単一のものの見方ではなく「多様な視点」を持ちたいと思いますが、なかなか難しい。
中学1年のとき、親しい友人が病死しました。葬儀場で、死んだ友人と最も親しかったFが元気に笑いながら冗談を言い続け、その後しばらくその「不謹慎」が話題になりました。しかし「躁的防衛」を知った今ならFは躁状態にいなければならなかったほど辛かったのかもしれないと、違う見方ができます。
これまで本を読み、音楽や絵画に親しみ、外国の違う文化に触れ、多様なものの見方を学んできました。教育方法の一つとして「視点の転換」を提唱し、自らの狭くなりがちな視点を変えてきたつもりです。しかし、それでもまだまだ多様なものの見方が足りないことに気付かされる日々です。
一茶の句
団扇の柄なめるを乳のかはり哉
の鑑賞も同様です。
一茶といえば 雪とけて村一ぱいのこどもかな を思い出します。一茶は俳文集『おらが春』などに子どもの句を多く残しています。掲句ですが、赤ちゃんはなんでもよく口に運び、目が離せません。まして空腹だとしたら、団扇の柄さえも舐めてしまうでしょう。まだいたいけない子どもが、母親のおっぱいを欲しがり、団扇の柄をなめているかわいらしい様子を詠んでいると鑑賞できるでしょう。
でも、この子どもの母親が亡くなっていたとしたらどうでしょう。そして、この子を見ているのがその父親だとしたら。一転、この句はとても深い悲しみを帯びてきます。実はこの句には前書きがあります。「母に遅れたる子の哀さは」。この句が詠まれたのは一茶が還暦直前の時です。亡くなったのは「団扇の柄を」舐めている子、3男・金三郎の母、つまり一茶の妻であるきくです。きくは、金三郎を生んですぐに37歳の若さで他界しているのです。「団扇の柄」は、母を亡くした金三郎の様子を詠んだ句なのです。そしてこの子も1歳9か月で夭逝してしまいます。この子もと書きましたが、一茶はこの前に、すでに3人の子を亡くしています。長男は、生まれてわずか1か月で、その後授かった長女・さとは1歳1か月で。一茶は慟哭の句を詠みます。
露の世は露の世ながらさりながら
悲しみはさらに一茶を襲います。さとを亡くした翌年、次男・石次郎は、正月の鏡開きの日に、母親・きくの背なかで窒息死してしまいます。
もう一度せめて目を明け雑煮膳
掲句を詠む前に一茶は3人の子を亡くしているのです。子どもたちと楽しく遊んでいるイメージのある一茶ですが、彼の生涯を知って読むと~一句の背景に視点をおいて読むと~句の観賞がまた違ったものになります。
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