咲き山』はそういう人々への讃歌です。/ そしてそういう少年少女が、この国にたくさん生(お)い育ってほしいという作者の祈りの歌です。(後略)」
作者の子どもたちへの願いは明快です。「一杯に自分のために生きたい命を、みんなのためにささげ」自分を最高に生かしてほしいと願っているのです。『花咲き山』の「あや」はそんな少女なのです。祭りが近い日、妹の「そよ」は「おらサも みんなのように 祭りの赤いべべかってけれ」と泣いて母親を困らせたとき、姉であるあやは家が貧乏で二人分の祭り着は買えないと知り、自分は「しんぼう」し「おっかあ、おらはいらねえから、そよサかってやれ」と言います。その時に「花咲き山」に赤い花が咲いたのです。
双子の兄弟の兄は、弟が飲む母親の「おっぱい」を、「あんちゃん」だからと思い、目に涙をためて「しんぼう」します。その涙が咲き初める青い花の露になる。「あや」も「あんちゃん」も自分のしたいこと、ほしいものを、自分より弱い弟や妹のために我慢し、譲ります。自分の生きたい命を、みんなのためにささげ、それが自分を最高に生かしている生き方なのだという具体的な姿がここにはあります。
なぜ「あや」や「あんちゃん」はこのような「思いやり」のある行動がとれるのでしょう。もちろん、弟や妹の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようとする拓かれた心にあることは明らかです。
しかし、それだけで、とらわれやすい利己心を捨て、他の人のために生きられるのでしょうか。共生のための積極的な心情・行為はさらに「大きなもの」とのつながりがあるのではないでしょうか。それが「恩」であるという。松浦勝次郎氏は「思いやりの心は誰にでもあるのですが、その原点は、恩を感じ、恩に感謝し、恩に報いることです。」と書いている。(「モラロジー教育」№132 「恩にもとづく道徳教育」)人間の心を持った人~精神的な親~に育てられ、その恩を知ること抜きに本当の思いやりの心は育たないと指摘しています。
「あや」や「あんちゃん」に思いやりのある行動をとらせた「恩」とは何でしょう。二人が感じている「恩」とはそれぞれの兄弟や親に対する恩ではないか。ふたりは同じ時に同じ環境に生まれ、ともに影響しあいながら生きている兄弟への感謝、その兄弟として生んでくれた親への感謝、さらにその親につながる祖先への、産土への感謝を「恩」として感じているのです。そのような「恩」への「恩返し」として「思いやり」の行動が表出するのだと思います。
「思いやり」とは、根底にある「恩」への感謝として、相手の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようという心遣いに支えられ、「恩に報いる」行動として表出するのです。
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