何事に対しても自分の考えを曲げず、頑ななまでに我を通そうとする人がいます。
かくいう私も、結構思い込みが強く、一方的な見方を重ね、新しい視点の獲得に至らないことが多々あります。「あっ、そうなんだ」というわかり方をたくさんしたいとは思うのですが、身体も頭も固くなりつつある状態ではなかなかそれも叶いません。分かったつもりになってしまい、それ以上分からなくなろうとしないのです。つまり、思い込みの強さが私自身の視界~ものの見方考え方を狭くしているのだと気づいてはいるのですが。
日常生活の中での思い込みに気付き、その考えを少しずらすだけで、生活が以前より快適?になることがあります。酒は淡麗純米、おこしは何て言ったって浅草常盤堂だよね、京都の漬物はぶぶ漬けでなくちゃあね・・・・。何もそんなに拘らなくてもおいしいものはたくさんあるのです。単なる食わず嫌いで損をしていることもたくさんあります。
ことは食べ物に限りません、例えば読書、瀬戸内寂聴さんの本は何となく手に取っていませんでしたが、俳人の真砂女をモデルにしたという『いよよ、華やぐ』を読んで以来、西行を描いた『白道』良寛の『手毬』北原白秋をモデルにした『ここ過ぎて』と立て続けにその筆力に引っ張られて読むことになりました。もっと早く読んでおけばよかったと後悔もしました。
日常の細かい点はともかく、続けている研究の面で自分の考えに執着するー「思い込み」が強くなると自己満足に陥り、相手に響かない結果になってしまいます。
日々深化している「学問」の広がり・深まりに関心を寄せ、新しい知見を吸収していなければ、研究を深めることはできません。特に若い研究者の考え方には関心を持ち続けたいと考えています。
最近知った瀧本哲史氏。残念ながら昨年早逝してしまいましたが、彼の著作『君に友だちはいらない』や『武器としての決断思考』などから多くを学ばせてもらいました。彼は、中高校生のディベート甲子園の立ち上げもしました。
もちろん新しいものに何でも飛びつけばいいというわけではなく、右顧左眄し、自らの立つ位置を絶えず移動させることがいいと言っているのでもありません。自らの立脚点を、新しい視点から見直し続けなければならないと考えているのです。
「分かるとは分からなくなること」「分かるとは分かり続けること」~これが私の研究の中心的な考え方でもあるのですから。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます