人間がどこまで近づけば鳥が逃げるか,その距離を「逃避距離」という―中学生の頃に聞いた記憶があります。
その距離が短いほど,文化程度が高い(?)という話だったと思います。当時,私は米を撒いた上に,ざるを棒で支えただけの罠を作り,物陰から紐を引き,すずめを捕らえて、なんと食べようとしていました。「逃避距離」の話を聞き,自分の文化程度の低さと空腹を呪ったものでした。
さて,「挨拶距離」―私の造語です。
現役時代、その時々の勤務校で昇降口に立ち、子どもたちと挨拶を交わしました。毎日挨拶を繰り返していると、この「挨拶距離」が伸びていくのです。はじめの頃は,近づいてきても声が小さく,会釈もできない子どもがたくさんいました。仕方ないことです。新任の、人間関係もない校長(園長)が突然「おはようございます」と声をかけ始めたのですから。しかし,日がたつにつれ,子どもたちは会釈ができるようになり,少しずつ「おはようございます」の声も出始めました。
中学校の時は、生徒主体の挨拶運動,PTAの方々の協力,教職員の声かけ・・・それらが相乗的な効果を発揮したようです。黙って私の前を通っていた生徒が,会釈をするようになり,小さいながらも声が出るようになりました。次には,離れていても私よりも先に挨拶ができるようになる。とても嬉しいことです。生徒達の元気な挨拶の声を聞くと,夏の日ざしに涼しさを感じ,冬の朝の厳しい寒さも緩んでいきました。
「おはようございます」の声が大きくなるにつれ,「挨拶距離」は伸びていきます。
遠くからでも挨拶ができるようになってきたのです。「逃避距離」とは逆に,距離が伸びるほど「親しさ」が増していったといえるでしょう。「挨拶距離」が遠くなればなる程,「学校文化」の程度は高くなる―そう言ってもいいと思います。
また「挨拶距離」が伸びるにつれて「逃避距離」(適切な使い方ではありませんが)は短くなります。つまり、私と子どもたちの「親密度」が増していったのです。近付いて話しかける中学生や小学生、首に飛びついてくる園児たち・・・。エプロンのポケットは子どもたちの季節のプレゼントでいっぱいになりました。桜の花びら、ヒマワリの種、キチキチバッタ、どんぐり、時にお手紙・・。
挨拶から始め近くに触れ合えば触れ合うほど「愛着」が増していく。
ところがコロナ禍にある今は「愛着」形成が困難な時期です。登校していく子どもたちからも大きな声が聞こえません。ソーシャルディスタンスの取り方が徹底されているのでしょう。本来は、挨拶距離は遠いより近い方がいいに決まっています。肩に手を置いて話せばあたたかし なのです。でも。いくら近くても話せないのでは愛着の形成もままなりません。距離が離れていたら、話す回数を多くすればいいのかもしれない。
そうだ、今日は電話をしよう。離れて暮らしている新一年生の孫に。
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