びっくりしました。ギリヤーク尼ケ崎、86歳、現役で踊っているなんて…。名前を知ったのは、学生演劇をしてた頃。「尼崎」とつくギリヤークさんは、尼崎の人と思ってたら…函館出身の方でした。当時は、いわゆる「舞踏」が今よりも一般的に知られていたように思います。世界的に有名な「山海塾」の活躍や、京都には「白虎社」があり、深夜番組によく出演していまた。当時は、白塗りの舞踏を割合テレビで普通に見られていたのですから、面白い時代でした。奈良は桜井出身の舞踏家は、あの御大、麿赤児がいますね。そんな流れの中で、ギリヤークさんのことを知りました。舞踏公演というのでなく、路上で踊るのがギリヤークさんのスタイル。ちょっとこわいもの見たさみたいなところもあり…。失礼ながら、このテレビ番組を見るまで、今もご健在で現役ということも知らず、本当に驚きました。
番組はNHKのEテレの特集。「その名は、ギリヤーク尼ヶ崎 職業 大道芸人」。日々の暮らしの中で稽古を続け、毎年恒例の新宿での披露に向けてのドキュメンタリーでした。86歳のギリヤークさんは、弟さんの世話無しには暮らせません。原因不明の病気、後にパーキンソン病とわかるのですが、手の震えが止まらず、背中も曲がり、唾液も口から流れ出ている…そんな暮らしを弟さんが支えている。市営のアパート、年老いた兄弟二人の暮らしは、決して豊かとはいえません。老老介護の現場を見るようです。けれど、ギリヤークさんは、自分の体がどうだろうがも、暮らしがどうだろうが、踊ることしか前にない。曲がった背中を支えるためのコルセットや、骨と皮のような肉体が映るたび、見ているこちらが辛くなりますが、直にそんなこっちの感情なんて大きなお世話で、どんな体でどんな暮らしであっても、彼には全く関係無く、ただ「一途」な「踊り」への思いがあるのだと、見ているこちらもわかってきます。その「一途」を支える弟さんは、時に動作を促し、時に叱り、兄の世界とは関係無いものに見えますが、実は兄のベクトルと方向が違うだけで、弟もまた、兄の「踊る」「一途」さと同じ「力」を持っている、そう感じました。好きなことをしてきた兄と全く反対の生き方し、七十半ばになった自分が、兄の世話をしながら生きている。普通ならとても一緒にいられないな、と私などは思いますが、弟さんにしてみれば、あまりにギリヤークさんが「踊る」だけの人なので、このただ「踊る」だけを見届けよう、という、境地に至ったのかもしれません。ある意味、これはギリヤークさんの番組でなく、弟さんの番組のようにも思えました。「二人が別れる(死)」まで暮らしを前に進めること、それを担っている弟さんの時間が、垂直に屹立する兄、ギリヤークさんの時間と交わり、兄の踊りの本番に、今を生きる二人の時間が亡くなった母の過去の時間と合流してようやく、ギリヤークの芸、「念仏じょんがら」が完成する、そんなに感覚を受けたのです。
とまれ、毎年恒例となっている秋の新宿公演までの日々は、もう無理でしょうとテレビの前で思うくらい、壮絶でした。なのに毎日1時間、近所の公演での稽古はかかさないのです。弟に押されて車椅子で移動する彼のどこに、あんな踊る力があるのか、ただただ驚くばかり。しかも、本番の様子は、客もまきこみ、叫び、階段も上がり、じょんがら節の激しい音に全くひけをとらない、86歳がいたのです。彼の芸になぜ、こんなに胸を打たれるのか。何も隠すものがない、ただありのままの姿、赤いフンドシ、乱れた髪、曲がった骨を支えるコルセット、皺だらけで骨と皮の肉体…。何も隠すことのない、ギリヤーク尼ヶ崎の肉体と精神が、私たちの中に楔を打ってきます。価値感をひっくり返すのです。
「着飾ってなんぼ」「いい学校出てなんぼ」「給料これだけもらってなんぼ」…そういうものに「なんぼのもんじゃい!」と、まるで仁義なき戦いの菅原文太のような物言いになってしまいますが、そういうことなのです。いろんものに寄りかかり、見栄をはり、自分の周りにゴタゴタくっつているものを「なんぼのもんじゃい!」と一喝するような…そんな踊りです。
かつて「河原者」と呼ばれた人たちが、芸能をなりわいとした歴史がありますが、とにかく飯を食わねばならないのです。ならば、自分の身こそが唯一の糧となります。能も歌舞伎も、生き残るために、生きるために、新たな芸を生み、工夫をする…血の滲むような努力があったことでしょう。「芸」というものは、生きることの切羽詰まった形の一つとしても、見ることができるのではと思います。
その「芸能」の原初的な姿を、ギリヤーク尼ヶ崎の芸に見て、涙が出るのかもしれません。(この系譜に連なるのは、「江頭2:50」しかいない!?)
「芸」とは何もかもを取り払ったところにある「輝き」を見られる唯一の魔法、そんなことを確信する番組でした。
来年も新宿でギリヤーク尼ケ崎、咲けよ!!
番組はNHKのEテレの特集。「その名は、ギリヤーク尼ヶ崎 職業 大道芸人」。日々の暮らしの中で稽古を続け、毎年恒例の新宿での披露に向けてのドキュメンタリーでした。86歳のギリヤークさんは、弟さんの世話無しには暮らせません。原因不明の病気、後にパーキンソン病とわかるのですが、手の震えが止まらず、背中も曲がり、唾液も口から流れ出ている…そんな暮らしを弟さんが支えている。市営のアパート、年老いた兄弟二人の暮らしは、決して豊かとはいえません。老老介護の現場を見るようです。けれど、ギリヤークさんは、自分の体がどうだろうがも、暮らしがどうだろうが、踊ることしか前にない。曲がった背中を支えるためのコルセットや、骨と皮のような肉体が映るたび、見ているこちらが辛くなりますが、直にそんなこっちの感情なんて大きなお世話で、どんな体でどんな暮らしであっても、彼には全く関係無く、ただ「一途」な「踊り」への思いがあるのだと、見ているこちらもわかってきます。その「一途」を支える弟さんは、時に動作を促し、時に叱り、兄の世界とは関係無いものに見えますが、実は兄のベクトルと方向が違うだけで、弟もまた、兄の「踊る」「一途」さと同じ「力」を持っている、そう感じました。好きなことをしてきた兄と全く反対の生き方し、七十半ばになった自分が、兄の世話をしながら生きている。普通ならとても一緒にいられないな、と私などは思いますが、弟さんにしてみれば、あまりにギリヤークさんが「踊る」だけの人なので、このただ「踊る」だけを見届けよう、という、境地に至ったのかもしれません。ある意味、これはギリヤークさんの番組でなく、弟さんの番組のようにも思えました。「二人が別れる(死)」まで暮らしを前に進めること、それを担っている弟さんの時間が、垂直に屹立する兄、ギリヤークさんの時間と交わり、兄の踊りの本番に、今を生きる二人の時間が亡くなった母の過去の時間と合流してようやく、ギリヤークの芸、「念仏じょんがら」が完成する、そんなに感覚を受けたのです。
とまれ、毎年恒例となっている秋の新宿公演までの日々は、もう無理でしょうとテレビの前で思うくらい、壮絶でした。なのに毎日1時間、近所の公演での稽古はかかさないのです。弟に押されて車椅子で移動する彼のどこに、あんな踊る力があるのか、ただただ驚くばかり。しかも、本番の様子は、客もまきこみ、叫び、階段も上がり、じょんがら節の激しい音に全くひけをとらない、86歳がいたのです。彼の芸になぜ、こんなに胸を打たれるのか。何も隠すものがない、ただありのままの姿、赤いフンドシ、乱れた髪、曲がった骨を支えるコルセット、皺だらけで骨と皮の肉体…。何も隠すことのない、ギリヤーク尼ヶ崎の肉体と精神が、私たちの中に楔を打ってきます。価値感をひっくり返すのです。
「着飾ってなんぼ」「いい学校出てなんぼ」「給料これだけもらってなんぼ」…そういうものに「なんぼのもんじゃい!」と、まるで仁義なき戦いの菅原文太のような物言いになってしまいますが、そういうことなのです。いろんものに寄りかかり、見栄をはり、自分の周りにゴタゴタくっつているものを「なんぼのもんじゃい!」と一喝するような…そんな踊りです。
かつて「河原者」と呼ばれた人たちが、芸能をなりわいとした歴史がありますが、とにかく飯を食わねばならないのです。ならば、自分の身こそが唯一の糧となります。能も歌舞伎も、生き残るために、生きるために、新たな芸を生み、工夫をする…血の滲むような努力があったことでしょう。「芸」というものは、生きることの切羽詰まった形の一つとしても、見ることができるのではと思います。
その「芸能」の原初的な姿を、ギリヤーク尼ヶ崎の芸に見て、涙が出るのかもしれません。(この系譜に連なるのは、「江頭2:50」しかいない!?)
「芸」とは何もかもを取り払ったところにある「輝き」を見られる唯一の魔法、そんなことを確信する番組でした。
来年も新宿でギリヤーク尼ケ崎、咲けよ!!